第6話「今見せろ、おまえの底力を…」


「依頼? なんの話?」

 ともこは公園でバットを振っていた時に、スーツを来た男に話しかけられた。彼から酒の匂いがする。相当な量の酒を飲んだらしく、足元がふらついていた。

「島津製作所の放射能測定機だ。今ここで報酬として100万円渡すから、そのバットで壊すんだよ」

 岸井は酔った勢いでそんなことを口走り、ともこに100万円を無理やり渡した。ともこは困惑した。バットで機械を壊すなんてできない。断ろうとすると、岸井はどこかに立ち去ってしまったので、そのお金を返せなかった。


 翌る日、ともこは再び公園に訪れると、岸井がベンチに座っていた。

「おじさん。100万円返しにきたよ。私に機械は壊せないよ」

「昨日の……」

 岸井は封筒に入った100万円を受け取ろうとして、手を滑らせた。中身が散らばったのを2人で拾い上げた。

「僕はね。すぐそこにある工場の社長なんだよ」

 岸井は諦めたように自分の話を始めた。彼は誰でもいいから自分の苦境を誰かに聞いてほしかった。

「元々、島津製作所で働いていたんだ。そこで研究職をしていたんだけど、ある日、他の企業との間で不審な取引があったんだよ。愛知のそこそこ大きなメーカーが島津の計器を仕入れる見返りに、島津がそこの社員を引き抜いていたんだ。これはまずいことなんだよ。だって、メーカー側の研究機密をうちに持ち込んでいたからね。その引き抜かれた人は研究職に就いちゃって、玉突きで僕が別の部署に配置転換さ。ずっと書類の整理だよ。それで、僕は何のためにこの会社で一生懸命やってきたかわかんなくなって、仕事をやめた。そのタイミングにちょうど親父が死んだんだ。本当に最悪な時期だったよ。

「親父は小さい工場を営んでいて、いつも僕に継いで欲しいっていつも言っていたんだ。僕自身はそのつもりはなかったんだけど、親父が死んでしまってはその会社が形見に思えてきて、それに潰してしまえば、社員が路頭で迷うことになる。結局継ぐことにしたさ。最初は乗り気じゃなかったけど、やってみると案外面白くてさ。人と人の距離が近くて、みんなで一体になって働いているって感じだった。上下関係も厳しくなくてさ。工場は放射能の分析測定機をつくっているんだ。親父が作ったやつで特許も持っているんだよ。

「工場の経営に慣れてきたある日、元職場の同僚がうちの工場にきて、親父の作った測定機を売ってくれってやってきたんだよ。島津は放射能分析の分野で、行き詰まっていて、打開するために親父の技術に目をつけたんだ。驚いたさ。それで、これは親父の形見だから売れないって、親父の残した仕事だから、売るわけにはいかないって。それからは酷いよ。次第にヤクザが押しかけるようになって、社員にも被害が及ぶようになった。それから何人も辞めていったよ。

「挙げ句の果てには、島津は親父の技術を応用して新製品を試作したんだ。うちの技術を知らなければあんな測定機を作れない。誰かが技術を持ち出したんだ。もう腹が立つやら情けないやらで……あんなに大きな企業が、僕の元いた職場がヤクザを使って、小さな工場の技術を脅し取ろうとしてるんだ。おかしな話だよ。僕も島津の研究職にいたけど、島津製作所の技術を僕たちの作っている製品に使ったことは一度もないよ。僕にだってプライドがあるんだ……」

 ともこは岸井の話に聴き入っていた。彼女は彼の話に昔の父の姿を思い出す。彼もまた組織から捨てられた人間なのだ。

 ともこの中で、新たな感情が生まれた。

「わかった。100万円受け取るよ。機械は必ず壊す。おじさんの目の前で」

「えっ? でも…」

「私に考えがあるから、その100万円を使わせてもらうよ」

………


—島津製作所、研究施設前—


 岸井は指定された場所で待っていた。深夜2時に吹いた夜風は少し冷たい。

 岸井の前にタクシーが止まった。降りてきたのは例の女の子だった。バットケースとスーツケースを携えていた。

 岸井はともこの持ち物に驚いた。

「まさか、本当にバットで壊すのかい? 無茶もいいところだ。施設に忍び込めても、防犯カメラが付いてるし、警報システムがあるからすぐに警備員が飛んでくる」

 岸井は思わず訊ねる。

「そんなマネはしない。外からでも壊す方法はある。あっちに行こう」

 岸井はともこの言葉に首を傾げながらともこの言うことに従った。

 ともこは人気の無いところへ向かい、防犯カメラの死角に入ったことを確認すると、スーツケースから阪神タイガースのユニフォームを取り出し、上から羽織った。

「そのユニフォームは岡崎選手の……」

 岸井は大学生だった頃を思い出す。父と一緒に甲子園球場に行ったときのことだ。

 父は熱狂的なタイガースファンだった。自分は強いチームが好きだったからジャイアンツを熱心に応援していたけど。

 その日は父さんが偶然にも、球場の前で岡崎選手を見つけて、サインを貰った覚えがある。そして、その試合で、先発の山下からデッドボールを受けた後、次の打席でホームランを打っていた。

 あのホームランは忘れ難いものがあった。一瞬、外野フライと勘違いするぐらい高く舞い上がるんだ。あれほど月に届きそうな打球は見たことがない。まるで、人の悩みや不安をボールに託して、遠くへ打ってくれるような……。

「君は岡崎選手のファンなのかい?」

 岸井の言葉にともこは首を横に振る。

「岡崎大志は私のお父さん」

 ともこの言葉に岸井は衝撃を受ける。

「えっ!? まさか…」

「うるさい。静かにしないと警察に通報されるよ」

 ともこは岸井を諫めた。彼女は1球のボールを取り出した。

「中にネオジム磁石が入ってる。放射能測定機も、要は放射線を電子に変換して電気信号にしているんでしょ? 測定機を壊すにはそこを狂わせればいい」

 岸井は重ねて驚いた。簡単な説明とはいえ、まだ幼さの残る女の子が、放射能測定機の原理を理解しているなんて…。

 岸井はボールを手渡された。

「それ、私にトスして」

 ともこの言葉に岸井は困惑する。まさか、これを打って機械を壊そうというのか?

「そんな、無茶な」

「私はこのやり方しかできない。それにあんたが私に依頼したんでしょ?」

 ともこは岸井に一枚の紙切れを渡した。

 それは研究所内の設計図だった。丁寧に測定機の場所まで書き込んである。

「こんなものどこから手に入れたんだい?」

「探偵からもらったの。ここからボールを打ち上げれば、あの実験室の窓を突き破って測定機を壊せる」

 ともこはバットを構えた。

 そのフォームは岡崎選手とそっくりだった。

 岸井はボールを見た。選択権は自分にある。

 本当にいいのか? 

 …………いいんだ。

 やられっぱなしのままじゃいけない。誰が何と言おうと、やられっぱなしのままじゃいけない。

 しかし、彼女は本当に壊すことができるのか?

 ……わからない。ただ、岸井はともこの言葉に不思議と説得力を感じていた。どうせ、考え尽くしてもわからないままだ。結局、行動を起こさなければ、状況は良くも悪くも変化しないのだから。

 岸井はともこへボールをトスした。

 ボールはともこのバットに捉えられ、放物線を描いた。

 その打球は、あの日見たホームランと似ていた。どこまでも飛んでいきそうな…

 ボールは研究所の窓ガラスを割って、そばにある測定機を壊した。


 翌日の夕刊の地方欄に小さな記事が掲載されていた。

 島津製作所研究施設の放射能測定機が破壊されたと110番通報があった。犯人はボールを投げ込んで機械を破壊したとみて警察は調査中うんぬん……。そんなことが書かれてあった。

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