7 あなたって優しすぎる

 高校二年生の春、桜が咲き誇る街を通り抜けて青いビルの中に入った。彼女の家に足を踏み入れ、

「今日は雑誌の発売日だ」

 と、早速バッグから住宅雑誌の新刊を彼女に差し出す。

 彼女は真正面にいた。冷たい玄関に腰を下ろし、体育座りで私を待っていたようだ。私と一緒に選んだ白いワンピースを着ていて、ふわふわした裾が床に広がる。

「来てくれたんだね」

 彼女は柔らかな笑顔を私に見せた。

「ああ」

 私は答えて、遠慮せずにリビングに入る。

 彼女とつき合って約半年。時々彼女の家に遊びに行くようになった。今日はその後にデートをするため、彼女を迎えに来たところ。私はキッチンの冷蔵庫を覗いて、

「お惣菜作り置きした方がいい?」

 と彼女に聞く。

「気持ちは嬉しいけど、どっちかというと早くお出掛けしたいな」

 振り返ると、ワンピース姿の彼女は舞うようにぐるぐると回転していた。

 目を細めてかわいらしい行動を脳に焼きつけたあと、私は彼女のトートバッグと自分の黒いバッグを床から拾い上げる。彼女は両手でがっしりと私の左腕を掴んだ。

「今日は機嫌がいいんだな」

 彼女はうんと頷いた。

「だって一緒にお出掛けするんだもん」

「それはよかった」

 外に出ても私と彼女は腕を組み、恋人同士として満開の桜の中を歩いた。


 ランチを取ったあと、電車に乗って目的地へ向かった。窓の外、細かく磨き立てられた青い宝石のような海が、太陽の光を反射して煌めいている。遠くにあってもはっきりと見える白い橋が、快晴の空を背景にしっかりと海の上に掛かる。向こう側の陸地にも、ピンク色の木々が点々となって散らばっていた。

「いつも雑誌で読んでいるところみたい」

 彼女の頭が肩に寄り掛かって、心臓がドクンドクンと鳴る。子どもの頃、喘息を引き起こすたびにそうして母に寄り掛かっていた私が、今彼女に同じことをしてあげられている。そんな幸福を噛み締めながら、緊張しているせいで全身が固くなった不甲斐ない自分を嘆かざるを得ない。

 大海原を眺めながら、彼女は私に問い掛ける。

「海は好き?」

「好きだよ」

 素直に答えて、私は続けた。

「だってすごいよ。ここが、雑誌に出てくるような綺麗な場所と繋がっている。水平線よりもずっと遠いところに、綺麗な海辺の別荘があるんだよ」

「あなたって本当に綺麗なものに弱いのね」

「だから君のことを好きになったんでしょう?」

 さらりと言う私を、彼女が一瞬驚いたように見上げた。すぐにまた頭が私の肩に寄り掛かったが、微かに俯いている姿を見て照れているのだと気づく。彼女が自分の言葉で喜んでくれたことが、たまらなく嬉しかった。


 駅に着き、展望台のあるビルの中に入る。人気のない最上階から世界を見下ろすと、縹色の東京湾がすっぽりと視界に収まった。ガラスに張りついて感嘆の声を上げる彼女の姿は、壮麗な海によって小さく小さく目に映ってしまう。早速展望台に設置された望遠鏡のところへ走って、外の景観を観察し始めたようだ。

「どう? プールつきの別荘が見える?」

 望遠鏡を覗き込む彼女に冗談を言いながら近づくと、明るい声で返事が飛んできた。

「それは見えないけど、紹介に書いてある建物は全部見つけたよ!」

「早いな。さすが」

 となりに立って彼女の頭をわしゃわしゃしてみたら、彼女は嬉しそうに目を閉じてされるがままにした。その滑らかな髪は、悔しいくらいちっとも乱れない。細糸が水のように指の間をすり抜け、手を動かした際に滑り落ちて元通りになるだけだ。

 私が手を離すと、彼女は望遠鏡の中に視線を戻した。片目を細めて、右手でカチカチと機械を弄っている。私は腕を組みながら、まるで少年のように真剣に望遠鏡を調整する彼女の微笑ましい姿をじっと見守った。ここに来て、これほど本格的に操作する人は彼女くらいなんじゃないかな。

 私は、この瞬間はきっと人生で一番幸せな瞬間なんだろう、と思った。


「それにしても、あなたとここに来れてよかった」

 ふと、はしゃいでいた彼女の声色が静かになった。

「一人暮らしだから、いつも誰もいなくて寂しかった」

「家族は会いに来たりしない?」

「うん。全然」

 怖いほどに冷静な声で答える彼女は、まだ望遠鏡をカチカチしながら覗いている。一度も自分から家族の話をしない姿勢が淡白なものに感じられたが、その冷徹さには何かを堪えている様子も見受けられた。

「実家にいるの?」

「ううん」

 突然、彼女は望遠鏡から顔を離す。絵に描いたような端正な容貌が私に向けられた。私は戸惑った。先程のリラックスした雰囲気と一転して、これ以上ない真剣な表情が見えたから。

「あなたに話しておかなきゃだよね。私の家族がどこにいるかって」

「普通に、実家かと」

「建前と本当のこと、どっちが聞きたい?」

 彼女は寂しそうに目を落とした。くっきりとした輪郭に影が宿り、更に綺麗になる。例えるなら、雨を浴びた白百合の花。純潔なのに、濡れているのが色っぽくて、このままの姿に留めておきたいのに、早く悲しみを払拭してあげなければならない。

 彼女はきっと家族と何かあったのだろう。だからこんなにも辛そうに佇むのだ。

「建前でいい」

 彼女の傷口を抉りたくなかった。だから、不器用ながらも、真実を話させることを避けた。

「優しいのね」

「建前の方が聞きたいだけだよ」

 彼女の足がプルプルと震え始めた。風に流されてしまいそうなほどに弱々しい。その体を掴んであげなければ。

「私の家族はね、同じビルに住んでいるの。建前ではね」

「これ以上は話さなくていいよ」

 私は彼女の手を握った。彼女は黙って、私の手を見つめた。その瞳は揺らいでいた。目元には涙が全くないのに、とても泣きそうに見える。涙を出すのをぐっと堪えているだけで、本当は既に泣いているかもしれない。ああ、彼女の手は冷たい。やはり、薄く脆いガラスでできたみたいだ。

「私は、初めて人に話そうって思えたの」

 無理して声を絞り出しているようで。

「私でも不思議。自分をコントロールできない感じ、っていうか。こんな感じは初めてだと思う。あなただからだと思う」

 無理して口角を上げようとしているようで。

「本当は、もう家族はいないの」

 声が響いた瞬間、体の正面に物理的な衝撃が走る。彼女が思いっきり自ら私の体に飛びついたのだ。布越しに小刻みの振動が伝わる。私の服を掴んで、彼女は頬を私の胸に擦り寄せてくる。熱く濡れた息が降り掛かり、私はやっと彼女に頼りにされたのだと、ふと実感した。

 彼女を慰めてあげなければいけないのに、真っ先にそんなことを実感してしまった。

 両腕を彼女の背中に回し、彼女の顔を胸に埋める。

「よくある話なの。お父さんとお母さんが離婚して、私をお父さんが引き取ったんだけどね、再婚相手の人が私のことをあまりよく思っていなくて。お父さんも今度こそうまくいきたいから、私をたまたま余っているビルの三階に住ませた」

 私の服に、涙が染み込んでくる。肌には水の湿った感触。彼女の泣き顔は、ぐちゃぐちゃで綺麗。頬が紅潮していて、息がこれ以上ないくらいに乱れている。近くて、展望台の空気が熱い。綺麗。今すぐ真っ赤な唇を奪いたい。

 彼女がこんなに悲しんでいるのに、そんなことばかり思うなんて最低だ。

「小学生の頃から一人暮らしなの。ううん、時々お手伝いさんが来てくれたんだけど、それも中学生になったら必要ないと言って、来なくなった。あいつらを家族だなんて絶対に認めない。もし、もし最初から私を裏切るなら私はあいつらを好きにならなければよかった! 旅行に行ったり夕日を見に行ったり誕生日に子犬をくれたり、私を、そうやって騙して!」

 ポロポロと落とされていく透明の雫が、絨毯の敷かれた展望台の床に消える。周囲に誰もいないからか、彼女の声は激昂した。そして、自らの大声ではっとしたように、黙り込む。私は恐る恐るその背中を上下に撫でた。華奢な体から、こわばった背筋の骨が感じ取れる。

 そのまま、長い静寂が続いた。私も彼女も動かず、ただ同じ姿勢で抱き合っている。ずっと同じ姿勢でいると、今まで経験したことのない近距離でも妙に落ち着く。そうして、やっと彼女の置かれている状況を客観的に飲み込むことができた。

 彼女は親の離婚によって、小学生から一人暮らしを続けている。誇張を疑うような話だが、不可能な話では決してなかった。激しく感情を前面に出すタイプではない彼女が、こうして泣き叫ぶくらいなのだ。事実だと受け入れざるを得ない。

 それでも、気掛かりはあった。私に告げられた事実が彼女の人生に影を落としているとしても、普段の彼女から過去による危うさを感じることはない。それは、彼女が自分の過去を克服しようと試みているからだろうか。それとも、私と同じように、弱みを心の中に秘めて、他人に触れさせないよう気を張っていただけだから?

 何分か経った。未だ思考に耽る私に向かって、弱々しい声が紡ぎ出された。

「だからね、私は幸せになったぶん不幸せがやってくると思う。誰かを好きになったぶん、失ったときに辛くなるのと同じ。ううん、裏切りだけじゃなくて、結局人間は死んだり、別れたりするんでしょう? 大好きな人とずっと一緒にいたいのに、永遠がないから、ずっと一緒にいられない。永遠がないのは、仕方がないよ。だから、生きていくとすれば、幸せになりすぎちゃいけない。幸せなときに不幸せになりに行った方がいい。せめて、不幸せになったときに受けるショックを軽くしようと思うの」

 長々と述べたあと、彼女は大きく息を吸い込んだ。私はバッグの中からハンカチを取り出して、彼女の目元を拭いた。思えば私は彼女の泣き顔に惚れたんだ。それが美しく見えないはずがない。

 彼女は考えすぎだと思う。幸せなうちは、今ある幸せを噛み締めればいい。そうした方が余程楽なはずだから。例えば私は彼女といられて幸せだ。ならば、これでいいじゃないか。幸せを避けて生きるのは、きっととても辛い。だから彼女はこんなに辛そうで、寂しそうだ。

「私は君を幸せにしたいと思う、けど」

 彼女の背中を撫でる手を止めないまま、言う。

「そう。優しいね」

「だって、好きな人と一緒にいられるのに、あえて不幸せになりに行くのは辛すぎるじゃない」

「あなたって」

 彼女は深呼吸をすると、私の腕の中から抜けて、海を背後にしてくるりと振り返る。瞬間、申し訳なさそうな瞳をしながら笑う彼女の姿が、脳に映し出される。

「あなたって、優しすぎるよ」

 澄んだ声はこんな近くで響いているのにも関わらず、燦々と輝く海に吸われたかのように、細く、短く、儚く消えていった。

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