11 海

「じゃあ、携帯のロックを解除して」

 ホテルのふかふかなベッドの上、彼女を抱き寄せながら、彼女の携帯を拾い上げて言った。

 彼女は眉をひそめた。それもそんなはず、携帯にはプライバシーが詰まっているのだから、他人に操作されたくないのだろう。ならば、と私は代替案を提示した。

「自分で削除してから私に見せて。電話帳とSNSの連絡先」

「それなら」

 ほっとした様子の彼女を不審に思って、つけ加える。

「メモ帳で書き留めようとしても、見ているから無駄だよ」

「うん。そんなことしない」

 彼女は落ち着いた顔で携帯を弄り始める。よくもこれほど容易く自分の彼氏の連絡先を削除できるな、と不思議に思う。もし彼氏さんも彼女に同じ働き掛けをしたなら、彼女は同様に私の連絡先を削除するのだろうか。

 そうだろうな。だって彼女は私が好きなのではなく、自分を愛してくれる人なら誰でも好きなのでしょう?

「できたよ。どうぞ」

 彼女は携帯を丸ごと私に渡した。メモ帳やその他のアプリもチェックしていい、という意思表明だった。ここまでさっぱりとした彼女の態度を嬉しく思いながらも、同じくらいに怖く感じる。目の前で、彼女が軽々と恋人を裏切る様子が繰り広げられたから。電話帳、SNS、メモ帳、数少ないその他のアプリを一通り確認したあと、私は恐れながら口を開く。

「最後の挨拶とか、しないんだ」

「……そうね」

 彼女は黒髪を耳に掛ける仕草をしながら、目を細めた。神秘的な瞳が私を捉える。耳に髪を掛けるとき、彼女の女性らしい顔の輪郭が見え隠れして、美しい。この美しさが性格に覆い被さっているせいで、私はつくづく彼女の本性を忘れてしまう。彼女は優しくて脆いけれど、自分に忠実で冷淡だ。

「どうせ、あとで会ったらまた聞き出せばいいもんね」

 皮肉がちに言うと、ベッドに置かれた彼女の手がギュッと拳に丸まった。しかし、鼓膜に張りつく柔らかい声音は変わらない。

「あなたから見たら、そうなるね」

 彼女は苦しそうに微笑みながら、視線をベッドに落とした。


 修学旅行から帰ってきてから、私は毎朝青いビルの前で彼女を待つようになった。放課後は彼女をドアの前にまで送る。休日はよく彼女の家に上がる。ドラマでよく見る重い女の仲間入りは嬉しくもないが、これによって彼女を私以外の人間から守れれば、重いなど些細な問題だ。

 ある日の土曜日、彼女を海辺のカフェに連れていった。

 きらきらと輝く砂浜の側に位置しているカフェは、肌寒い季節でも人の熱気が充満している。彼女が座っているテラス席の丸いテーブルの上に、二杯のホットのホワイトモカを置く。

「あれ、ホワイトモカは苦手なんじゃなかったの?」

 椅子に腰掛けようとする私に、彼女は目を見開いて質問する。

「もう、舌が痺れてもいいんじゃないかなって」

 ちゃんと椅子の位置を調整してから、甘いのは案外好きなんだ、とつけ加えた。テラスの横に顔を向ければ、砂浜を呑み込んでは去り、去っては押し寄せるを繰り返す透明の波が、程よく不規則な自然音を響かせていた。

「海は好き?」

 以前にも聞いた質問を、彼女は唐突に口にした。

「さあね」

 私は片手で頬杖をつきながら、遠くへ行くほど色濃く青に染まる海を眺めた。

 小粒の宝石がしきりに輝く海の真上は、目を眩ませる鮮明な空色。近いはずの二つの色は、しかし、水平線によってはっきりと分かれている。その水平線を、貨物船らしきシルエットが一定の速度で進んでいる。船の下に広がる水の世界はきっと、鮮やかな生き物たちで彩られているだろう。飛び込みたくなるくらい、爽やかで、閉鎖的な世の中から解放されて自由になれそうだ。

 だが、完全に身を中に投じることはできない。私はどう足掻いても閉鎖的な世界から逃れることができない。例えば、強くなって彼女を幸せにするという理想を叶えるために、私は受験でいい学校に入って、その後いい職業に就かなければいけないのだ。だから、海を見ているともどかしくなる。私は海が好きなのか分からなくなる。

 目をテーブルの方に戻した。ホワイトモカが熱いのか、彼女はふーふー息を吹き掛けながら一口ずつカップを啜る。私もカップを手に取った。それを口に近づける。

「甘っ」

 思わず声がこぼれて、彼女はおかしそうに笑い出した。

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