阿呆漏斗

開始10分後

「おねーさん、かおがくらいよどうしたの?」

「…あー、うん、納得したよ。とりあえず順を追って話すね。」

 なんだかわかんないけれど指先から火が出せるようになった!と朝あいつが叫んで教室に入ってきたのが全ての始まりだった。あいつというのは、クラスメイトの名前と顔が中々覚えられない私も確かに特定の個人だと認識できるそいつのこと。表情はいつでも明るいが目は黒く濁っている人。クラスの覇権を握っているが、その清楚な見た目とは裏腹に心の底では他人をモノ扱いしているらしいという人。らしいというのは、私がクラスメイトと積極的に交流していないから実際どうなのかよくわからないということだが、そいつが文化祭に関して出した変わった案に反対する人がいなかったのを見ておかしいと感じた。それから、なるべく大人しそうな人に話しかけてこのことについて訊いて、ようやくそいつに真っ向から反対できる人がいないと私は知ったんだ。頭も口もくるくるとよく回り、騙されているとも気付かせず、人をそそのかすのも上手いから心理学でも勉強しているのではないかというのはその人の言葉だ。


「わるいひと?」

「そう、とっても悪い人。少なくとも私はそう思ってる。」


 あとは、君たちが顔を覚えているかはわからないけれども、私が以前ここでカメの調子が悪いらしいと言ったときに、

『でも死んじゃってもまた買えばいいでしょ?』

とあいつに言われたその言葉は、今もたまに喉に刺さった魚の小骨のように私を苦しめる。同じ種類のカメはどこにでもいるかもしれないが、どこのペットショップにいるカメも、ここにいるカメと同じものはいないのだろうと、なんとなくそう思う。どう言い表せばいいのか今もわからないが、それ以来、動物の話をすることはない。

 とにかく話を戻そう。それを披露したのを見るに、念じている間人差し指の先から鮮やかなオレンジ色の火が出せる、といっても大きくしようとしても最大でガスバーナーから出せるくらいの大きさだからアクション系アニメの超能力のような派手なことはできないはず。指そのものが燃える様子は見られなかった。驚いたことに、俺も似たようなのが出来るようになった、私も、とクラスの皆は異口同音に言いだしたのだ。目を疑った。耳も疑った。私にはそんな奇妙なことが出来るようになったなんてことは無いのに!

 とはいえ、それらは確認できたものだけでも取るに足らないものだった。本当に些細なもので、神様が化学の目を盗んで辛うじて授けたような、恐竜が鳥に進化するような、少しの手間を省く程度のものだと感じた。このようなものをひとまず一括りにして『奇跡』と呼ぶとするけれど、内容としては指先から火を出す、両手を器の形にしたら水が湧いてくる、目が合った相手の動きを1秒だけ止める、任意のタイミングで放電できる。等々。


「…にしても、手間を省くことができるとさっきは言ったけど、こんなものに使いどころがあると思う?」

「よくわかんなーい。」

「そう言うと思った。まあいいよ。」


 それで、使い道のないであろう『奇跡』を見たあいつは、じゃあこのクラスで誰が最強か決めてみない?と軽薄にも、いや薄情という方がお似合いか、そう言ったのだった。

 行動力があることは普通はいいことなのだが、それを持つのがそいつなのがいけなかった。あいつは私に『奇跡』が使えないことを確認することもなく準備を始めた。きっと自由にしてもいいという神様の思し召しなのだと、ルーズリーフを丸めて火を出して着火し松明のようにして、担任の先生を脅して教室から追い出し、それを火災報知器に反応させて、避難しなければと混乱している隙に放送室に乗り込んで乗っ取りを宣言し、その間仲間には職員室に入らせて鍵を取り、他クラスの運動場への避難が完了してから学校全体を締め切らせる。用意周到すぎる。それからあいつはそのまま放送室から、じゃあ最後まで残った人が優勝ってことでーと声高々に言って、私がここに駆け込んで開始の合図があってからはよくわからない。ここに率先して来る人はいないと思うけれど、それも時間の問題だといえる。


「それよりおなかすいた。」

「さっきエサを入れたばかりだよね…?」


 開始の合図があってから、進展したことが一つだけある。それは、私にも『奇跡』が使えたと分かったということだ。それが、至近距離にいる動物の声が聞こえるというもの。今私がいるのは私の所属する生物部の部室であり、目の前にあるのは綺麗なグッピーが十数匹入った水槽だ。部室といっても水槽3つがかろうじて乗る長机と椅子と図鑑があるだけの、とてもこぢんまりとした部屋である。動物の声を聞くといっても今ここにいるのが自分だけであり、聞こえるのは自分だけなのだろうと思うと、全て幻聴である可能性も否定できない。しかし、この明らかな知性の低さ。幼稚園児でももう少し受け答えが出来るだろうと思うし、グッピー達の声なのだろうと思う他ない。


「なにがあっても気にしないの。いっしょにふわふわ浮いていましょう?」

「金ちゃん…」


 グッピーの水槽の隣には、金魚鉢が一つ右側に、カメがいる水槽が一つ左側にある。この金魚は私がこの学校に入る前に文化祭に来たときからいるので、恐らくそれなりに長生きしているのだろう。慣れっこなのかは分からないが、下水のような酷く汚い水にいるのが哀れだ。生物部といっても私以外の部員は生きものが好きでもないらしくほとんど活動していないのが現状で、いつものエサやりにも誰も来ず、部長になった私もそれなりに普段忙しいので水を2、3か月は換えていない。しょうがないと自分に言い聞かせていることなのだが、どうにも息苦しそうに見えてしまう。

 その濁った水の中で、金魚はキラキラと透き通った目を輝かせていた。


「飯。」

「あぁ忘れてたや、ごめん有栖、ちょっと待って。」


 比較的小さいからと可愛らしくアリスと名付けられたらしいこのミドリガメは、通常のカメの例に漏れずオスである。このことがわかったのは私が来てからのことで、スマホを使って他部員に伝えたものの面倒くさいと有栖ありすにされた。黒い体に鮮やかな緑のラインと目元の紅が映えて綺麗だ。そしてまた、透明で綺麗な瞳をしている。


「これが最後の晩餐になるかもしれないけれど。ごめんね。」

「サイゴのバンサンとは何だ?」

「それは…知らない方が幸せなのかもしれないけど…」


 さて、ここを襲撃されたとして、私は生物部の部長として彼らを守れるのだろうか?

 相手には火を使える奴がいる。大して力は強くないが松明を持ち出されては厄介だし、もし化学実験室から薬品を持ち出されたらどうする?加熱できるなら毒ガスを作り出すことも容易だろうし、また家庭科室から小麦粉か何かを持ち出して粉塵爆発を起こすのも簡単だろう。料理酒や油もある。道具を持ち出してまで戦う愉快犯だろうかと思ったが、そもそもこのようなゲームを開催した時点でお察しだろう。こんな狭い部屋なら毒ガスもすぐ充満するだろうし、火がつけられればすぐに消さなければ全焼になる。そうなれば、勝ち目は無い。あとは、静電気が使えるという人もいたはずだ。主催ほどの愉快犯であると思いたくないが、水槽にその手が入れば一撃だろう。

 もちろん、食い止められるなら止めるべきだ。でも、それは自分の命を犠牲にしてまで為すべきことだろうか?私はそうは思わない。でも、生物部の部長として、実質唯一の部員として、彼らは私が守るしかない。とはいっても、私がここで思い悩むほど時間は減って、それだけ誰か来る可能性は無情にも増していく。いや、悩むのはしょうがない。彼らを逃がすべきか否か、そこから考えることにしよう。

 やはりもちろん彼らが生き延びれるなら逃がしてやりたい。しかし、グッピーと金魚とカメである。カメはともかくグッピーと金魚は逃がすあてがない。下水に流せば処理される際に死ぬしかない。有栖は廊下に逃がすこともできるが、逃げ延びたとしてミドリガメは外来種である。逃がせば間違いなく近くの川にいる魚たちが根こそぎ犠牲になる。この2つを天秤にかけたとき、どちらが下がるかは自明の理だ。

 逃がすことは出来ない。しかし私は彼らをここで守れそうにない。私は、ようやく話ができるようになった小さなものの前で、ただ無力だった。それは私の手で彼らを殺すのと同義に思えた。でも、私は悪くないのだ。あいつが悪い。『奇跡』が悪い。あいつが火なんてものを出せるようになったのが悪い。調子に乗ったのが悪い。止めなかったクラスメイトが悪い。仮想した神が悪い。


「しずかー」「こわい」「だんまり…」「ごはんは?」「ごはんのひと、はやくー」

「…ああ、えっと、うん。少し多めに入れておくね。金ちゃんも、有栖も。」

「もしかして、食べられそうなのかしら?私はこのままふわふわできてたらそれでいいの。あなたも食べようとしてくるものからは絶対に逃げて、落ちついたところで水の流れに身をまかせましょう?」

「…それも、その通りだ。有栖、貴方は恐ろしいものに出会ったらどうする?」

「逃げるしかないだろ。」

「逃げられないなら?」

「痛いのがあるらしいが知らん。」

「痛いのとかが全部終わった後のことは、怖い?」

「知らんものはわからん。」


 彼らの瞳は、一様に澄んでいた。死を知らず、生きたいように生きる純粋な眼だ。水槽に反射して見えた私の眼は、びっくりするほど濃い黒色をしていて、よどんでいた。

 私は、彼らが少し羨ましくなった。そう行動したら碌なことがないと知りながら。


「…皆、ごめん。ありがとう。」


 壊されるようにドアが開く。元凶の手に何かあるのを見ながら、私はそいつを後ろに突き飛ばして廊下に出る。足が遅くても全力で走る。爆発音を遠くに聞きながら、向かう先の玄関扉には内鍵だけがかかっている。

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阿呆漏斗 @1235_author

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