Euphoria

K

彼女の私

1 私の世界

 カーテンの後ろから静かに紅が浸透していきました。リビングを漂う粉塵が光に照らされながら、床にゆっくりと沈んでいきます。床にはガラスの破片がぶっきらぼうに放置されていました。

 私はリビングの本棚に寄り掛かって、じっくりと夕日が沈むのを見ました。両腕を掴む手錠をシャカシャカさせてみました。正午からつけっぱなしだからでしょうか、金属の冷たさは感じられません。ただ、窓から差し込む眩い残照が私の身体に冷ややかな影を落としています。

 夕日が綺麗だな、と思いました。

 夕日に反射して光るガラスも綺麗だな、とも思いました。

 床は透明なガラスの欠片、枯れ葉と乾いた血の汚れでぐちゃぐちゃになっています。だけれども、それが一種の特別な美を成していました。私にだけ与えられた綺麗な風景画みたいです。彼女がいつも綺麗なものを組み合わせて、ぐちゃぐちゃにするから、違和感なく混じり合ってしまいます。ガラスも枯れ葉も血も、穏やかな夕焼けの中で調和して、きらきら輝いているのです。

 もうすぐ一日が始まると思うと、何だかドキドキします。

 日が沈む前に、彼女はきっと帰ってきてくれるでしょう。私の世界がこうして回っている限り、彼女の世界もそうして回っているのですから。


 闇の中から、音が聞こえました。

 どうやら寝てしまったみたいです。リビングは既に明かりがついていて、残り僅かなオレンジ色の染みが、カーテンからどんどん抜けていきます。目の前に彼女がいました。しかめっ面です。立てた膝に腕を乗せて、頬杖をついています。観察するように私の顔をじっと見ています。左手あたりに、金線で縁取られた紙袋が置かれていました。

 私は嬉しくて、手錠をシャカシャカさせてみました。笑い掛けます。彼女にじっと見つめられながら、色々と話し掛けました。彼女は何も返事をしません。ずっと表情を変えません。

 いいえ、彼女は気難しい人間ではないのです。ただ疲れた模様です。そうなったときの彼女は、私を見ているはずなのに、あたかも私が見えないように無視します。きっと今日も私から離れたのが辛いのでしょう。大学に行くのは、それだけつまらないことです。私のためにそれでも行っています。今日も頑張ったね。おかえりなさい。もうお家だよ。私の話が川となってどんどん流れていくうちに、彼女は紙袋から何かを取り出しました。

 おいしそうなショートケーキが入った箱でした。生クリームたっぷりで、いちごもたくさん載っています。シンプルでありながらかわいらしく、精巧なデザインです。

 目をきらきらさせながら、彼女を見ました。彼女はいつもの顔です。私のことをただ見ています。じっと見ています。私は、彼女にできる限りの一番いい笑顔を見せました。

「好きそうだから、買ってきた」

 彼女はようやく口を開いて、ケーキの箱を片手に持ちながら立ち上がりました。

 また私の顔を見ます。瞳の中に、私の姿が映っています。私は更に笑顔を輝かせました。すごく嬉しい。嬉しいって分かってくれるかな。彼女を見上げて、瞳の中を覗いても、何も返事をくれやしない。でも話し掛けます。彼女はそれを享受すべきだから、私は言葉をたっぷりと浴びせます。彼女は多弁な私に戸惑い始めました。そして私から目を逸らしました。

 突然、彼女は手に持った箱を傾けたのです。

 ケーキが箱から滑り落ちて、ぐちゃっと床に広がりました。いちごが転がって、止まります。一瞬にして生クリームの塊となったケーキを、私はしばらくの間呆然と眺めました。そして、ふいに見上げると、彼女は楽しそうに口角を上げていました。

 しゃがんで、私の目を覗き込みます。いつも自嘲と無関心を盾にして自身を守る彼女の笑顔が見られて、私は嬉しいです。彼女は指先を揺らしました。床に落ちた、形の崩れたケーキに向かって。

 私は彼女の意図を汲み取りました。ごくりと唾を飲み込んで、手錠をしたまま前かがみになりました。舌を出します。冷たいクリームを一生懸命舌で掬い取りました。ああ、前髪が視界の邪魔をします。私は今、とてもみっともないのでしょうか?

 固形の生地は舌だけではどうしようもありません。ぱくりと口の中に収めようとしても、手錠が引っ掛かって、なかなか届きません。途方に暮れて、前かがみの姿勢で彼女を再び見上げました。彼女は私を舐め回すように見つめて、無様な私を愉しんでいます。しかし、もうすぐ限界でしょう。私といるときの彼女は、常に熱に浮かされているのですから。

 仕方がありませんので、残りのクリームを舐め上げるのに尽力していると、彼女の指先が目の前に来ました。生地を指で挟んでいます。私は彼女の指を生地と共に咥えました。口を離したとたん、唇と唇が重なります。

 生地を噛みもせずに呑み込んじゃって、すぐさま柔らかな感触を押さえつけました。目を固く閉じます。彼女がいつも目を開けると知っているからです。視線を合わせてしまうと、何かを思い出してしまいそうな気がして、怖くなります。

 ぐちゅぐちゅと水音がリビングで響きました。私はこの音がどうも苦手です。しかし彼女は考える余裕もないのでしょう。その舌は強く絡んできます。息をする前に次のキスが訪れて、頭の中の色々なことが白く薄くなっていきます。舌の古傷に彼女の唾液が沁み、じんじん痛む、気持ちいい。彼女の歯が軽く私の歯を刻んでいます。きっと彼女はこれだけじゃ物足りないでしょう。こうなったときの彼女は普段の反動からか、乱暴です。私は自覚なしに左手で右腕を押さえました。昨日やられたところです。

 しかし、驚くべきことに、彼女は顔を離しました。目をほんのり開けてみると、視界がぼやけて、彼女の姿が霞んでいます。空気が色のついた帳となったみたいです。ああ、後ろのカーテンは青褐色になっていました。完全に日が沈んだのでしょうか。

 彼女は私の目頭を軽く拭いてくれました。そうしたら、やっと彼女の顔が読み取れました。頬に淡い赤みを帯びています。この状態でも、優しく接してくれるとは思いませんでした。唇を私の耳にくっつけ、甘噛みをしました。くすぐったい。そのまま小声で話し掛けてきます。

「お風呂に行こうか」

 ガシャン、と手錠の外れる音がしました。彼女は何事もなかったように軽々と私を抱き上げました。格好をつけたがる彼女は、いつも私を運ぶときはお姫様抱っこです。素性を私に知り尽くされているのにも関わらず、変な話です。

 それでも、なぜだか、彼女がこうしてくれることが大好きなのです。なぜでしょう、忘れていた気持ちを思い出しそうになります。どんなときに捨てた気持ちなのかは、見当がつきません。

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