第8回 おっさんの野球指導教室~その3~

 おっさんの指導教室が開幕して、暫く。

 中座して、校舎の玄関わきに設置された水飲み場で水分を補給し終え、6年生の3人組が揃ってピロティへ向かっていた道すがら。

 3人組のうちのひとり。

 副部長の高橋たかはしが、あーあ、と帽子のつば越しに太陽を睨み付けていた。

「チクショウめ」

 副部長本人の口から飛び出したかなり直接的な悪態の言葉に、供にしていた部長代理の阿部あべも憮然とした顔つきで迎えている。

 お節介ながらも、意を決した様子で先の言葉を論じた高橋に堂々と切り込んでいった。

「どうしたの高橋。なんだか、穏やかじゃないけど」

 当の高橋も、すっかりやさぐれてしまったのか傲岸不遜といった調子で華麗に切り返した。

「どうにも、こうにも。何だって、俺らがおっさんとのチャンバラごっこに付き合わなくちゃならないんだよ。普段通りの練習を忘れろなんて大見得切っといて、蓋を開けてみりゃこのざまだ。あのおっさん、とんだ食わせ物だったぜ」

 高橋はそこまで言っておきながら、わざとらしく、まるで彼らに顕示してみせてるみたいに、大きくため息を吐いた。

 時化た心持ちである当人を前にして、阿部は腫れ物に触れるよう極めて慎重に宥めてかかる。

「でも、最終的に高橋も、織田おりたも、了承したじゃないか。今更どうこう言ったところで、何も始まるわけでなし。僕は結構楽しいよ、あのおっさんに色々教えてもらうの。それとさ、言っておくけどチャンバラごっこじゃなくて、日本剣道形だからね?」

「そんな細かいこと気にするなって。確かに、納得こそはしたけどな。少なくとも俺は、ここに野球をやりにきたんであって剣道じゃねえんだ。バッティングの素振り練習をやるはずが、どうまかり間違えたら竹刀の素振りに変えが利くんだっての」

 なおも、鼻であしらいつつおっさんのやり方に疑問を呈する。

 一方で阿部も、そんな彼にただ言いがかるだけでなく、そこはかとなく相手側の心情を汲みながら述懐していった。

「まあまあ、そう言わずに。もっとどっしりと構えてみようよ。高橋、最近自分のバッティングに自信がなくなってきてるっていってたじゃんか。もしかしてこれを機に、バッティングのキレがうんとよくなるかもよ」

 すると、それを聞きつけた高橋はふとその歩みを止めた。

 つられて立ち止まる阿部に、徐に向き直る。

 そして、いたずらに引き攣った笑みを浮かべ、両手を前に持ってきてその指を忙しなくうごめかせた。

「どっしり、だと? どっしりしてるのはアベっちお前の腹肉の方だよ、この野郎っ」

 突如として繰り出される高橋からの手刀の五月雨突きが、肉付きの良い阿部の身体の上に何度も突き刺さる。

 阿部はこそばゆさのあまり、大袈裟気味に全身を使いリアクションを取った。

「うひゃあっ。ちょ、ちょっと、や、やめて。うひっ……ちょっとやめてっ、たら」

 悶え喘ぎながらなんとかして追撃をふりはらおうとする。

 しかし、その反応を見て高橋はすっかり火がついたのかなおも執拗に、掴みかかろうとしてきた。

「ええい、ジタバタすんな。今からお前の腹肉をバットのグリップに見立てて、両手でぎゅぎゅっと絞り込んでやるよ。そうすれば俺は、自分のバッティングに対して自信を取り戻せる。お前は、俺のお手製エステで強制的に痩せられる。一石二鳥じゃねえか!」

 グランドの片隅にて、少年たちのはつらつとした大声が発せられる。

 猛追から逃れようと阿部はその辺を逃げ回る。

 それを夢中になって追いかけている高橋。

 どうやらさっきまで燻らせていた不満はすでに吹き飛んでしまったようである。

 背後で広がる喧騒を一身に背負いながら織田おりたは、それまで無言で立ち尽くしていた。

 瞳を閉じて、じゃれ合っている最中の彼らの耳に聞こえるか聞こえないかの声量で呟く。

「……こんなくそ暑い中、よく元気でいられるな」

 諦め気味に、重たい瞼を上げる。

 すると、向こうから自分達と同じユニフォームの装いをした者がこちらへと向かってきていた。

 よく目を凝らして見ると、その人物は雄馬ゆうまであった。

 やや下に顔を俯かせながら、なぜかどんよりした足取りでグランドを渡り歩いていた。

 一歩一歩と確実に進んでいき10m、5m、3m、そして1m半と徐々にその間合いを詰めながら織田たちの居る所へと及んでいった。

 目と鼻の先まで達した所で、織田はようやく雄馬に対して一言声を掛けたのだった。

 しかし、

「お疲れ、あ……」

 あろうことか、雄馬は立ち止る素振りすら見せずそのまますれ違って行ってしまう。

 織田にも。

 そして、その後ろで未だ騒がしく取っ組み合ってる高橋・阿部両名に対しても、特に気に掛けるわけでもなくただ黙って通過していった。

 振り返った織田は、遠ざかり段々小さくなっていく雄馬の背中をじっと見据えた。

 雄馬が歩くたび、彼のスパイクが砂地に音を立ててその跡を残していく。

 遥か先にいる彼まで続いている金具の踏み跡を、じっと見つめた。

 織田はグランドに目を凝らしたまま一声も発さず、すっと手を胸元にあてがった。

 後輩からの、突然の仕打ち。ショックを隠すことができず、その場にて立ち尽くす織田。

すると、

「あいつ……」

 ピロティから出てすぐの所から一部始終を見て、おっさんが堪らず嘆く。


☆☆☆☆☆☆


 喉の渇きを潤した雄馬は、すぐにピロティには戻らず水飲み場の傍に設置された小階段でひとり腰を据えていた。

 じりじりとくる暑さに身を置き、ふと空を見上げる。例年の6月の富山に似つかわしくない、晴れ渡った青空が一面に広がっていた。

「暑いな……」

 未だ、小階段にて掛けたまま、目の前を見張った。

 雲一つない、空。

 自分たちが今日の放課後すぐにトンボで整地した、薄黄色のグランド。

 それから、雄馬から見て左側には体育館と呼ばれる巨大建造物がそびえ立っていた。

 定陵小学校の校舎は、全学年の生徒たちの学習棟と体育館が互いに垂直になるよう配置されており、上空からだと丁度アルファベットのL字型に見えるのであった。

 定陵小学校の体育館は、体育の授業や休み時間の生徒たちの憩いの場として用いられる以外にも、入学式や卒業式、毎年秋頃行われる学芸会の生徒たちの演劇などのイベントにおいても重宝されている。

 また小学校自体が市の指定避難場所とされているため全校生徒や教職員はもちろん、生徒の保護者も収容することを前提として建てられている。

 ちなみに大きさはどれくらいかというと、敷地全体で6分の1を占めている。

 なので、生徒は朝登校する度に、いやでもその建造物を見上げさせられる羽目になるのだ。

 その体育館はというと、外にむき出しになった鉄筋コンクリートの柱によって下から持ち上げられるかたちで建っている。

 一本につき10m弱ある高さの柱が、20本程コンクリート張りの地面から生えており、それらが等間隔で整列されて真上からの建物ひとつを丸々支えてるのである。

 そして、それに伴い床と天井とそれらの間にある支柱によって構成される吹き抜けの大空間。

 所謂「ピロティ」では現時点でおっさんによる野球指導という名の、剣道教室が開かれていた。

 喉が渇いたという口実で練習から抜け出した雄馬。

 しかし喉が潤ってもピロティには戻らず、ひたすら小階段にて座り込みを続けていた。

 そんな彼をあざ笑うかのように、西からの日差しがじりじりと照りつけててくる。

 おまけに、雲も風も、遮るものが何一つないため直射日光からは当たり放題なのでそれらを一身に浴びてしまい、雄馬は今一度額に汗を滲ませてしまっていた。

 そんな状態でも、雄馬はまんじりともせず一方的に座り往生を極め込んでいた。 そして、その場所から上の体育館によって避暑地を形成しているピロティを指をくわえてただ眺めているのだった。

 練習のサボタージュに対する罪悪感ではない、彼自身ですら形容しがたい思いが胸の奥底で渦巻いていた。

 それに囚われるあまり、こうして小階段にて暑苦しくも腰を据え続けているのである。

 暑さを少しでもごまかそうと、雄馬は自前のマゼンタのタオルを頭に乗っけてさらにその上から定陵の野球帽を被した。

 首回りに影が出来、若干の涼しさを確保してから無意識的に彼の口から言葉が漏れ出した。

「本当に、これでよかったのかな」

「何がだ?」

 聞き覚えのする声のした方へと、項垂れさせた頭を上げて見てみる。

 目の前にはおっさんが立ち尽くしている。

 突然の展開に、雄馬は口をあんぐり開け座りっぱなしのまま固まる始末であった。

 硬直した様子の彼の滑稽とも取れたその表情に、おっさんは思わず吹き出してしまった。

「ふ、ふふっ。まずいやっちまった、ってか。心配すんなって、ハタ坊には絶対密告るなんて真似はしないからさ。あくまでこの事は、俺の胸三寸むねさんずんに留めておく」

 しかし、だ。

 一旦飛び出した言葉を自らの口で制すと、おっさんは顔を引き締めた。

 改めて、雄馬に対し向き直ってから、低いトーンで語り掛けてくる。

「さっきのあれは、どうかと思うな」

「あ、あれって」

「分かってるだろう。さっきの、織田ってやつにむけての態度だ。あれは良くない……正直言って、とてもひどい事だと思う」

「……見てたんだ」

「少なくとも、見ていて気持ちの良いものじゃなかった。せっかく、向こうから投げて寄越してくれたってのに、何も返さずに立ち去るなんて。もしかすると、喧嘩でもしたのか」

 そんな、推測の域を出ないおっさんからの一言に、雄馬は敏感に反応した。

「い、いやっ。別に、僕と先輩たちとでなんやかんやしたわけじゃないよ。本当だよ、でも……」

 上級生とのいざこざを明確に否定するも、それ以上はとなると声をくぐもらせた。

 尻切れトンボもいいところな始末に、さすがのおっさんも眉を顰める。

「でもって、何だよ」

「そのう、これ、言っちゃっていいのかな」

 どっちつかずな雄馬の反応に、痺れを切らしたあまりおっさんの口から富山弁が飛び出た。

こと言うな。自分で言うのもなんだが、俺はそんなナイーブなタマじゃない。もしそうなら、わざわざパトロールの合間を縫ってこんなところに来てまで野球なんざ教えてられるか」

「お、おっさん」

「困ったこと悩んでること、例え後ろめたいことだろうが何かあったら誰かに聞けばいいじゃないか。俺でもいいし、ハタ坊でもいいから」

 血が昇った頭を一旦冷まさせてから、心が揺れ動く雄馬に優しく語り掛けていく。

「つべこべ言わずに、素直に白状しちまえよ。さっきも言ったが、このことは俺の胸三寸にだけ留めとくし、俺とお前ふたりだけの秘密だ。警察には、守秘義務ってのがあるから万が一俺から口を割るなんてことはしねえさ。なあ、どうか話してくれないか」

 長年警察で培ってきたおっさんのアメとムチの取り調べ術に、雄馬は観念せざるを得なくなった。

 それからというものの、完全に落ちた様子で訥々と長く語り出した。

「実は……」


 しばらくして、雄馬が洗いざらい全てを語り終える。

 すれ違いざまに6年生たちが陰口を叩いていたという報告に、おっさんは大きく声を上げて笑い出した。

「そりゃそうだ。高橋ってやつの言う通りだ、自ら足を運んで来てお前らの練習にお邪魔させてもらってわざわざ剣道の稽古つけてやってるなんざ。ちゃんちゃら可笑しい話だもんな」

 かんらかんらと、笑って見せるおっさんを目の当たりにする雄馬。

 軽く自嘲気味な様子に、少し戸惑った。

 笑っている傍から、雄馬が問いかけてくる。

「なんでおっさんは、僕たちにそうさせたの?」

「つまりさ、何事もそればっかりに焦点あててたらあんまりうまくいかないってことあるだろ。たまには、違う事やってリセットさせてリフレッシュを図ってやったほうが、かえって野球も上手くなるんじゃないかって」

「そういうもの、かな」

 両腿の上に肘をつき、頬づえをつきながら応じる。

 でもさ、とおっさんが途端に切り返してきた。

「お前が練習にも混じらずにここにいるのは、それだけじゃないんだろう? なあ、ここはひとつお前の本心を聞かせてくれないか。単に練習する気がないってんならそれに越したことはないからさ、頼むよ雄馬」

 核心に差し迫られて、雄馬は体育座りで蹲りながら苦しそうに示した。

「うぅ……」

「雄馬、別に無理してでも言わなくたっていい。例えそうだとしても、それもまた本心に違いない。つまり、俺が言いたいことはだな。その、なんていうかだな、」

 やや言葉に詰まらせながらも、おっさんは己のボキャブラリーをフル回転させる。

 彼に伝えたいことをがんばって捻りだそうとして、ついに口にした。

「ひとり。そう、ひとりじゃ野球なんてできないんだ。ふたりなら、キャッチボール。三人いりゃ、立派に一打席が出来上がる。人数が増えれば増えるほど、やりようは変幻自在。楽しみ方は無限大だ。やっぱり、皆といて何か一つの事をやり遂げるってのは素晴らしいことなんじゃないか。お前もそう思うだろう?」

 チラと、肝心の雄馬の反応を窺ってみる。

 おっさんからの問いかけに、黙したままコクリと頷いてみせた。

「ニーチェっていう哲学者曰く、『結婚生活は長い会話である』だそうだ。俺はそれを聞いて意味を正しく理解した時、それが野球にも言えるって事に気付いたんだ。お前も分かってると思うが、捕手キャッチャーのことを夫婦に見立てて女房役って言うんだ。だから、夫は投手ピッチャーだから本塁いえを預かる立場である女房に上手い事リードしてもらう必要がある。バッテリーが夫婦めおとなら、他の野手はその子供たちになる。つまり、一チームは言わば家族も同然だ」

「か、家族って」

「大家族も大家族だよ。でもってそんな大所帯を漏れなく纏め上げるには、会話が肝心になる。文字通りの意味なんかじゃなく、ボールからボールへの応酬。―――—つまり、キャッチボールだ。互いが互いを認め合い、尊重し、敬うからこそキャッチボールは初めて成立する。そういう奴らと、手と手を取り合い足並みもきっちり揃えて試合に挑むからこそ、野球は面白いんだ」

 でもニーチェはすごいよな、と。

 言葉を繋げながら、おっさんは雄馬にと同調を呼び掛けてきた。

「大昔の時点で、結婚生活の本質を完全に見抜いてたなんて。もっともとうの本人は生涯独身を貫いたそうだが、今のところ独り者の俺もそうなりそうだぜ」

 照れ隠しのあまり、ハニカミながら頭の後ろをバリバリ掻きむしってさらに続ける。

「まあ、いろいろ口喋くっちゃべったけど。俺はな雄馬、俺ばっかとじゃなくてあのピロティにいるチームメイツといろいろ交流して欲しいんだ。そうでなけりゃ、お前、今日までいったい何をモチベーションにして野球をやっているんだよ」

 雄馬は、緊張のあまり身体を強張らせていた。

 小刻みに震えながら、首だけをおっさんのほうへとぎこちなく向ける。

 何回も、何回も、何回も、執拗におっさんの顔とピロティとを見比べた。

 すると、段々自分の胸中で気まずさが広がってきて、喉元にはじいんと痺れるような疼痛が襲い掛かって来る。

 一度、つばを飲み込むと両目を固く瞑り始める。

 決意を秘めて、おっさんに向き直りゆっくりと重い口を開いていく。

「さっき、チームは家族って言ってたけど、」

ああ、と雄馬の問いかけにおっさんは唸るような声で応じた。

「でも、本当の家族と違って、チームは目的がなくなったらチームそのものもなくなっちゃう。だから、お別れしたら、もうそれまでだよ」

「そうだな。でも、例え本当の家族でも別れはつきものだと思うぞ。進学独立結婚、そして死。どっちにしろ、別れはいつか訪れる」

「それは、違うよ。なんて……人と人は、別れるものだよ」

 火が消えたように冷めきった面持ちになりながら、雄馬は静かに述べた。

 彼の妙に大人びた言い回しに、おっさんはすかさず切り込んでいく。

「それはいったいどういう意味なんだ」

 雄馬はそれまで、向けていた顔をおっさんから明後日へと移すと、再び口を閉ざしてしまった。

 まもなく、そんなふたりを軸に沈黙がぐるんぐるんとめくるめく。

 先の質問が宙ぶらんになるも、おっさんは眼前の迷える野球少年の彼に対してそれでも臆することなく、やんわりと食い掛った。

「警察官でも、指導者としてでもない。大人として、俺はお前を放っておけないんだ。お前の声なき声に耳を傾けて、暗がりをさまよう子供にしっかり道をつけてやる。それが、俺の思う『大人』なんだ。頼む教えてくれ、この通りだ。お前に一体全体、何があったのかを俺は知りたいんだ」

 あまりにも甘美すぎた聞き心地に、反面雄馬はそれに名状しがたい怖さを覚えた。

 咄嗟に心の中で身構えたが、気持ちはすでに楽になりたいという思い一心だった。

 見えない武装を解除し、身も心も手持ち無沙汰にすると、それから、雄馬は堰を切ったかのように自分のこれまでの生い立ちをおっさんに向け語り出した。


☆☆☆☆☆☆


 遡ること11年前の2月、啓蟄けいちつの夜明けとともにひとりの男の子が東京のとある病院にて生を受けた。出産し母となった妻は、早速同じく父となった夫に子供の名前を依頼した。了承した夫は、その日から辞書を片手に三日三晩子供の名前の事ばかりを考え込んだ。そして、悩みに悩み抜いた末、妻の腕の中に抱かれて眠る我が子に向けて命名した。

 男の子であることと、故事の『人間にんげん万事ばんじ塞翁さいおううま』からあやかり『雄馬』と名付けられた。それから、3年もの月日が流れて、雄馬は都内の幼稚園に入園した。母親ゆずりのつぶらかで大きく見開かれた瞳を持つ雄馬は、その可愛さぶりから開始早々に人気者となった。友達がいっぱい出来、ドッヂボールにサッカーやキャッチボールと毎日なにかしらで一緒になって遊びに興じるようになり、雄馬自身それはそれは楽しい日々を送っていた。だが、彼にとっての楽しい日もそう長くは続かなかった。

 雄馬が年長さんにまで上がり春には卒園式を控えていた幼稚園最後の年。その正月明けの仕事始めの日から夜遅くにやけに疲れた顔を引っ提げて父親が帰ってきた。そして、息子である雄馬と妻を前にして次の事を言い放った。

「本社から辞令が下った。引越しは来月の中旬だ」

 まだ幼かった雄馬には、それがいったいどんなに重大な意味を含んでるのかよく分からなかった。そのため彼の母親が電話で幼稚園に連絡をし、教室の先生の口からそのことを発表してもらう事になった。すると、先生の報告が終わり次第教室中一斉に泣き出してしまった。そしてそんな皆が号泣してるのを見て、子供心にやっとそれが『悲しい事』なのだと雄馬は理解できたのだ。

 そうこうしているうちに、迎えた幼稚園最後の日のバレンタイン・デー。

 教室ではお別れ会が催されて、雄馬も途中まで普段通りに皆と楽しんだ。最後の出し物で、クラスのひとりひとりから送辞を聞くことになった時。悲しみでいっぱいいっぱいな気持ちを寸での所でなんとか抑えていたが、最後の最後残っていた女の子が我慢できずにしゃくり上げたのを機に皆、堰を切ったように泣き出してしまう。それを見た雄馬も胸の中で申し訳なさと仲良しの皆と揃って卒園したいという無念さが広がり、堪えられなくなり皆に釣られる形で以って彼もまた号泣したのだった。

 彼の体験した人生最初の愛別離苦の出来事は、涙雨でずぶ濡れという惨憺たる結果に終わった。

 その後生まれ育った地元東京から離れ、転勤先である所沢に移り住む。その年の9月、母親がもうひとり子供を授かり、やがて玉のような女の子を産み落とした。

雄馬の時とは対照的に、この子の命名の場合は母親がその一切を担った。語感と字面の可愛さと、生まれた日がちょうどお彼岸を差していた事から『亜季あき』と名付けられ、雄馬の妹ならびに菅野家の一員となる。また、その年に雄馬は所沢の公立小学校にてピカピカの新一年生として入学した。持前の明るさを生かして、入学から一か月もしないでクラスの男子ほとんどと友達になれた。だが入学からちょうど一年が経過した頃、またもや父親の口から辞令が下りたという報せを告げられまた引越して別の所へ移動させられるハメになった。そのことをクラスの友達に、自分の口から伝えると案の定彼らの表情が一斉に悲しみに包まれて、それを見た雄馬は己の心にまたもや大きく影を落とすこととなった。

 それからというもの……菅野家は一家の大黒柱に辞令が下ればその都度引っ越して新天地へ。しばらくしてまた辞令が下り別の所へ、を相次ぎ主に東日本を中心に越して回った。最も頻繁に引越した時で、一年間に3回も立て続けに転々としたこともあった。

 最初のうちは、雄馬も転校の度に気持ちを切り替えて一からの友達作りにと張り切っていた。しかし、出会いも頻繁に訪れるが逆にその分、別れもある日突然訪れてくる。そして、出会う喜びよりも別れる時の悲しさの方が頭一つ上回ると自分の中で気付くようになり、雄馬は次第に友達を作るのが億劫になっていった。やがて、その経験により彼はあるひとつの処世術を見出す。

 人間関係の中で、一方が傷つくともう一方もまた傷つくことになる。傷がつくのは、必要以上に人間に接しているからだ。そうならないようやるべきことは、唯ひとつ。何人にも触れられぬよう、周囲を殻で覆ってそこに閉じこもりじっとしていることである。雄馬の心の中で、いつしかそんな頑なな決意が宿っていた。いずれにせよ、別れの日が来るというのならもう何もいらない。故郷も、思い出も、友達も。ただ、血のつながった肉親家族といられたら、それでいい。

 他人への挨拶ひとつさえ、接触になるのなら最初から目もくれずただ通り過ぎればいいのだ。いずれ自分はここからいなくなるから、むしろそれを返すなんて後々相手を悲しませることになるし余計な事でしかない。

 ……仲良くなれば、後で別れが来た時に辛く寂しいものに浸らせてしまうからだ。

 相手も、自分も。


☆☆☆☆☆☆


 全てが語られた時、グランドはいつになく重苦しい空気で満ちていた。

 雄馬も。

 おっさんも。互いに一言も交わすことなく、まんじりとせずただ黙りこんでいた。

 思い出を告げたばかりの雄馬の口の中は、金属製のスプーンを舌で撫でた時のような鈍重な味わいが広がっていた。

 口元に纏わりついたしつこさのあまり苦虫を嚙み潰したように顔を歪ませた彼を、おっさんはじっと見つめる。

 それで、ここに来たんだな。

 聞いた話を総合させながら、怪我人を看護するような姿勢で臨むと、おっさんは根本的な部分での疑問を彼に投げかけた。

「ひとつ、聞いていいか。そんなに人との関わりを避けたかったのなら、なんで、こんなところで野球をやりにきたんだ」

「いろいろあるけれど。でも……。僕のお父さんとお母さん、昔は仲良しだったのに、転勤につぐ転勤ですれ違う事が多くなったんだ。口を開けば喧嘩ばかりで、そういう『嫌なこと』があったときは、とにかく身体を動かして忘れるのがベストだと思ったんだ」

「要するに、うさ晴らしで野球やりにきてるのかよ。通りで、最初練習しているの見たとき可笑しいと思った」

「だめ、かな」

「駄目以前の問題だ。俺の言ってることと丸っきり逆じゃないか。ブチ切れて練習に臨むなんざ……そんなの疲れるだけだ」

 おっさんが感覚的に発した言葉に、雄馬はハッとさせられた。

 咄嗟に、それまでの自身の野球の練習を振り返る。

 確かに、そこには野球の一人練習で毎日ヘトヘトになって帰路につく自分がいた。

 いくらかやらないよりはスッキリこそしていたが、心はすっかり空っぽの有り様である。

 わずかに残っていた体力が、クタクタの身体を突き動かしているのだった。

 在りし日を振り返る雄馬に、おっさんが改めて呼びかける。

「楽しめって行ったろ? にしても、そろそろいい時間なんじゃないか。どうする、練習行くのかよ」

 しばらく黙りながら考えて、

「……やっぱり、僕行くよ。そうは言っても、レギュラーになって投手として活躍したいって目標は変わらないもの」

 雄馬はその唇に夢を乗せて謳い上げた。

 好感触を得たと思い、おっさんは尚の事励ましていった。

「そっか、ならきりきり練習行ってこいや。楽しむってこと、忘れるなよ。あと、平常心でな」

「うん、ありがとおっさん」

 行ってくるよ、そう言って雄馬は小階段にて掛けていた重い腰を持ち上げ、つま先をピロティに向けて一面クリーム色のグランドの上を掛けて行った。

 雄馬が水飲み場から踵を返して練習に向かうと、小階段にはおっさんひとりが残る。

 小さくなっていく彼の背中を見送ってから、大きくため息をついた。

「ふう、行ってくれたか。やれやれ、ガキひとりにやる気出させるのも一苦労だぜ」

 にしても、暑いな。

 常に一定の涼しさを誇るピロティとは対照的に、真夏の太陽が照り付けてやまない屋外でおっさんは横になる。

 両手で汗ばんだ顔を覆いかぶせて、アーチ―、チッ、アー……チー……と茹だる様な外気に対しボヤいてみせた。

「燃えているんだろうか」




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