水深1.5メートル

帽子いおり

第1話


森林セラピー

水深1.5メートル







コポ、コポ、コポ


耳の近くで音がする。これは、気泡が水面へ上がって行く音。

ゴーグルの中でゆっくり目を開く。透き通った光がキラキラと周りを満たしている。でも、彼方向こうへどれだけ目を凝らしても、だんだん仄暗くなって明瞭には見えない。そんな、静寂の美しい透明世界。


私の、好きな場所。

静かで、落ち着ける場所。

だけど、永遠には居られない遠い場所。







暑い。

今日も今日とて、暑い。


夏休みの真っ盛り、周りの友人は海だのプールだのへ赴いて居るのだろう。だが、人混みがあまり好きではない。暑さのせいで勉強も手伝いもする気が起きない。故に網戸の窓の前で扇風機に向かって自分は地球外生命体だと宣言するくらいしかすることは無いのだ。


「ワレワレハ、ウチュウジンダ」

「ワレハ、チキュウジン。ナニヲシニヤッテキタノダ?」


横から扇風機によって少し歪んだ妹の声が返答する。ゲーム機器を片手にだらけ切った顔でぐでーっと寝転んでいる。妹もまた、暑さに当てられ宿題をする気が起きないという被害を受けている哀れな人間なのだ。

__そんな時、


「我ハ、オ前達ノ救世主。涼ミニ行カナイカ?」


これもまた宇宙人のように歪んだ父の声が、我々に笑いかけていた。

妹と2人で顔を見合わせる。なんとも間の抜けた顔だった。







次々と景色は移りゆく。

右には緑、そして川。左には緑_時々民家。

都会の街並みはもう何処か別の世界のものだったのでは無いだろうかという程の四方八方が緑の異世界だ。

最初は、クーラーを最大出力でかけていた。設定温度は27度。そして、現在の車外気温は26度_外の方が涼しいと気づいたのはつい先程。窓を開けると作られた冷風ではなく心地良い涼風が舞い込んで来た。頬を撫でるそこそこ強い風がたまらなく良い。父が慣れた手つきで運転し、助手席に母、後ろに自分と妹と弟、5人が車に揺られていた。


やがて、車は緑の生い茂った川の近くへ停車した。何度目だろうか、ここへ来たのは。何度も来たようでいて、そこまで沢山来て無いような気もする。川が好きな父親がたまに連れてきてくれる見知った川、そんな川。

川と道路との間に広めの段差があって、そこに野ざらしにされた木の机と椅子のセット、BBQが出来るスペース、鉄棒、ブランコが在る。だが、遊具は使おうと思えない__理由は、蜘蛛の巣である。なにせ野ざらしなのだ、蜘蛛が巣を張っているのは不思議では無い。


「やったー!ブランコだ!」


そこへ強者が現れる。我が妹である。蜘蛛の巣を丁寧に木で払うと楽しそうに漕ぎ始める。妹曰く、小学校では人気で休み時間になった瞬間ダッシュしなければ並ばなければならないという。まぁ喜んでるならそれに越したことは無のだが。蜘蛛にひっつかれて泣かないでくれるのなら。

杉の木同士が重なりあって殆どが日陰だ。長袖長ズボンくらいが丁度いいくらいに涼しい。そして地面はフカフカで、綺麗ならば寝転んでみたいほどだ。この地面は天然の腐葉土で、油断すると靴が半分めり込む所も有るくらいに。しかし地面の土を直接見れる所は少ない。ほぼ全面に落ちた杉の葉らしきものが敷き詰められているが故だ。

スウッと息を思いっきり吸い込むと森独特の香りが胸を満たす。緑の葉の青々しい香り、澄んだほんのり冷たいのがとても心地よい空気。森林浴という言葉が脳裏を過ぎる。街中からは想像も出来ないが、今なら十分に解る。この頭がスッキリする心地良さが、温泉とはまた違った癒しがある。

だが、そんな事は彼等にはまだ理解出来ないだろう。ブランコに飽きた遊び盛りのキョウダイは川に遊びに行ってしまった。


「お前も川で遊んでこい、準備しとくから。」

「いや、いいよ。手伝う。火起こしするの好きだし。川は後で行く」

「そうか?じゃあ__」


頼もうかな、と言われて笑顔で頷き返す。そして黙々と準備を始める。持ってきた半分に切られたドラム缶の様なBBQセットに木炭を空気が通りやすい様に組み、その上と中に周りから掻き集めた杉の葉を溜める。


「お父さん、チャッカマンは?」

「嗚呼…、忘れたからこれで着けてくれ」


ほい、と投げられたのはマッチ。最近は触る事が少なくなった棒、この前に使ったのはいつだったろうか。

シュッと棒を擦ると赤い炎が揺らめく。綺麗だな、なんて惚けて見ていると火が指にまで迫って来て大変な目に遭うのでサッと杉の葉へ引火させる。小さい時にボウッと見ていて痛い目見たのは未だに覚えているほどだ。しばらく煙しか出なかったが本格的に燃え出すともくもくと出ていた煙は消えて大きな炎が揺れる。油断して炭に火がつく前に消えてしまっては困るので木の棒を折って、注意深くトングを使って入れたい場所へ入れておくのも忘れずに。


「お、そろそろ火が着いたんじゃない?お魚の前に貰った野菜を焼こうか」

「うん、じゃあ獅子唐から焼くよ」

「お願いね〜。私は鮎を串に刺しとくね」


母からの依頼を受けて、行動を開始する。まずは火加減を調節するべく赤くなった炭をBBQコンロの全体へ拡げる。そして上から金網を被せ、後は好きなものを焼くだけである。さて、どれから行こうか。

ビニールには先程故意にしている天然の鮎をとても安く売ってくれた方からのご好意で頂いた野菜達が入っている。採れたて新鮮、焼けた獅子唐は炭火でいい加減で色が着き、塩をつけて口へ運ぶ。熱い、ハフハフと猫舌を恨みながら舌の上で冷ます。自分の中の認識として獅子唐とは、苦いもの。だが、噛んでみても苦味なんて一切無い。あるのは野菜の優しい甘さだけ。焼いた分を全て食べてしまうと微妙な喪失感を味わう。もっと食べたくなってしまったのだ。


「…もっと焼いていいよね」

「そうだね。じゃんじゃん焼いてこう」


母も同意見だったようでニヤリと笑って同意する。そしてナスやその他にも色々な野菜が金網に乗っていく。焼いたパプリカはまるで果物の様な甘さと美味しさであった。外で、炭火で焼くと家とは別物になる。次元が違うのだ。全ての野菜がこの様に美味しかったのなら、きっと子供の好き嫌いも消え去るだろうにと、そう思う。因みに家族で好き嫌いする不届き者は居ない。弟がピーマン嫌いなど言った日には皿いっぱいのピーマンが出て、それを食べきらねば他の物を食べさせて貰えない。ある意味拷問かもしれない。そのお陰で弟はピーマンを好きになったらしい。自分自身に言い聞かせてる部分もありそうだが。


「ふー、川の水めっちゃ冷たかった!」

「うわー、水の外出たら寒いー」

「お、お前らが上がってきたならもう鮎焼いてもいいか」

「じゃあ焼くよ」

「わーい!鮎!どこ?早く食べたーい!」

「まだ焼いてすらいないよ」


ウマウマと美味しく野菜を頂いていたら食べ物の匂いを嗅ぎつけたのか弟達が川から上がって来た。何食べてるの?食べるなら呼んでよ、と目で訴えかけて来ていた。もっと早くから美味しい匂いに気付けなかった己の鼻を恨むんだな、残念ながらパプリカは頂いたぞ。なんて考えながらお母さんが串に刺した鮎を手に取る。慎重に金網の間に差し込んで炙り焼く。この鮎がまた、家のコンロと比べ物にならないくらいに美味しいのだ。

しばらく野菜を摘んでいたら鮎に良い感じの焼き色が着いてきた。そろそろだろうか。


「熱っ」


思わず手に取った鮎を取り落としそうになる。鮎に刺さった串が炭火で熱くなっていたようだ。危ない、危ない、地面に落とすなど言語道断。落としてしまえば自分で自分を殴りたくなる程の後悔が押し寄せるだろう。それほど、これは旨いのだ。熱ができるだけ伝わらないようそっと触って背ビレと腹ビレ、そして胸ビレを短い骨ごと抜く。

__そして、背中からガブリ。

ジュワッと魚の油が口に広がる。そう、これ。コレを求めていたんだ。肉やサラダ油では絶対に表現出来ない、コッテリなんて縁のないサラサラの油。振りかけた塩が絶妙な塩分のハーモニーを生み出す。これこそが、至高にして最高の塩焼きであるのだ。

パクパクパクパクパクパク、気付けば手の中には無残な魚の骨しか無かった。

いと、悲し。惜しみながらも骨は一皿に集めておく。後で骨せんべいにしてサクサクと頂く為である。この骨せんべいも美味し過ぎるが故に気を抜くと家族に食い尽くされるのでいつ頃出来上がるのか気にかけて置く必要がある。


「おぉ、もう食い終わったのか」

「うん。美味しくてスグ食べちゃった」

「まぁそこはあのオジサンに感謝しろよ。安く頂いてるんだから」

「勿論だよ」

「そうだ、火加減は見とくから川入って来いよ」

「え、だって暑くないし。まだ良いよ」

「後で後でって、そのまま入らなかったらなんの為に川へ来たのか解らんだろ。良いから入って来い」


確かに、涼みに川へ来たんだ。本命は川であって、火起こしでも炭火焼きにした食材達の食レポでもない。そういえばここには少し深めの飛び込める場所があったはずだ。この前来た時に、結構気に入った場所だったと思う。転ばないように気をつけながら川への斜面を降りる。川辺へ着くと靴下と水着の上に着ていた服を脱ぐ。涼しいとはいえ、厳しい陽射しがジリジリと肌を焼く。いけない、このままだと風呂へ入れない真っ赤に焼けた肌になってしまう!あの痛みは勘弁して欲しい。ズボンの中から日焼け止めを取り出して素早く塗りたくる。一応耐水的な事を書いてあったのでこれで大丈夫な筈だ。クロックスを履き直して入る準備は完了した。どの位冷たいのだろうか?足の先だけを水面に浸そうと踏み出____


「おりゃ!」

「うわっ?!ちょっ、つっ、つめっ冷たっ?!?!」

「あはははは!!」


想像を絶する冷たさ。膝から下をキュウッと締め付けられるような感覚だ。

信じられない、なんて事をするんだ。あ…う……、、冷たくて、動けない。ギギギ、と効果音がしそうな程の首の動きで後ろを見る。大爆笑している弟が視界に入った。これは、徹底制裁しなければ年上の者として、 面子が立たない。嗚呼、仕方ない事だとも。

弟と向き合うように立ってから、スッと水の中へ片手を浸す。相変わらず冷たいが足は慣れてきたし、手なら我慢出来る。前へ振りあげようと力を込めた。


「__げ、」


弟は何をされるのかやっと想像出来たようで急いで逃げようとするが、もう遅い。

バシャッ、思いっ切り弟へ向かって水しぶきが舞う。こちらから見たら水しぶきが太陽光を反射して綺麗に輝いている。だが、弟からすればまだ慣れていない上半身へ水をかけられたのだ。ひとたまりも無い筈だ。


「つっめてぇ………」

「は、目上の者に不敬を働いた己を恨むがいい」

「……じゃあ」


ギラリと弟の目が、光ったような気がした。あ、あれ?いけない、これはとてもいけない。どうやら選択を間違ったらしい。弟の対抗心に火がついてしまった。弟を刺激しないようにゆっくりと下がって両手を上げる降伏のポーズをとる。


「待て…、ゆっくり話し合おうじゃないか。」

「ふふ、もう全て遅い」

「それはダメだ。絶対にやめなさ__いややめてください頼むやめて__」

「これは正当なやり返しだ!!!!」


バッシャーン、盛大な水しぶきが上がった。あいつ、両手でやりやがった。上半身を急に濡らされ、形容し難い寒気が這い上がって来る。一周回って真顔になる。もう、どうにでもなりやがれである。バシャバシャと音を立てながら弟に近付く。好都合な事に弟は、動かない。


「そ、それ以上近付いたらもう一回かけるぞ!」

「かければ?」

「え…」


ニッコリ笑って弟の首に手を回す。ニーブラ、といった感じだ。必死に腕の中で抵抗するがそれこそもう遅い。水深が腰あたりの場所まで移動し、自分の重心をだんだん後ろへ倒す。


「ちょ、ま__」


ドボン、弟の声は途中で途切れた。自分も水の中へ入ってから弟の首に回していた手を離す。解放された弟は急いで水上へ上がって若干咳き込んでいた。少し、罪悪感が湧くがいて仕方あるまい。これは正当防衛である。全身を水の中につけたまま頭だけ出す。するとこれみよがしにバシャバシャと水が飛んでくる。が、目をつむっていれば体は水中なのでノーダメージだ。


「もういいし!1人で遊べば?!」


別に一緒に遊んでとも遊ぼうよとも言っていないのだが。ふん、と1人で拗ねて向こうへ歩き出す。だがしかし、残念な事に今から行こうと思っていた場所が弟が向かう方向にあるのだ。


「つ、ついて来んな!」

「いやー?たまたま目的地が一緒なだけだよ」

「もー」


プクッ頬を膨らませるので両手でほっぺたを挟みうちにして潰す。ブッという無惨に空気が吐き出される音がした。そのせいで少し微妙な空気になり、ちょっと気まずくなってしまった。しばらく無言で歩いていくと大きな岩があった。ここが目的地、この岩の下は少しばかり深くなっている。足が底につかない程度には。何をするかなんて、ここでするのは1つしか無いでしょう?


「お、お前が先に行く事を許す!さあ行け!」

「何の強がりだよ…。まさか、怖い?」

「怖くなんてねぇし!」


必死に否定する態度はどう見ても肯定にしかとれない。が、さっきは少し年上として大人気なかったかも知れない。別に弟がいても居なくてもやるつもりだったので、まぁ良いよと返す。岩の上から下を見下ろせば弟が怖がるのも解る。そこまで高くは無いのだが、川底がボヤけて見えない位の深さに飛ぶのは勇気がいるのだろう。多分。ニヤけてるいると、先程の雰囲気が消え失せているのに気付いた。気まづい雰囲気なんて、キョウダイの間にはいつの間にか無くなっているものである。

水中の景色に期待して少しワクワクしながら首に掛けていたゴーグルをセットする。


「じゃあ、お先に失礼」


息を思いっ切り吸って、フッと力を抜いて倒れていく。弟の間抜けな驚いた顔が最後に見えた。


落ちている感覚が訪れる前に水面にぶつかった。ドプン、そんな音が鳴った後はコポコポという気泡が上へ上がっていく音。それ以外には何も聞こえない、とても静かな世界。体が浮き上がらないように若干下へ泳ぎつつ、周りを見渡す。上を見上げると水面にキラキラとした光の球が見えた。直接見ることは危険な太陽、しかし水の中ではあんなに綺麗に輝いてはいるけども、目をすぐに痛めるような光ではない。

辺りは水面のシャンデリアのお陰で周囲は光で満ちていた。でも、川の流れに沿って向こうを見ようものなら、なんだか底知れない不安が訪れもする。距離が遠くになるに従ってどんどん暗く不鮮明になり、ドンヨリと見えなくなる。昔はこれが堪らなく怖くて、自分もあの暗闇へ呑まれてしまうんじゃないか、今にも向こうから熱帯にいるような大きな魚が泳いできて自分を食べてしまうんじゃないかなんて馬鹿な事を考えて、すぐに水面へ泳いだ。怖いくせに落ちるのが楽しくて何度も繰り返すのだが。

ゴポ、と口から最後の空気が抜ける。もっとこの世界を眺めていたい、ここに居たい。だけど体はもう限界だと訴える。川底を思いっ切り蹴って一気に上昇する。水面を突き破ると新鮮な空気が肺へ満たされるのを感じた。体が欲していたのもあって、空気が美味しい。そのまま平泳ぎでまた大きな岩へ近付き登る。上に人影を見た_そこにはまだ弟が居た。


「あれ、まだいたの?」

「わっ、悪いか?ってかなんでスグ浮いて来ねぇんだよ!ちょっと怖いじゃんか!」

「ん?心配してくれたのかな?」

「そんなわけ無いだろ!」

「うんうん、ありがとう」

「心配してねぇって言ってるだろ!」


はいはい、と生半端な返事を返しまた飛び降りる場所まで移動する。


「も、もう行くのか?」

「うん。怖いならお父さんから浮き輪貰って来なよ。それがあったら沈まないし怖くないでしょ?」

「……確かに。」


取りに行く、と言った弟にバイバイと手を振って再び川へ向き直る。さっきと同じ川。だけど、水が流れ続けている限り1秒たりとも同じでない川。そんな事を考え出すと、とても変な気分に囚われてしまう。

今度は倒れ込むのではなく、思いっ切りジャンプして飛び込む。

バッシャーン、派手な音が鳴った。

さっきと同じ空間、だけど、違う空間。コポコポという音と共にゆっくりと沈んでいく。弟と話したのはつい先程の事の筈なのに、遠い昔の様な気がする。そう、ここへ来ると心が水で満たされてしまったかのように青く静かに__そう、凪いでしまう。その心の奥底にうっすらと不安がこびりついたまま。この奇妙な凪いだ心持ちが、なんだかとても心地よく感じるのだ。まるで、魔法をかけられた様な。いや、この場所に自分を縛り、囚えて離さない様な魔法がかかっているのかもしれない。

どこまでも静かで薄暗いこの透明な世界が、限りない色んな可能性を秘めていそうで、好きなのだ。ここは水面の外と全く別世界なのだ。ここにはたった一人、自分しか存在しないのだ。ここに来ないと、こんな気分に浸れない。そして、自分の息が続く限りではないとここに居られない。制限あるこの息が続く間だけ、そんな静かな気持ちのまま外の世界の事自体を忘れてしまえる、この時間が堪らなく好きなのだ。否、好きとは些か違うのかもしれない。しかし自分にはそれ以上の表現の仕方が解らないのだ。好きを超越した神秘的な執着と言うべきか。

ゴポ、ゴポ、ゴポ

自分の口から大きな丸い水晶が出てきて揺らめき形を崩しながら上へ登って行く。そろそろ自分も後を追わねば不味いだろう。


_____いっその事、ずっとここへ居てしまおうか。


そんな事が出来るほど、自分は稚拙でも狂気でも阿呆でも無かった。だけど、それもいいかもな、なんて思える程にはどこか可笑しいのかも知れない。この場所の魔法に絡め取られて動けなくなる前に、帰ろうと思う。川底を再び蹴って、大きなシャンデリアへ向かって泳ぎだした。





「ヘクショッ」

「大丈夫?いくら潜るのが好きだからって長い事潜り過ぎよ」

「お前の弟が二度と浮き上がって来ないかと思う程だったらしいが?」

「ズビ、…すみません」

「別に怒ってはないけど、程々にしなさいよ」


はぁーい、と間延びした返答を震えながら返す。大きめのバスタオルを羽織ってもう消えそうな残り火の前で座り込む。ほんのりと暖かい……が、足りない。未だに顎はガチガチと煩い。


「お前もこんなんだし、もう温泉行って帰るか」

「そうね」

「やったー!温泉!」

「あとでアイスクリーム買ってね!」

「はいはい」


川へ遊びに行ったあとは、何故か必ず温泉と決まっている。美味しい空気を吸い込めるだけ吸い込んでおこうなんて考えてみる。すぐに吐き出してしまって意味は無いとわかってはいるけど、今のうちに味わっておかないと、この森の青い独特の空気は袋に入れても、ペットボトルに入れても、密封して入れても、持って帰れるものでは無いのだから。持ってきた荷物を車に積みながら、あの川の底の事をふと考えた。川の外に出てから、あの不思議な感覚は気付けばどこかへ消えてしまっていた。あの魔法にかかるのは、あの別世界へ行けるのは、あの場所だけ。外に出てみれば、逆にあの場所が遥か遠い場所に思えてくる。物理的な距離は歩けばすぐに着く、そんな距離なのに。

皆が乗り込んだ小さな箱、細い道をどんどん車は走っていく。遠くに見える山々はゆっくりと後方へ動き、近くの民家や並木はすっ飛ぶように前から後ろへ飛んで行く。 もう、あそこへは行けないかも知れない。でも、また行けるかもしれない。そんな場所へ思いを馳せる。きっとあの大きな岩は異世界への入口だったのかな、なんて。

あの川から比較的近い温泉で、ゆったりと湯船に浸かる。熱いくらいだけど暖かくて、心地よい。あの締め付けるような冷たい川とは正反対で心が落ち着いて行く。嗚呼、やっぱり魔法はかかったままなのかも知れない。心を捕えて逃がしてはくれないのだから。

でも、今どれだけ心に居座っても都会の家に戻ればいつもの日常に揉まれていつか川が流れるように記憶に押し流されてしまうんだろう。今までそうだった様に、この魔法も薄らいで消えてしまう。

それで、いいと思う。たまに来て、神秘に魅入られて、魔法をかけられて、また日常へ戻って、忘れてしまう。忘れるから、また感動できるものだとも思える。

だから、こんな茹だる様な暑さのほんの1日、こんな日がたまに、あればいい。気分を入れ替えて、また日常を謳歌する。

海も有意義だと思う。遊園地も楽しいと思う。ゲームセンターもデパートも、勿論家も良いと思う。だけど、たまには森林セラピーなんてのも良いものだと、辺り一面の緑の別世界もあの透明な静かな異世界も良いのだと、そう思う。

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水深1.5メートル 帽子いおり @bousi_iorin

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