蛆の女

日車文

蛆の女

 ある夕方。蛆を見つけた。

 夕餉の買い出しから帰る途中、空き地で。帰り道に連なるその空き地は長く買い手がつかない土地らしく、近所の子供達にとっては恰好の遊び場となっていた。夕暮れも深まり、赤い太陽の筋が長く伸びる空き地にはもう人の姿はなかったのだが、ふとなんとはなしに入ってみようという気になった。

 空き地のちょうど中央には、誰かが落としたまま拾い忘れたらしいメンコが一枚転がっていた。女は食品の入った荷物を手に、その横を目もくれず通り過ぎる。彼女は引き寄せられるように奥へ進んだ。たいして広くもない空き地である、土地の端へはすぐにたどり着いてしまった。隣の区画との境目、家と空き地を遮る木製の塀の根本。そこに何やら白く小さいものが蠢いているのに気づいて、足を止めた。

 蛆だ。

 小さく、丸みを帯びた身体。重なりあった節がうねうねとその肥太った身体を縛り上げている。薄く半透明な白は、虫眼鏡で覗けばその中身が見えてしまいそうだ。一寸もないその身の先についた頭は不釣り合いなほど小さすぎて、自らの肉に埋もれている。本来腐肉に涌くはずのそれは草葉の陰で己の存在を主張するように場違いな白い身体をくねらせていた。地を這いずる白。うっすらと、その表面には内臓の黒い筋が浮いている。

 紛れもない、蛆だった。

 なぜこのようなところに一匹だけ落ちているのかは分からなかったが、蠅の幼虫は確かにそこにいた。芋虫の身体を捩って、空き地から抜け出そうとしている。彼にとっては餌となるもののない、広すぎる世界は居心地が悪いらしい。

 明らかに気持ちの悪いそれから、女は目が離せなかった。

 蛆虫を初めて見たというわけではない。しかしこうして改めてしっかり視界に映すとなおさら動きや見た目が奇怪の一言に尽きた。こんなにも白いのに、空を飛ぶ羽も持たないのに、彼はいずれ蛹になり、その身体からは細い足が、透明に筋を持つ羽が、長く刷毛のような触角が生え、黒い身体は宙を舞うのだ。大きく発達した丸い目の集まり。舐めとることに特化した口。腐臭にたかり、指先を神経質にすり合わせる仕草。

 いったいどこからそんなものが生えてくるのだろう。

 興味というには些か心許ない、けれど無関心というにはあからさますぎる感情が芽生えて心を覆っていく。不思議と、植物の緑と地面の黒から浮き立つ白に目が吸い寄せられて動けない。

 地面を這いずる様を見る。

 のたくる動きに視線を絡めとられる。

 蠢きながらのろのろ移動するそれを追って、微かに下駄を履いた足先が動く。

 ぶら下げた手提げ袋の紐が指先に食い込み、握りしめて、一つ息を吐いた。

 ――ここで潰してしまおうか。

 小さな虫の命に愛しさが湧いたなんてことはない。ただ、この蛆を発見したのは自分だけ、有り体にいえば子供じみた独占欲に似た何かがこみ上げて、そんなことを思っていると。

 ふと。

 蛆虫が、こちらを見た気がした。

 女はその小さな幼虫に気をとられ、たっぷり日が暮れるまでずっと、それを眺め続けていた。



 翌日女が空き地を訪れると、蛆は昨日とまったく同じ場所にいた。その白い身体を地面に擦り付けて、蛆は彼女を待っていた。

 女は昨日と同じようにそれを眺めた。たいした動きもしないくせに、蛆は彼女を飽きさせなかった。端から見れば何もないところをぼんやり眺めているだけの女、彼女を奇異に咎める視線はその痩躯をすり抜けて壁に刺さった。ただ蛆の視線だけが彼女を捉えくるめた。着物の裾がずれないよう気を払って空き地の奥にしゃがみ込んだ女は、口元を袖で覆い蛆を見る。

 彼女はその小さな白い幼虫に何もしなかった。手を触れることもなければ外敵から守ってやることもせず、ただ眺めるのみに任せた。色彩豊かな大地に横たわる空白の点は目立つようでいて、その実小ささ故に人間も鳥も猫さえもその存在に気づいたものはいなかった。ただ女だけが、彼に気づいたのだ。

 確かに誰にも気づかれずうっかり潰されやしないか心配のよるところではあったが、何しろ彼の居場所は空き地の隅である。そう易々と踏み潰されることもないだろう。

 彼女はそうして来る日も来る日も時間をつくって空き地に寄っては蛆虫を眺め続けた。彼は常に空き地のはじっこにその定位置を置き、女を待っていた。言葉を交わすこともない、触れることもない、ただ見つめ続けるだけの関係。甘美にして崇高な関係は続いた。

 気がつけば蛆のことを考えている。否、考えずにはいられないのだ。彼が私を待っている。そう思うといてもたってもいられなくなるのだ。その醜悪な白い身体を日の目に晒し、艶めかしく蠢く一匹の虫。拍動に合わせて濃淡を変える薄墨の筋。どこに在るかも分からぬ微少な眼達が私を映して突き刺す。蛆が彼女の世界を変えた。一変した世界は彼の白さを際だたせるためだけにその鮮やかな色彩を一層華やかに、派手にこしらえた。空の抜ける青さも地面の深い焦げ茶も、果ては喉を潤す水の無色でさえ、紙の切れ端のような白さの対比としてあった。

 蛆は女を待ち、女は蛆と時間を共にした。彼女の心に時間をかけて根を張り枝を伸ばした些細な好奇心は、もはや彼女の奥底にまで巣食ってその目を釘付けにした。

 昼も夜も夢の中でも、彼女は蛆を望んだ。



 ある夜のこと。

 普段より帰りが遅くなった。辺りは既にすっかり闇に落ち、底の見えない紺が周囲を呑み込んでいる。外灯なんて存在しない町の路地は薄暗く、独り身の女は自然と足早に帰宅を急いだ。手に荷物を持ち、暗い道に下駄の音を響かせて歩く。左右の一軒家からは硝子越しに暖色が漏れている。時折団欒の楽しげな笑い声と、隙間から忍び出てきた香ばしい夕餉の匂いが彼女の孤独を焼いた。

 楽しそうだなァ。

 そんなことを小さく呟きながら、彼女は通い慣れた道を通って家路を辿る。

 ある場所を通ったとき、反射的に足が止まった。開けたそこはより深く濃紺を纏って沈んでいる。昼間は人々の憩いの場になり、夕方まで育ち盛りの子供に遊びの場を提供し続ける空間も、夜の暗がりでは閑散として疲れていた。闇を透かしてその場を寝床と定めた白を探すが、流石に空き地の奥は見えなかった。小さな影は、その存在を完全に夜の帳の中へ隠していた。

 このところほぼ毎日蛆を眺めに通い詰めていた女は、今日くらいいいかと踵を返した。

「――」

 背後で。

 女を呼ぶ声がした。

 か細い、しかし意志のはっきりした声が、女の名前を呼んだ。

 足下から背筋を這い上り、肉を齧り汁を啜るような声が、呼んだ。その声は女の心の臓に穴を開け、つるりとした白い身体を組織の中へ滑り込ませた。

 思わず振り返った女は暗闇に目を凝らして、そして、見てしまった。

 蛆虫が変態している。がさりごそりと異様な音を立てながら、その筒状の白い肉体は歪に変形して、蠅としての姿を為そうとしているようだった。豆粒より小さかったその身は何倍にも膨れ上がり、幼児程度の大きさはあるだろう。膨れた身体をぶるぶる震わせて、蛆虫はこちらへ向かって這ってくる。転がるように、小さな前足を引きずって女めがけて寄ってくる。遅々として進まない動きは平衡を崩し、白い塊が空き地の中央にどうと転がった。力なく宙をもがくいくつもの足が、次の瞬間一気に内側へめり込んで、さらに次の瞬間には六本の黒々とした細い脚が一気に飛び出た。蠅の脚だ。

 蛆の胴に蠅の脚が生えている。重そうな身体に不釣り合いな長い細身の脚は当然白い身体を支えきれず、蛆蠅は地に伏した。鉤爪の形をした脚先が地面を引っかく音が聞こえてきそうだ。カリカリ、カリカリ。

 土に痕を付けるだけでその役目を果たさない蠅の脚は、一瞬おいてまた引っ込んで蛆の足に戻っていた。次いで今度は背中が引っ込み、団扇ほどの大きさの羽が生える。それもまたぱたぱたと動くのみで蛆の体を持ち上げるには至らない。羽が引っ込み、正面の顔が内側に反転して蠅の相貌になった。闇に浮かぶ白い芋虫の胴体、複眼の大きな昆虫の顔面、黒い触覚。蠅はきぃきぃ呻いた。

 あまりに奇怪であまりに醜悪。蛆虫の部分と蠅の部分をあべこべに混ぜながら、蛆とも蠅ともつかない生物はゆっくり、確実に、こちらへ迫ってくる。空き地の入り口を目指して。奇声を発し、時に転がりながら、彼はこちらへにじり寄る。彼の視線を今度ははっきり感じた。

 蛆虫の胴体がぱっくり割れて、内臓を反転させながら今度は蠅の胴体になった。白から黒へ暗転するその刹那、蛆虫の胎内から伸びてきた人の腕を見てとうとう女は悲鳴を上げて逃げ出した。

「――」

 走り去る女の背後に、また弱々しく名を呼ぶ声が貼りついた。



 彼女はあれ以来蛆を見ていない。

 それどころか、あの夜以来空き地にも行かず、通る道も変えた。一夜の夢か、幻覚か。強烈な体験は仔細を思い出そうとするとどうも朧気で、ただ彼の「声」だけが耳の奥に粘着質に張り付いて取れなかった。

 蛆虫があの後どうなったのか、気になるといったらそうだ。膨れた身体を持て余していた蛆虫は完全変態を終えてどこかへ飛び去っていったのか、それともあの夜の情景は全て自分の妄想で、彼は今も変わらずあの空き地の寂れた隅で自分を待っているのか。息を吐くごとにその疑問は水を吸って膨れ上がり、女の心を内から圧迫し始めた。

 元々飽きずに彼を眺め続けた女である。蛆は彼女に恐怖という感情を植え付け、さらに好奇の樹木へ養分を与えたに過ぎなかった。

 怖いもの見たさ、命知らず。無鉄砲な情動が突き動かした足は、理性とは反対に慣れ親しんだ空き地へと身体を運んでいた。

 まだ昼を過ぎた頃の空き地にはたくさんの子供がはしゃぎ回り、思い思いの遊びへ興じている。頭上では雲一つない空に浮かんだ太陽がじりじりと地を焦がしている。けれど女は最初の出会いとまったく同じ、全てに背を向けて空き地の奥へ突き進んだ。

 果たして、蛆は未だそこにいた。

 最初と同じ、豆より小さい体を震わせて、彼は女との再会を喜んだ。白無垢の身体はあの夜の蛮行を露知らず、ただ女の下駄にすり寄って歓喜した。変わらない蛆の姿に安堵して、女の顔が綻ぶ。

「――」

 蛆が女の名を呼んだ。

「はい」

 女がそれに応えた。

 白が伸び上がる。瞬きのうちに女の背丈を超えるほど膨れた蛆虫は、長く蓄えた生娘の視線を纏い、一斉に身体の節を捩った。

 驚く女の前で白い皮が破け、その中から洋装の男が現れる。異国の礼装に身を包み、肌は蛆のように白く、くすんだ金の髪は内臓の筋のように。

 かつて外交の港で、あるいは雑誌の中で見かけたような見目麗しい男が、艶やかに微笑んだ。女の描いた理想の男が、名を呼んだ。羨望と憧憬の麗人が、和服の女の手を恭しくとって口づけを落とす。

 革靴が一歩距離を詰め、女をかき抱いた。和服の合わせ目から男の骨ばった掌が忍び入ってきた。

 嗚呼、彼のものになるのかと、呆然と思う。初めはただの蛆であったはずのものに。それは中身の知れない鞄のように、人から成った植物のように異様でありながら、一方でよくある御伽噺のような屈折した浪漫を持っていた。

 恐怖がないわけではない。

 けれどこれも悪くないかと思えるのは、どこかで諦観の念を受け入れてしまったからなのかもしれない。拾う自由があれば捨てる自由もある。単なる興味にしては不可逆な変化だが、身を委ねてしまえば簡単だ。崩れる足元から逃げ出して、導く手を掴むだけ。

 君にその服は似合わないよと男が言った。

 女は考えるのをやめることにした。ただ彼の甘言にのる。

 男の肩越しに眺めた空が遠い。普段より青空が広く見えるのはなぜだろう。広く、遠く、大きな空。どこまでも澄み渡った空は、ある日突然真っ暗に陰って女を押し潰した。

 鬼ごっこに興じていた子供が気づかずはしゃぎながら走り去る。

 黒く濁った地面には、踏まれてひしゃげた雌雄つがいの蛆虫が二匹、無様に潰れて死んでいた。

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