2 黒百合

 お風呂を沸かす音がします。彼女が準備してくれたようです。シャワールームを覗くと、温かい水蒸気が充満しています。

 私たちは着替え用の小部屋に入りました。淡黄色の狭い空間に設置された大きな鏡が、か細い腕にすっぽりと収まった私の姿を映し出しています。彼女は私を下ろすと、鏡に向かって私のワイシャツを脱がし始めました。レースのついた白い下着が、ワイシャツと共に床に脱ぎ捨てられます。彼女は深く息を吸いました。そして、視線を鏡から逸らしました。かわいい人です。

 私はぎゅっと彼女の腕を抱き寄せました。そんな彼女はすぐさま腕を引っ込めようとしています。私がくっつくことを嫌がっているようです。仕方なく彼女から離れると、彼女はしばらく私を眺めてから、意を決したように私の髪を指で梳かしていきました。彼女から外の世界の匂いがします。しょっぱい匂い。早く服を脱いで、シャワーを浴びてほしいものです。でも、この匂いも私のためにあるのだと考えると、とても嬉しくなります。彼女はきっと疲れたのでしょう。私が彼女を元気にできたらな。渇いた彼女に、たくさん愛を注がなければなりません。

 床に落ちた服を拾い上げて、彼女は洗濯機の中に入れました。何をしても構わないのよ、とからかったら、彼女は木の枝でつっつかれたハリネズミのようにぴくりとして、

「何もする訳ないでしょう」

 と答えました。私にだけこんな態度を取る彼女は、やはりかわいい人です。

 ため息をついて、服の裾を引っ張り上げた彼女。シャツの下から露わになる肌は、少し焼けています。首まで服が抜け、短い髪が颯爽と揺れました。そして、ぶっきらぼうにシャツを床に落として、振り返ります。そのまま私の腰に手を回して、シャワールームに入っていきます。

 彼女がシャワーの蛇口を捻ると、ポロポロと水が雨のように降ってきました。私は突っ立ったまま、顔に注いでいく水滴を見上げました。外の世界では雨がよく降る季節のようですが、なかなか濡れる機会がありません。最後に雨の中を歩いたのは、いつだったのでしょう。四月の終わり頃でしょうか。案外、そこまで経っていませんでした。私は呆然と綺麗な水玉たちを眺めました。

 水で濡れた私の肩に、彼女は慎重そうに手を置きます。そして、それをゆっくりと動かし始めました。シャワールームの鏡が、二人の姿を包み隠さずに映し出します。彼女は手を私の二の腕に移動させました。その後、優しく私の腰に指を擦りつけます。彼女はただ私の身体を洗ってくれているだけです。少なくとも、彼女はそのつもりでいたいでしょう。その手がお腹あたりに触れたとき、彼女の息は少々荒くなりました。私の耳に生々しい息が当たります。

 彼女は焦ったようです。残りを自分で洗うように指示して、シャワールームの外に出ていきました。慌てて私から離れる彼女の背中を目で捉えてから、自分の体に視線を下ろしました。何の変哲もありません。

 私は胸や脚などの、残りの部位に水を流しました。洗い終わった頃に、彼女は帰ってきました。手に、黒百合の入ったガラスの花瓶を持っています。この間花瓶をバラバラに割ってしまいましたから、新しく買ったのでしょう。彼女はそれを床に置き、代わりに私を抱き上げて、優しくお風呂の中に入れてくれました。綺麗だね、と私が喜んでいる間、彼女は一本の花をつまみ出して、お風呂の中へ一枚一枚と花びらをねじり落としました。紫紺色の花弁が次々と熱い水面に浮かびます。そのまま、全ての黒百合が散って、ぷかぷか浮かびました。

 彼女は陶酔した表情で、お風呂全体を俯瞰しました。湯気を発する透明な水と、しっとりとした色合いの黒百合が、お互いを引き立て合っています。彼女は床に腰を下ろしました。一緒に入らないの? と彼女に聞きました。

「君が入ればいい」

 彼女はお風呂の縁に腕を組み、頭を載せました。その顔が私よりも低い位置にあることが、どうも新鮮です。彼女の頭を撫でて、一緒に入ろう、と声を掛けました。

「せっかく綺麗なのに、それを汚くするような真似はしない」

 どうやら、一緒に入らせることは難しそうです。こだわりに対して、とことん固執するタイプですから。代わりに、と言って、私は彼女の真正面に移動しました。何か言おうとして、彼女は唇を動かしましたが、私はすぐさまそれを自分の唇で塞ぎました。濡れた髪を耳に掛けながら、目を閉じます。

 何秒かキスを続けました。口を離して再び目を開けると、彼女はひどく息を取り乱していました。キスでここまで呼吸が厳しくなるとは思わず、微かな不安が心を過りましたが、彼女は深呼吸をすることでペースを取り戻したようです。彼女の背中に手を回して、呼吸のリズム通りに撫でました。しかし、突然彼女は私の二の腕を力強く掴み、私を引っ張り寄せて、いきなり首を噛んできたのです。

 既に歯車が外れていたことを思い出します。

 彼女の息が激しく降り掛かり、歯の圧によって皮膚が破けたのでしょうか、血が滲み出ました。結構、痛いです。ええ、でも私は平気です。

 首を噛まれながら、彼女の肩をぎゅうと抱き締めてあげました。彼女は脆い人間です。しかし、私は受け入れます。肉体の痛みくらいは、簡単に乗り越えられます。彼女の頭に、頬をくっつけました。

「痛いか?」

 やっと私の首から唇を離した際は、一転して、衰弱し切った表情です。私はその虚ろな瞳に求められている回答を知っています。首をぶんぶん横に振りました。

「嘘でしょう」

 枯れた笑い声です。その言葉のあと、すぐにこふこふと咳をしました。そういえば、彼女は喘息持ちでした。高校時代には大丈夫だったのですが、また発作したのでしょうか。咳をどうにか抑え込んで、彼女は揺らいだ瞳で聞いてきます。

「あとで触ってもいい?」

 今更すぎる質問です。彼女はいつも、変なところで真面目なのです。基本的に、私に配慮して行動します。私は当然頷きました。彼女は慰められたような寂しい笑顔を見せました。

 ぐるりと背中を私に向けて、腕を顔にゴシゴシと擦りつけたあと、彼女は立ち上がります。ガシャンとシャワールームのドアを開けて、危うい足取りで出ていきました。

 黒百合の花びらがお風呂の水で柔らかくなっています。指で掬うと、べたりと指の腹につきました。彼女の生き方が思い出されます。

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