10 愛している

 電車に揺すぶられているうちに、目を覚ました。携帯を見る。夜十時半。次の駅が終点みたい。

 それにしても、見たことがない量の不在着信の通知が画面を埋め尽くしている。全て母からだ。そりゃそうだろうな。夜遅くまでに帰ってこない娘を心配したに違いない。

 電車を下りて、電話を掛けた。すぐに繋がった。

 ――どこにいるの!

 母の声は憤慨していた。

「ごめんなさい」

 私は静かに謝った。そして家に着くであろう時刻を冷静に伝えた。母は何があったか執拗に聞いてくる。色々あった、と言って、私は電話を切った。

 密かにつき合っていた女の子の二股が発覚したあと、電車に乗ってそのまま寝ただなんて言える訳がない。

 また携帯が鳴る。申し訳ないけれど、今は放置しよう。私は考える時間がほしい。別れを切り出す言葉を考える時間が。

 向こう側の車両に乗って、最寄り駅へ向かった。電車の振動が気持ちいい。まるで揺りかごみたい。

「もう別れよう、とかかな……」

 サラリーマンだらけの間に座って、「彼女との別れ方」を検索ワードにしてぼんやりとページを次々と開いていく。素直に見たままのことを伝えればいいのにな。それでも別れたくないと叫んでいる心が鬱陶しい。本当に別れなきゃいけないのかな。もしかすると彼女は脅迫されて、嫌々つき合っているのかもしれない。

 そんなあり得ない話に縋るくらい、私も落ちぶれたものだ。

 翌日、学校を休んだ。一日だけ休ませて、と母にお願いをしてみたら、さすがに私の異変に気づいたのか、許可してくれた。

 体調不良でもないのに学校を休むのは初めてで、不登校は甘えだと散々人を見下してきた私が、まさに同じことをしている。

 ベッドに寝転がりながら、次の日どう彼女に接せばよいのかずっと考えていた。

 別れるのなら、ちゃんと別れたい。二人っきりの場所で。できれば、私が落ち着いて告げられるような場所がいい。そうなると、教室や帰り道とかは無理だろうな。彼女の家は、さすがに入る勇気がもうないし。

「ホテル、とか」

 ふと脳裏に浮かんだのが来週の修学旅行だった。頬を撫ぜる潮風、体温を奪う冷たい空気と波の引く静かな音。綺麗だろうな。綺麗な彼女との最後も、そんな綺麗な風景の中で切り出せればな。

 もし修学旅行中に別れるなら、あと三日くらいは恋人でいることを我慢しなければいけない。恋人、か。忌々しい。一番の信頼を置いた彼女に、信じることの愚かさに気づかせられる。思い出したくもない光景を思い出させられる。

 綺麗な彼女と、男の人。

 男の人の頬に口づける綺麗な彼女。

 男の人とじゃあ、勝てっこないでしょう。彼女への劣等感。男への劣等感。私が割り込む余地はないようなものだ。初めて彼女との関係において、女として生まれてきたことを悔しく思ってしまった。


 修学旅行が始まる月曜日。我ながら本当にうまくやったと思う。残りの三日間を恋人として違和感なく過ごし、とうとう沖縄に向かう飛行機にまで持ってこれたのだ。

「すごい、東京が全部見えるよ!」

 となりに座る彼女は飛行機の小窓に張りついて、小さく視界に収まる都市を眺めながら感嘆の声を上げていた。黒髪が滑らかに流れていて、艷やかだ。絹のようなそれを、私は手ぐしで梳かしみる。

「やっぱりサラサラだね」

 触ることができるのも今日までだろう。そう考えると、胸が締めつけられたように痛い。自分に残酷な仕打ちをした相手がこうして素知らぬ顔でいるのに、それでもなお手放せないなんて、自分がどんどん憐れになってくる。

 そうだよね、目の前の笑顔さえも嘘だ。私と過ごすときの笑顔は皆嘘だったんだ。

 私が感傷的な表情を浮かべていたのか、彼女は私を心配そうに覗き込んできた。私はそれに耐えられず、すぐに目を逸らす。私は彼女が好きだ、裏切られても好きだ、しかしもう信じたくない。それらをとっくに知っていたはずなのに、改めて悟るのが怖くて、目を堅くつぶった。


 一日目の観光が終わり、私たちはホテルの部屋に入った。小さいけれどしっかりと二つのベッドがあり、ベランダに白い丸テーブルが配置されている。ベランダからの眺めは、単純でありながらしんみりとした一面の海。既に夜の暗闇に染まり、かつて私が彼女と電車で見たような原色ではなかった。

「ちょっと話があるから、来てくれる?」

 丸テーブルの側に立った私は、ワンピースのナイトウェアに着替えた、シャワーを浴びたばかりの彼女をベランダに呼ぶ。

 彼女は来てくれた。かわいらしいワンピースの裾が夜風に吹かれて、ひらひらと舞っている。

「星が見えるよ!」

 彼女の笑う表情こそが、明るくて眩しい星のようだった。

 ああ、彼女は本当に純粋で、綺麗。

 私はベランダの手すりに手を置いて、煌めく星々を見上げた。ふと思い出したことを彼女に言う。

「小さい頃、こうやって手を伸ばすと星を掴んで、金平糖にできるってお母さんが言ってて。捻くれた子どもだったからさ、昔から信じていなかったけどね。君に出会って、信じられそうだよ。確かに絶対にあり得ないと思っていたことでも、起きるんだよね」

 私はとびきりの、屈託のない笑顔を彼女に見せた。人生で一番毒の抜けた顔だと思う。

「ホワイトモカも飲んでみたよ。やっぱりあれは甘すぎる。私に甘すぎるのはだめなんだ。舌が痺れてちゃんと判断できなくなる。それにしても今日プールつきの別荘を見つけられなかったね。ここはリゾート地だから、絶対にあるはずなんだけど……」

 かつてないほど饒舌になった私に対して、彼女は困惑し始めたようだ。骨の形が推測できるか細い足が、一歩下がる。彼女の黒髪が風に持ち上げられている。そんな黒に相反する、色素の薄い肌。すらりとした体。これだけでも十分綺麗だが、何よりも彼女は私に優しかった。初めて心を開いた相手だったんだ。

 彼女のためにかっこいい自分になろうと頑張ってみるくらいに。彼女は絶対に私と一緒にいてくれると信用したくらいに。心を開いた相手だったんだ。こうして踏み潰されると、考えたこともなかった。

 思考に反して私のしゃべっている内容に大した中身はなかった。それでも、最後の時間稼ぎのために口が止まらない。

「そう、だから何が言いたいのかって、海辺の別荘は必ずあるってこと。ここになくても海の更に向こう側には……」

「大丈夫だよ」

 ふと彼女は口を開いた。延々と続く私のくだらない話は遮られる。

「あなたの言いたいこと、何でも聞くから。何か、あるんでしょう?」

 彼女は切なそうに微笑んだ。人を裏切ったのにも関わらず、よくもこんな被害者の表情ができる。だけれども、それさえも綺麗だ。私から見たその姿は、どうしようもなく綺麗なんだ。

 本当に別れるのか?

 ――今更だ、馬鹿。


「私たち、別れようか」


 あっけなく言葉が転がり落ちた。

 こうして私の一年間が終わるんだな。虚ろな一年間だった。それと同時に、彼女といられて幸せだった。だから、彼女を同じくらい幸せにしてあげたかった。

 彼女は固まった。その表情は怖いくらいに、変わらない。まるでこのまま石になったように硬直している。何が起きているのかすら頭に入っていないみたいな顔。

「突然に言い出してごめんね。でも、理由は君が一番分かっているでしょう? もう聞いたところでどうにもできないけど、あの男は恋人だったんだよね」

 彼女の唇が微かに動き始めた。男、という名詞に反応したのだろうか。震えながらこぼれ出てくる小声。

「そうだとしたら、あなたは、私のことが好きじゃなくなる?」

 私は口をつぐむ。瞬間、彼女に対して怒りがほとばしる。彼女を未だに好きでいるからこそ、まるで私の気持ちが薄れたため別れを切り出したかのような言い方は、あまりにも不公平だからだ。

 無条件に信用した私を裏切ったくせに。

 私はまだ、彼女のことが大好きなのに。

「ねぇ」

 彼女は答えを促す。私には答えられない。

 静寂の中、ポタポタと、床の白いタイルに水滴が落とされた。一滴、一滴。勢いが加速していくばかりでみっともなく落ちていくそれは、まるで夜空の星のように、綺麗に光って、床に広がる。

「あなたと一緒にいたい!」

 突然、彼女は壊れたように乱暴に声を張り上げた。顔を上げて彼女を見ると、ぐちゃぐちゃで不細工な、それでいて素直で綺麗な泣き顔が目の前にさらけ出されていた。

「私を見捨てないで! お願い、私に彼氏がいても……あなたのことを裏切ったとしても、好きでいてくれるって、言ってよ」

 とても無茶な要求だった。理不尽で、馬鹿げていて、そんな要求に応じる理由が私には皆無だった。しかし彼女は身を乗り出して、涙をも拭かずに一生懸命私に語り掛ける。ひたすらに懇願する。

「あなたまで――私を一番好きでいてくれたあなたまで、もし、もしも、終わりがあるなら、私はどうすればいいの。私は変だよ、すごく変になったの。私はとっくの昔に、安心して人を好きになるのを諦めたのに! あなただけはきっとそれでも好きでいてくれるって、思いたくて……」

 彼女はボロボロに崩れて、泣き声を抑えようともしないでありったけの思いを叫んだ。そうして、小刻みにその胸を震わせて、濡れた真っ赤な目で私を見つめる。彼女は私の言葉を待っている。彼女に彼氏がいても、私は彼女を愛し続けるという言葉を。

 彼女にはきっと、私がどれだけ悩んで、どれだけ泣いたのかが分からないだろう。あの男と彼女の光景が脳で繰り返される気持ち悪さ、絶望感、綺麗な彼女への思慕と、そうして私を騙した彼女に対する不信感。

 どれだけ愛していても消えない強烈な不信感を、知りもしないくせに。

 彼女は震えながら、黙って右手を差し伸ばした。繊細で今にも砕けそうな白磁の手は私の腕に伸びて、掴む。全身の力が込められた彼女の右手は、私の腕をキツく握りしめる。冷たくて、痛い。

 私はそれを振り払った。

 彼女の顔は絶望に染まる。唇を動かして、何か言葉がこぼれ出たが、それを聞く術もなかった。

 彼女は身勝手だ。こうして私に拒絶させて、一人で落ち込むのはとても身勝手な行為だった。しかし、そんな身勝手な部分さえも脆く見える。自身の弱みからさえ守ってあげたくなる。それに、私は本心では彼女にそんな表情をしてほしくなかった。彼女には、他の誰よりも笑っていてほしいと願っていた。

 未だに消えない彼女への愛情があるからこそ、私は最後の可能性に縋りつこうと思えた。彼女の求めている言葉を囁いてあげることで、その本心を見透かすという可能性に。

 ううん、もっと簡単な話で。ただ彼女の泣き顔を見て、その手を振り払ったことを後悔しただけかもしれない。

「……こう言えばいいのか。私は、君に彼氏がいても君が好きだよ」

 試しにそう告げると、しおれる直前に太陽の光を浴びた花のように、彼女の顔から悲しみがゆっくりと拭い取られる。彼女の告白、そしてこの反応。

 私は彼女が何を考えているのか、やっと知ることができた。

 彼女は、裏切りをも許容するほどに大きな愛がほしいのだ。ずっと変わらない愛、永遠の愛。私のことを、彼氏と一緒にいる場面を目撃してもなお彼女を好きでいてくれるような人だと、信じたかったのだろう。

 この欲望を叶えるためだけに、私は弄ばれて惨めな末路をたどった。私は彼女を満足させるための器にすぎなかった。しかし、逆に言えば、不変の愛を彼女に与えるだけで彼女を我が物にできるのだ。

 ふと脳裏に浮かぶフレーズ。

 ――例えば、私をあなたのものにする、って素敵だと思うの。

 彼女自身が言い放ったこの言葉に、私も同意しよう。そう、彼女を私のものにするのは素敵なことだ。何よりも綺麗で、繊細で脆くて、幸せになるのが怖いくせに捨て切れず、あらゆるものから守ってあげたくなるような彼女を手に入れるのは、確かに素敵なことだ。


 私は生まれて初めて、にっと、口角が上がったのを感じる。

 軌道を外す瞬間の気持ちは意外と清々しい。


 思えば、私は始めから方向性を間違えていたのだ。彼女に好かれるために、頼りにされるような人間になろうとした。しかし、それは不完全だった。どこかで中途半端な優しさと一般的な価値観が私の理性を引き止めて、彼女に完全な愛を与えることができなかった。

 だから彼女を得るために、余計なものを全部切り捨てればいい。例えば、彼女を愛している、しかし彼氏がいるなら別れる。これは正常な判断だけれども、彼女が欲する不変の愛の形ではない。そんな正常さは必要とされない。

「彼氏がいたところで、君に別れさせればいいだけの話だよね? 大丈夫、何があっても私は君を愛しているよ」

 初めて口に出す「愛している」という言葉がこんなに軽く言えるものだと、昔の自分はきっと思わなかっただろう。どうして今は自然に言えるのかな。目元に涙を浮かべたまま、呆然と私を見上げる清純な彼女。

 その肩を乱暴に抱き寄せて、私はいとも容易く唇を重ねた。何の雰囲気もなく、何の情緒もない。初めて触れた彼女の唇、とても柔らかくて潤いがある。ずっとこうしていたい。できれば噛んでみたい。私の唇が熱く赤いものに染まるくらい強く確かめてみたい。欲望の滝を辛うじて制止して、私は少しの間だけ重なった口を離した。彼女は襲い掛かられた仔鹿よりも震えている。

 私を繋ぎ止めていた糸が吹っ切れたのを、彼女も察知したかもしれない。


 恋は人を狂わせる。

 彼女を手に入れるためなら、余計なものを全て切り捨てよう。この際、私が彼女の浮気相手であってもいい。あの男を引き剥がせばそれでいい。

 こうして彼女の欲する愛を捧げた暁には、何よりも綺麗な彼女を私だけが幸せにしよう。海辺の別荘を買ってあげよう。彼女のしてほしいことを何でもしてあげよう。

 皆にとって完璧な人間になるなんてくだらない。母も先生も、彼女さえも信用ならない。尽くそうとしてもすぐに私を裏切る。私を利用することばかり考える。だから、私は自分のほしいものを手に入れるために生きよう。私は、綺麗な彼女を自分のものにしたい。

 再び口角が吊り上がる。

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