第9回 おっさんの野球指導教室~その4~

 ひとりピロティにまで戻り、バットを手に取った雄馬ゆうまは練習に付き合ってくれそうな相手を探していた。

 かといって、相手なら誰でもいいという訳でもなかった。

 何が何でもスタメンに選ばれたかった彼は、下級生を多数含めた控えの選手の方へは目も暮れない。

 スタメンを目指すならスタメンと一緒に練習したほうがいいと思い、一念発起してレギュラーメンバーばかりのいるゾーンに足を運んだ。

 しかし、肝心のレギュラーメンバーはというとすでにメンバー同士でペアをそれぞれ作っている状態だった。

 先ほど来すれ違った際に、おっさんに対して悪態をついていた6年生連中もなんだかんだと至って真面目に形の練習に取り組んでいる。

 それに追随するように、その他レギュラーメンバーも真剣に向かい合ってやっていた。

 どうしよう、パッと見持て余しているやつがいなくて取り付く島もない。

 困り果てて、雄馬は考えを巡らせ始める。

 そもそも、普段から意識して人を遠ざけている彼がろくすっぽ交流もままならぬチームメイツに取り入ろうとすること自体、インポッシブルなミッションでしかない。

 バイタリティもコミュニケーション能力も欠如している彼は、辺りを見回しながらまず真っ先に6年生を選択肢から削除した。

 そして次に、同級生つまり5年生のレギュラーも削除したのだった。どっちも余計な気を遣い、返って練習が覚束なくなるのを危惧しての判断である。

彼は再度辺りを見回した。

 そして、見つけた。

 ピロティの端っこで、なぜかひとりでバッティングの素振りを延々とやっている4年生唯一のレギュラーメンバー・アレクを発見する。

 上級生並びに同級生についても遠慮してしまった雄馬に、もはや他に選択肢はなかった。

 ダメもとで下級生のアレクに頼み込むと、意外にも二つ返事で了承してくれた。

 ともあれ、レギュラーメンバーとの練習の目途がようやく立ち、安堵した反面ある種の不安を覚えた。

 ここに転校して来て、少年野球をはじめてだいぶ時間が経つ。

 なのに雄馬は一度もアレク本人と会話をしたことがない。

 これは他のメンバーに対しても言える事だ。

 しかし、それ以上に彼自身が不安に思っている事柄がひとつあった。

 それは、雄馬でさえアレクが他の部員とまともなコミュニケーションを取っている光景を一度として見たことがないということである。

 たとえ先輩相手だろうが、関係ない。

 一度口を開けば一瞬にしてチーム内の空気が凍てつかせる才能がアレクにはあった。

 だから、そんな彼と上手くやっていける自信なんて雄馬には、全然無かった。

 一抹の不安を抱えながら、アレク本人とともに練習にと臨む。

 そして、その不安は見事的中することとなった。

 形の練習をやるにあたり、打太刀うちたちは雄馬。

 アレクが仕太刀したちをやることになった。

 最初のうちは、これといったミスも無くいたって順調であった。

 一本目の形・面抜き面から始まり、続けて二本目・手抜き小手と、ふたりともおっさんからの説明をきちんと聞いて覚えられたのかしっかりやりおおすことができた。

 しかし、三本目・突き返し突きに差し掛かった時。

 先に感じとった不安が、悪夢となり雄馬に悲劇をもたらした。

 突き返し突きは、他の形と比べその動作が小ぶりになるのが最大の特徴である。

 双方ともに竹刀を上段に構えることも、八相あるいは脇構えみたく大仰に振る舞うこともなく、剣先を下段に構える所からこの形は始まる。

 互いに間合いをつめ、適当な所で止まると竹刀をそれぞれ起こして互いに中段の構えの位置までゆっくり持ってくる。

 やあ、という掛け声と共に打太刀が真正面から突きを放つと仕太刀が一歩退きこれを躱す。仕太刀が文字通りの返す刀で以て、とう、という掛け声と共に突きを相手に贈る。すると、打太刀がそれを受けて一歩ずつ後退しながら仕太刀側の竹刀の側面を左右に一回ずつ己が竹刀を当てこする。

 一連の流れを見るに、この形を巧く魅せるコツは動作の一つ一つに対する迅速さにある。

 立ち振る舞いが派手でない分、模範に則った動作の正確不正確ぶりが如実に表れやすい。

 逸る気持ちをきちんと律せず下手に挑むと、いともたやすく間違える。

 雄馬はアレクとの練習を通じ、そのことを己の身体で思い知らされる事となった。

 三本目に取り掛かった際、なんと、雄馬が突く速さを上回りアレクが先に突いてきた。

 熟練の経験者なら瞬時に対応できたやもしれない。

 しかし、雄馬は剣道に関しては全くの素人。

 想定外のアクシデントに、彼は咄嗟に避けられず、自身を守る術も講じることもままならない。

 アレクからのバットは、勢いよく彼目掛け放たれて、どてっ腹に滑り込んでいった。

 やがて、バットの先端は雄馬の鳩尾に鈍い音を響かせながらクリーンヒット。

 唐突に繰り出された腹部への強烈な突きに、雄馬は口から空気を1cc残らず絞り出すこととなった。

「ウゲェ……ッ!」

 唸り声を発してつんのめる。

 一瞬、呼吸不全に陥り思わず冷たいコンクリートにて膝をついた。

 横隔膜が不意にダメージを負い、雄馬は前屈みの姿勢で両手を腹部に押し当てて蹲った。

 すると、

Meuメゥ Jesusジュエッセス(なんてこった)! だっ、大丈夫か」

 バットを当てた張本人であるアレクが、驚愕のあまり母国ポルトガルの言葉を口にしながら痛みに身悶える彼の元へと駆け寄って来た。

 雄馬は痛みのあまり、ひとり虫の息と化していた。

「えほっ、えほっ。えっほ……」

 乾いた咳ばかりが口から溢れる。目尻に輝くものをこびり付かせて、両肩を何度も上下に揺らした。

「ど、どうしよう。どうしたら、」

 地べたに縮こまり喘ぐ様子の彼を前にして、アレクはひとりあわあわと泡を喰う真似しかできない。

 痛がっている雄馬をしばらく観察していると、アレクの脳裡のうりにあるフレーズがよぎった。

 これしかない!

 この場を丸く収めたい一心で、先に頭に浮かんできた言葉を雄馬に浴びせかける。

Umアン beijinhoベイジンホ saraサラ……! Um beijinho e sara……! Um beijinho e sara……!」 

「な、何言ってんのさ」

 痛みが引き始めてほんの少し余裕になれた雄馬は、目の前で十字を切りながら、奇妙な文言を発し続けているアレクにツッコんだ。

「お、おまじない」

「おまじない?」

 そう、とアレクが肯定した。

「ボクが小さいころ道で転んでケガしてベソかいたとき、ボクのマーイがいつもそう言って慰めてくれたんだ」

「マーイって、誰?」

 聞きなれぬ単語に、眉を顰める。

 すると、アレクは何をためらう事もなく、真顔で答えた。

「ボクを産んでくれたヒト」

 ほんの少し雄馬が間を置き、

「……お母さん?」

 と、問いただす。

「そう!」

「もしかして、『痛いの痛いの飛んでいけ』ってことなの?」

 アレクは、先ほどと同じく強い口調で、そうと言い切った。

 彼のそれまでの発言と現状立ち込めている空気感。

 そして、眼前で迷いなく言い切る様を見せつけられたことに強烈な滑稽さを雄馬は覚えた。

 堪えきれなくなった雄馬は、沸き立った笑いの感情を抑えきれず吹き出してしまう。

 未だ痛みが残る腹部を両手で抱えて、クツクツと笑った。

「そっ、そんな。あイテテ……そ、それじゃまるで僕が痛たっ……あ、赤ちゃんみたいじゃんか。い、痛たたたた」

 笑いと痛み。

 両方の感情から板挟みに陥ってしまった彼を前にして、アレクはただ困惑するしかなかった。


 ☆☆☆☆☆☆

 

 その後、痛みから復調した雄馬はもう一度バットを手にアレクとの練習にと臨んだ。

 形の練習がすんだところで、ふたりはバットからグローブに持ち換える。

 そして、ふたりしてキャッチボールをしながら、互いに初めて同士で会話をしあった。

 最初は覚束ない感じでも、元来富んでいた雄馬のバイタリティとアレクの底抜けの明るさが上手い事噛み合って、意外にも打ち解けるにはさほど時間はかからなかった。

「アレクって、ポルトガルと日本のハーフだったよね」

「そうだよ。ボクのお母さんが富山、お父さんがポルトガルのリスボン生まれなんだ」

「ふーん、珍しい取り合わせだね」と、雄馬が何気なく言った言葉に対してハキハキとした感じに、「そうなんだ!」

 アレクは、それまで余程誰かに話したかったのであろうか、両親のことを雄馬に振られると勢いよくのべつ幕無しで喋り出した。

「ボクのお母さんが、大学時代の友達と卒業旅行にリスボンまで観光しに来たんだ。お金が無くてコーディネーター雇う余裕もなかったから、現地で迷子になっちゃったんだって。で、その時にちょうど仕事を終えてまさに帰りがけだったお父さんとばったり会って、たまたま泊ってたホテルと実家が近かったから案内してもらったのがふたりの馴れ初めだよ」

「じゃあそれがきっかけで、付き合って」そう、雄馬が納得しかけた矢先。「いや、そんなの全然?」

 断言したアレクに、えっと、雄馬が素っ頓狂な声を思わず上げた。

「結局、ホテル内のレストランで一緒にご飯食べた後そのまま別れて、旅行中には二度と逢わないでお母さん帰っちゃったんだ。それで、ボクのお母さんが会社に就職してしばらくした時に、海外の取引先から新しく顧問が派遣されてお母さんがその顧問の人をアテンドすることに決まった。後日、顧問が来たってんで会社の会議室だかに呼ばれて行って見たら……その、顧問がさっきお母さんに道案内をしてくれたて言ったお父さんだったんだよ」

「す、すごい偶然じゃんか。それって」

「お父さんもそう思ったらしくてね。それで、翌日の朝。いつも通りの時間に出勤してきたお母さんに会って早々100本のバラの花束をプレゼントしたんだよ。『前から君が僕の奥さんになるってことは分かってたよ。結婚を前提に僕とデートしよう』ってね!」

「この上ないくらい、超キザな台詞だね」

 聞いているこっちが恥ずかしくなるような話を耳にして、素直な感想を並べた。

 すると今度は、逆にアレクが彼に素っ頓狂な声を上げて聞いてくるのだった。

「えっ、プロポーズってどこもこんなもんでしょ? 違うの?」

 思いもよらぬ逆質問に、ふと一昨日の夕食の光景が浮かんできた。ステーキの香ばしい香りと、迸る肉汁に歓喜の表情を浮かべる妹、そして、携帯電話を片手に電話越しの父親を相手取り檄を飛ばしにかかる迫真の形相の母親が回想された。

 悲しいことに、菅野夫妻のプロポーズの光景を想像だにすらできなかった。

「ごめん、僕両親の馴れ初めとか全然知らないから」

「そっかまあ、いいや。そんな感じで付き合うようになったんだ。数年してポルトガルの本社から命令が下って本国にお父さんが帰らなきゃならなくなったのを機に、勤め先を寿退社してこっちで結婚式を挙げてからお父さんといっしょにポルトガルに行ったんだよ」

「ふうん。あれ、ってことはアレク。お前、いつどこで生まれたのさ?」

「だから、ポルトガルのリスボンだよ。5歳いっぱいまで、向こうで暮らしててそれからこっちで住み続けてる」

 まさかの新事実に雄馬も、驚きを隠せない。

 ふと、そんなアレクに自身と同じ境遇で生まれ育ったような何かを感じ取った。

「なんでまた……もしかして、お父さんの転勤の都合で?」

 しかし、あっさりと否定されてしまうのだった。

「うんにゃ、お父さんじゃなくってお母さんの都合。正確に言えば、お母さんのお母さん―――—つまり、ボクのVivoおばあちゃんが脳梗塞で倒れて、それでつきっきりで介護をしてあげなくちゃいけなくなったんだ。施設に入れるって手もあったけど、ボクのお母さんがそれは嫌だって……だから、お父さんもそれを受け入れていっしょに富山に越してきたんだ。それまで勤めていた会社も積んできたキャリアも、生まれ育った故郷もぜーんぶ置いてきて、ね」

 何気に重大な決断を下した父親についてアレクは、軽く述べるに留まった。

 雄馬は、そんな彼の父親の行動に、素直に開いた口が塞がらなかった。

「すげぇ」

「でも、おかげでこっちは日本語を一から覚えなくちゃいけなくなったから大変だよ。最初のころなんて挨拶もロクにできなかったからさ」

「今、アレクのお父さんってお仕事なにしてるの?」

「仕事? 今は車で、全国回ってて。えーと、まあその……」

 こっちに来る前は日本語には不案内だったと前置きしていた彼は、どう父親の職業を日本語で具体的に伝えるべきかで迷っているのだった。

 すると、雄馬が助け舟のつもりで、アレクにいろいろと例を持ち掛ける。

「車で全国って、ドライバー? タクシーとか、長距離トラックとか」

 だがすぐに、そんなんじゃなくって、と軽く一蹴されてしまう。

「あの、なんて言ったらいいんだろう。ああ、もう。ボク日本語馬鹿だから、ポルトガル語でははっきりと思い浮かべてるのに。“Drogas”……ああ、もう!」

 苦悩したように顔をしかめながら前頭部に何度も右拳を押し抱いた。

 すっかり困惑させられた雄馬が、諦めずに再度聞いてみた。

「そのう、ど、ドロォーガス? それって、どんなお仕事なの」

「いや、それ自体は仕事じゃないよ。ボクのお父さんは、Drogasを車を駆使してあちこちで売る仕事をしてるんだ」

「あ、仕事じゃなくってモノだったんだ。て、ことは行商さんみたいなのか。じゃあ、ドロォーガスってどんなカタチしているの?」

「カタチは……色々あるよ。丸く平べったいのや、楕円のカタチしてて分厚かったり、粉末だったり、腕から注射したり」

 すると、そこまで言って突然目を見開いて次のように語った。

「あっ、思い出した確か漢字で『草かんむり』があるやつだ。そいでもって、その下が音楽の『楽』の字なんだ!」

「……もしかして、それって、こういう」

 怪訝な顔つきで、何気なく空中に突き立てた人差し指でそれに該当する文字をさらさらと書いていった。

 それは、『薬』という漢字一文字であった。

 その解答にでかでかと花丸をつけたアレクを、雄馬は呆気に取られた様子で迎える。

「そうそう! それだよ、それ! ヤクだ、ヤク。ボクのお父さんは、日本全国を車で亘る歩いてヤクを運び回ってる……運び屋さんなんだ!」

 途端に引きつった笑みがこぼれ落ちた、雄馬。

 若干詰まりかけるも先のアレクの言葉を反復させながら、ゆっくりと自身の顔を青ざめさせた。

「や、ヤクって。は、運び屋って」

 顔面蒼白の面持ちで立ち尽くすと、次第に意識が薄れていき頭の中が暗転しだす。

 それから、雄馬は次のように空想に空想を膨らませ、自らを閉じ込めさせていった。

 

 一面に広がる暗がりに、真上からスポットライトにより照らされる一点。

 アレクのお父さん(空想)が、派手な柄のアロハシャツを着こなしサングラスを掛けた人相を不気味な笑みで歪ませながらこれ見よがしに、パンパンに張りつめたセカンドバッグを掲げて、のたまう。

『へっへっへっへっ、ヤクで稼ぐなんざチョロいチョロい!』

 自慢げな様子で語る、アレクのお父さん()。

 すると、笑いふけっている彼の右手側から、何者か人影が揺らめいた。

 遅れてスポットライトが差し込まれる。顔は痩せこけているように見えるが、がっしりした体型の男だった。

 葬式帰りだろうかシックなスーツに身を包み険しい顔でなぜか拳銃を手にしたまま佇む若いころの菅原文太にそっくりな男の姿が露わになる。

『弾はまだ残っとるがよぅ』

 続いて左手側から登場するは、先ほどのとは対照的にかなりの肥満体を誇る西洋人風な男だった。

 髪はオールバックで整え、はち切れんばかりの体型を黒一色のフォーマルな装いで包み込ませており、その出で立ちは実に優雅そのものである。

 マーロン・ブランドもどきな男は火のついた葉巻から煙を燻らせ、堂々と居直った。

『人がどんな仕事をしていようが私にはどうでもいいことさ』

 菅原文太の

 アレクのお父さん(空想)。

 そして、マーロン・ブランド

 三者一斉に並び立つと、『仁義なき戦いのテーマ』と、『愛のテーマ』が、左右から一遍に大音量でけたたましく流れてきた。

 すると、そんなお三方の裏になぜか設置されていたエレベーターの扉が到着を告げるベルとともにすっと開かれた。

 内部は、これから決戦でもやるのかと言わんばかりに闘志を熱く滾らす男たちにより、ギュウギュウ詰めであった。

 ……なんと、たけし軍団がエレベーター一室にて丸々収まっていた。

 自らの弟子たちにより高い人口密度の一室から、似非ビートたけしが指を差しながら、大きく声を張り上げ、彼らに命令を下した。

『居たぞー! あのボンクラどもだ、お前らやっちまいなぁッ‼』

 その一声を合図に、似非軍団えせぐんだん共が一斉に雪崩れ込んでくる。

 わーっ、と雄叫びを轟かせて血気盛んな男たちに背中を押される格好で、似非そのまんま東が引き攣った顔つきで真っ先に飛び出した。

 バシャバシャバシャバシャ‼

 どこからともなく現れた、謎のカメラマンの集団がその光景を一斉にフラッシュを焚く。

 翌日の一面にはこう書かれた。

 ≪東、先頭を切る‼≫……と。

 三悪人と軍団。

 その戦いの雄姿を留めんとして、周囲を取り囲むようにしてレンズを向けるカメラマンたち。

 雄馬の脳内では、そんな予想外のバトル・ロワイアルが今まさに繰り広げられている最中だった。

 さて、勝敗の行方はどちらに軍配が上がったのか。

 未だ決着の気配は無く、膠着状態に陥っていた。

 菅原文太の柳ユーレイ、大森うたえもん、そのまんま東、松尾伴内らを纏めて相手取り飲み比べを競っていた。

 マーロン・ブランドは、まわしと大銀杏おおいちょうかつらを被ったグレート義太夫と相撲を取り合っていた。さらに、義太夫の背後に回ってその他軍団メンバーがラグビーのスクラムを彷彿とさせるようなフォーメーションを組んでいる。

 一方、アレクのお父さん()の方は、すでに勝敗が決しているようだった。

 すっかり軍団共に打ちのめされたのか地面にて、うんともすんとも言わず死んだように突っ伏していた。

 死に体同然なアレクのお父さん()を、ビートたけしがしめしめと靴で何度も踏みつけながら、往年のギャグ“コマネチ”を元気よく見舞っていた。

『ざまあみろ馬鹿野郎。はっはっはっ』

 仇敵を見事討ち取れたことにすっかり心を良くした様子を、一人のカメラマンがまさにそのカメラに収めようとしたその時。

 おいコラ、この野郎! と、背後から怒号が聞こえた。

 振り返ると、そこには自分以外のカメラマンを強制的に排除してここに戻って来たばかりのガダルカナル・タカがブチ切れているのだった。

『殿が清々しくこの輩にヤキを入れているって時に。このカメラマン風情が!』

 加えてそこに、同じく殿を慕う気持ちからくる怒りとそれとは全く別ベクトルな怒りを含みながらそのもろもろを滲ませてやってきたダンカンの姿があった。

『この、不届きものが。俺はな、ただでさえ最近の阪神の落ち目っぷりにイライラさせられているんだ。俺の目の前で、殿と阪神を侮辱するってことはだ。覚悟はできてんだろうなぁ⁉』

 ため息をひとつ吐き、ガダルカナル・タカが仕方ないといった顔つきでどこからともなく徐に消火器を取り出した。

『こうなったら致し方ない』

 そんな彼に続く形で、ダンカンもまた徐に消火器を取り出した。

『俺たちが直々にヤキを入れてやる』

『コイツで生まれ変わるこった!』

『文字通り……真っ白になあ!』

 次の瞬間ファインダー越しに覗かれた世界は、真っ白な泡で覆い隠されてしまう。

 ――――そのうち、雄馬は考えるのをやめた。


「…………………。」

「ユーマ。へい、ユーマ!」

 肩をバシバシ叩かれて、ハッと我に返った。

 咄嗟に、雄馬は謝罪する。

「あ、ごごめん。つい、考え込んじゃって」

「まったく、しっかりしてよもう」

「ご、ゴメン。む、無理に聞いちゃったりして。誰だって、言いたくないことのひとつやふたつあるもんね」

「え、何の事?」

 とぼけて見せるアレク。

 雄馬は、頑なにオブラートに包むことを忘れなかった。

「何の事って。そりゃもちろん、アレクのお父さんのお仕事についてで……」

 え、と。突然両目を見開かせて驚愕のあまり呆気に取られた顔つきで迎えていた。

「それが言いたくないことなの。なんで。なんで、なんで?」

 問い詰められ、言葉に詰まる。

 なんでって言われても、と雄馬は声を振り絞るのが精一杯であった。

「伝統的なものなんでしょ? ……越中富山えっちゅうとやまの薬売りって」

「は? 薬売り、とな」

 思わぬ種明かしに、拍子抜けした様子で迎える雄馬だった。

「だから、さっきからそう言ってんじゃん」

「な、なんだよもう!」

 要らぬ心配が完全なる杞憂に終わり、せいぜい悪態をつくのが関の山だった。


☆☆☆☆☆☆


 そうこうしている内に、空が青から薄い黄色を帯びだしていた。

 校舎の時計は、すでに夕方の6時を回り始めていた。

 本来なら終了時刻までここからもう少し引っ張る処だが、畑が気を利かして早めに切り上げたため、今日の練習はそれまでとなった。

 水泳の授業で用いられる更衣室をチームメイツが陣取り、そこでもれなくユニフォームから普段着へと着替えを開始する、

 汗をきれいにふき取り、制汗剤を身体にて振りかけてから服に着替えて、用意を済ますと雄馬はいの一番に更衣室から飛び出した。

 すると、そこには雄馬のためにおっさんが出張ってくれていた。

「雄馬、お疲れ」

「あ、おっさん!」

「練習はうまくできたか? やっぱり、皆と何かやるってのは楽しいだろう」

「うんっ。なんていうか。こんな風に、いい汗かいたって思えたの久しぶりだよ」

「なら、良し。それで、いったい誰とやったんだ?」

「えっと――――」

 そんな悠長に答える間も無く、

「Bom descanso(お疲れ様)! ユーマ、今日は練習付き合ってくれてありがとう」

 突如として、そんな彼の背中に後から着替えを済ませた様子のアレクが飛びついてきた。

 反射的に吃驚させられてしまう。

 バクバクと脈打つ心臓を手で押さえ、乱れた呼吸を整えながらお調子者といった感じにアレクを見遣った。

「あ、アレク。お前……」

 ふたり同士の場に、まさに鳴り物入りで介入して来たアレク。

 そんな彼に強い関心を寄せた様子のおっさんが口元から、ほほうと唸り声をあげた。

「君だったのか。雄馬以外で唯一俺の提案に肯定的だった子か。そうか、アレクか」

「あっ、ユーマが連れてきたおっさん。おっさんの御蔭で、いつもみたいなつまらない練習に付き合わされずに済んだよ」

「はは、大分のめり込んでやってくれたみたいだな。いやあ、結構結構!」

「おっさんの練習なら、毎日でも大歓迎だもん。来てよ、また」

「あー、そいつは何よりも嬉しい言葉だよ。俺もやったかいがあったってもんだ。また、な!」

「うん、Adeus(さよなら)!」

 屈託のない笑顔を浮かべながら、アレクは去って行った。


 アレクが去って暫く。

 おっさんと雄馬は、裏の駐車場まで来ていた。

 駐車場の一角にて、おっさんの車が陣取っているのだった。

 呆気に取られた様子の雄馬にと、おっさんが次のように持ち掛けてきた。

「乗れよ雄馬。家まで、コイツで送ってやる」

「えっ、これって……」

 おっさん。

 そして、堂々と駐車された白と黒のコントラストで色付けされ、富山県と刻印されている一台のパトカー。

 雄馬は、それから、気のすむまで何度も何度も交互に首を振りながら見返し続けた。

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