8 歩道橋

 あの日から更に半年が経ち、彼女と交際してから一年が過ぎようとしていた。

 肌寒い秋の夜、私は黒のオーバーコートを羽織って部屋のドアを開けた。塾用のカバンを持ち上げると、リビングに座っている母親の声が聞こえた。

「この間の模試、成績落ちたでしょう?」

 私は玄関に歩こうとして動かした足を止める。

「最近あまりよろしくないんじゃないの? せっかくS学園に入ったのに、T大に行けないのはもったいないのよ?」

「行けないって、何で?」

「判定が一つ下がったじゃない。あなたにも分かるでしょう?」

 高校二年生の秋から、親だけでなく、学校の先生も生徒も受験を意識し始めた。今まで割と容易に保っていた校内順位が揺らぎ始め、私の立場は確かに危うくなっていた。私は、完璧な人間として生きていきたい。そのためにはT大に入ることが必要だということを、自分も重々承知していた。

 母親は続ける。

「学会だっけ。そこで研究を発表したところで、T大二次には役に立たないよ。もしそれで浮かれているなら、もう研究やめた方がいいんじゃない?」

「いや、でも先生方が評価してくださって」

「憲法を研究している人なんてゴロゴロいるんだから、今更高校生が評価されたってお遊び程度でしょう」

 研究している本人の気持ちに全く配慮しない、しかし的を射た正論だった。高校の助けによって学会との繋がりを得たとはいえ、研究自体が稚拙なものであることは認めざるを得ない。実際憲法学者は世の中に多くいる。既にこれは熟成されたジャンルであった。

 私は唇を噛む。人に否定されると、すぐに自分のやっていることが虚ろな気がしてしまう。受験の合否が他の何よりも私の人生に影響を与えるのは紛れもない事実だが、心のどこかで努力を認めてくれないことに怒りを覚えた。

「ごめんなさい」

 それでも、私は素直に母に謝った。

「最近は確かに気が緩んでいたと思う」

 冷めた視線を横に感じながら、再び玄関に向かって歩き出す。

 高二の三学期は受験生にとってのゼロ学期。どこかで聞いた言葉が脳裏に浮かぶ。だとしたら、二学期の今は、高二最後の学期だともいえる。進学校に通う私にとってはなおさら、受験に一生懸命にならないといけない時期だ。

 母は決して悪くない。母の言っていることは何一つ間違っていない。私が苛立つのはきっと、優秀になり切れない自分が歯がゆいから。


 真っ先に目に飛び込んでくる塾の掲示板。今日、模試の順位が発表されたのだ。そこまで走って見上げると、タイトルから下に目を移しただけで、すぐに彼女の名前を見つける。うちの学校で最も点数が高い。当たり前だ、そもそも校内で一位を取り続けているのだから。

 自分の名前を探す。羅列する文字をたどるほどに、皮膚が冷えるような不安が胃の底から這い上っていく。やっと、見つけた。見つけたけど、見つけるのに時間がかなり掛かってしまった。彼女とは比べ物にならないくらいに下の方に位置していたのだ。

 歯を食いしばる。既に鎮めたはずの劣等感が心を蝕み始めるのを発見した。順位表は私が彼女に届くために必要な距離を物理的に表していて、まだ足りないということを私に突きつける。T大の判定が下がったばかりの私と、ランキングの最上位層に載る彼女。私たちの差はあまりにも大きかった。

 しかし。しかしだ。彼女は同時に失っている。私より優秀であったところで、彼女が私より幸せかと言えば、そうではない。こうして考えると、何だか妥当な気もした。私は彼女を助けるのだから、今更彼女に嫉妬することはないのだ。そう、自分は彼女に追いつくように努力して、あわよくば彼女のために役立ちたい。たとえ、彼女の未来が私のそれよりも明るかったとしても。

 ランキングから目を離して、教室に向かう。背後に佇む掲示板はどんどん遠ざかっていくのにも関わらず、物静かな存在感を押しつけていた。


 増大していく受験のプレッシャーとは反対に、学校では来週の修学旅行の話題で盛り上がっていた。行き先は沖縄。青い海と爽やかな風に対する憧れが、学年を賑わせている。

「ホテルが一緒の部屋でよかったね」

 彼女は嬉しそうにパンフレットをめくりながら、柔らかい笑みを浮かべる。休み時間の喧騒から隔離された教室の隅っこで、私たちは前後の席に座って喋っていた。

「ああ。今度こそ海辺の別荘が見えるかもしれないね」

「そうよね。楽しみだなぁ」

 沖縄の海を想像して、彼女は頬杖をつきながら陶酔した顔になる。私も夜の波打ち際に思いを馳せてみた。頬を撫ぜる潮風、体温を奪う冷たい空気と波の引く静かな音。もし彼女と一緒にそこを歩けたら。手を繋いだりして、そして、今まで踏み越えられなかった線を踏み越えられたら。想像するだけでぼっと顔が熱くなった。

 いけない、と首を横に振る。私は彼女が頼ってくれるような私になるのだから、いつまでも自分だけが緊張してはいられない。

「どうしたの?」

 彼女は怪訝そうな声で言う。

「いや、考え事をしていただけだよ。そうそう、楽しみだよね。船にも乗れるみたいだし、楽しみ」

 私は何事もなかったと言わんばかりの明るい笑顔を見せた。勝手に二人の進展に期待してしまっていたと悟られたくなくて。

 そんな私を、彼女は思索に耽るように目を細めてじっと見た。何秒か経って、今度は私が「どうした」と聞くと、またいつもの笑顔に戻る。

「来週が早く来るといいね!」

 はつらつとした声で、彼女は先程の異様な静寂を吹き飛ばした。


「ただいま」

 革靴を揃えて玄関に上がる。キッチンの方で音がしたので覗いてみると、母が夕食の支度をしているようだ。

「帰ったのね」

 フライパンで野菜を炒めながら、ドアの横から顔を出す私に目もやらずに返事をした。まあいい。私はキッチンから離れる。秘密にしている恋人と一緒に帰り道を歩いたばかりだから、母親に視線を向けられたら、それはそれで罪悪感があって困る。

「今日は塾があるから、私のぶんは作らなくていいよ」

 大声で言ったあと、雑然とした食卓からパンを適当に一つ取ってビニール袋に入れた。キッチンの方から返事が聞こえてくる。

「そういうことはもっと早く言いなさい。あと、模試の順位はちゃんと見た?」

「掲示板に貼ってあった」

「なら分かると思うけど、このままじゃあ大丈夫かしらね」

 二学期に入って、やはり母は焦り出したようだ。順位表にこそ入っていたけれど、彼女だけでなく、私を抜いた人は学校の中で何人もいる。入学当初見下していた同級生たちが、いつの間にか私を飛び越えていったのだ。昔の栄光を思い出すと、胸の中が悶々として、ひどく不快になる。

 このままじゃあ大丈夫かしらね、って。それを知っていたら、とっくに大丈夫なんでしょう。

「修学旅行終わったら勉強漬けになるからさ」

「今週からやりなさい。また甘えたことを言って……」

 母はまだ何か話したがっていたようだが、私は聞こえなかったフリをして、さっさと塾用のカバンを拾い上げてドアの外へ逃げた。


 秋の夜は冷たい。駅から降りた瞬間、繁華街の喧騒、人波、そしてコート越しに肌を突き抜ける寒さを一気に感じ取る。刃物のような冬、という表現があるが、秋にも通用するだろう。縮こまりながら、人の流れに沿って塾へ進む。

 周りはカップルだらけだ。はしゃいでいるグループもいれば、つき合いたての初々しい男女もいる。こうして一人になってみると、自分にも恋人がいるなんて不思議に思える。昔の私なら、さぞ「くだらない」と軽蔑していただろう。でも今の私は、皆が幸せになれるように、と祝福してあげられるほどの余裕がある。恋の満足を味わっている人は暖かい声を出すもの。どこかで聞いたこの言葉を初めて実感した。

 こんな風に温かい気持ちになれるのも、彼女のおかげだ。彼女のおかげで、私は人に受け入れられて、人に好かれることを経験できた。そう、だから彼女にお返ししたいと願ったんだ。

「修学旅行か」

 都会の蛍光灯が真っ暗なはずの空を鮮やかに染める。大音量で流される音楽、電子看板に映し出される広告、せわしなく流れていく人々。でも、何だか嫌な感じがしない。私は変わったのだと思う。少しくらいは世界が好きになったのだと思う。

 汚れた歩道橋を上ると、塾の看板が目の前に現れた。薄く光るそれに向かって、空き缶が転がる歩道橋を渡る。階段を下りればそこは塾だ。そうして階段に足を踏み出そうとした瞬間。


 階段の下には彼女がいて。

 彼女は見知らぬ男の頬に、唇を当てていた。

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