第10話海の夢

 私は、海に


 四方を見回せば、どこまでも続く水平線。無遠慮な強い日差しが照らす、夏の日の海。

 少し待っても変化はない。

 どうしようもなく、私は適当な方向へと歩き始めることにする。


 海は、荒れてもいないが凪いでもいなかった。波がまるでそういう生物であるように、音もなくうねり、捻れている。


 気にせず歩く。


 生命力を見せ付けるように波打つ海面は、私の足元だけが静止する。

 どれだけ高い波があっても、私が足を上げて下ろす度、上から押さえ付けるようにそこだけが平坦にならされる。まるで――波が私を拒否するように。

 お陰様で歩きやすいは歩きやすかったが、直ぐに私はこのなだらかな道程に飽き飽きした。


 人生をベストセラーにしたいのならば。

 求めるべきは波乱万丈eventful daysだ。平坦な道のりではけしてない。


 立ち止まると、足元に波紋が広がった。


 全てを平面にしようとする私の靴と、無秩序なままに荒れ狂おうとする生命のスープの名残が、互いを否定しようと互いを食い、互いに潰しあう。

 その争いに僅かな興味を引かれ、私は海面を見下ろした。


 私の下はひどく穏やかで、凪いだ海面はまるで鏡のように、見下ろす私を見上げてくる。


 明るく眩しい太陽に照らされる私とは対照的に、暗く、鋭い眼差しで。


 自分は普段、そんな顔をしているのか。私は物珍しさに、そっと、しゃがみこんだ。


 海面が近付く。幻の私が、近付く。


 反射しているだけの私――。何事か、囁くように。


 何? 何て言ったの?

 聞こえない。遠いからだ、私は更に近付いて、鏡のような水面がどんどん近付いて。


 気付いた。

 


 そう思った瞬間に、静寂が破られた。

 二本の腕が海面を突き破って飛び出して、私の肩を強く掴む。

 強すぎる、食い込んだ指先がひどく痛くて、私はピクリとも動けない。


 顔は、海面に触れる寸前のままだ。

 瞳に、海中で私を睨む腕の主が映る。その顔が大きく近くなり、海面が鼻目唇の順に盛り上がっていき、そして――。



 囁き声が、私を呪った。









「ヒッ…………!!」


 悲鳴をあげる寸前に、私の意識は現実へと浮上した。


 は、は、は、と犬のように息が乱れる。

 どどどと煩く、鼓動が叫ぶ。

 見慣れた天井を眺めながら、脱力。呼吸を整え、暴れる心臓をなだめていく。

 同時、幾つかの単語を心の中で呟く。天井、ダブルベッド、乱れた毛布、私の部屋――夢に侵された脳を、そうして確かな現実へと向き直らせる。


「……はあ、最悪な目覚めってこれね」


 声に出す頃には、私はすっかり元通り。

 ツキ・G・ハーパーの帰還というわけだ。めでたい、めでたい。


「今は……8時か」


 準備があるから、とレンが帰ったあと、大目に残されたドル札で多少のやけ酒を決め込んだ記憶が、おぼろげに甦る。

 どうも飲み過ぎたらしい。何とか帰ってきてジーンズは脱いだようだが、お陰様でこんな時間だ。

 普通ならば遅刻確定だが、今日は超国家組織の介入によって休みとなった。

 のんびりシャワーを浴びてから、バゲットでもかじる時間が充分にある。何しろ夢のお陰で、全身くまなく、嫌な感じに汗だくだ。

 不快な湿り気と共にまとわりつく肌着と下着に顔をしかめながら、私はベッドからゆっくりと起き上がる。


 枕元に放り出していたスマホを取り上げ、メールの履歴を見ながら歩く。干してあるバスタオルを掴んで、バスルームへ。


 スパムメールを幾つかと、ノアからの愚痴メールを削除。

 そうすると、通知は綺麗に消え失せた。

 これで気分はすっきりした。あとは、肉体の方をすっきりさせるだけだ。


 肌着と下着を脱ぎ捨てて、洗濯機に放り込む――その寸前で同居人の怒り顔を思い出して、私は手を止めた。

 下着をそのまま洗うなと、随分強い口調で言われたのだ。ネットに入れて洗わないと、形が崩れるんだそうだ。

 私の下着なのに、何故怒られるのだろう。


 だがまあ、愛しい相手の怒りを買いたくはない――私は洗濯機の隣に吊られているネットを取ると、下着を入れて改めて放り込んだ。


 これで誉めてもらえるのなら、悪くない。私はそっと微笑んだ。









「けど……意味深な夢ね」


 ノズルから飛び出す熱いシャワーに柔肌をさらしながら、私は呟いた。


 かび臭い田舎で育ったせいか、私は直感や第六感という、いわゆるオカルティックな感覚を大事にしている。

 古い感性であると自覚している。

 世は科学万能時代、あらゆる神秘が否定され、勘を科学的に解明するのが現代らしさだ。


 だが、それでも。

 それだけではないと、私の直感は囁いている。


 そもそもかつて、科学は地球の自転を証明しなかった。

 神が天地を創ったと信じられていた時代もあったし、今も未だ、科学者は神の存在を信仰している。


 確かに、科学の領域はずいぶんと拡がった――人間の直感を、三秒程度なら存在すると証明できるようになった。

 森を開いて山を削り、動物を追いやって住み処を広げた人間たちによって、やがては世界の全てを、証明と再現性が覆い尽くすことになるだろうけれど。


 今はまだ、その時ではない。


 科学の火では世界の闇を、余すところなく照らすことは、できないのだ。


「夢は……無意味じゃあない。自分の知らない、異なる領域からの忠告メッセージである、か……」


 生まれ故郷の教会で、顔も覚えていない神父様がそう言っていた。

 私も、そう思う。

 夢は、現実に阻まれて届かなかったメッセージだ。時にそれはアドバイスだし、時には無意味なノイズである。


 今回は――さてどっちだ。


「水と海、事件と関係はありそうだけど」

 バスタブに湯を貯めながら、私は呟く。「海じゃあ、飲めないわよね」


 しかし、最後の私の姿勢は、見ようによっては水を飲もうとしていたとも見える。あの邪魔がなければ、海面に顔を突っ込んでいたかもしれない。


「邪魔、邪魔か……あれは、何なのかしら」


 思考を言葉にすることで、整理しながら考えが進む。

 丁度、湯も張れた。

 軽くかき混ぜて水温を調整してから、私は湯に身体を沈めた。


 暖房や毛布とは違う、くまなく包まれる温かさが、血行と思考を良くさせていく。泡のように消えていく筈の夢の残骸を、脳の表層へと引きずり上げる。


 浮かんだイメージは。


「……


 そう、黒だ。


 海面に映る虚像だからと、夢の中の私はまるで気にしなかったようだが、改めて思い起こせばあの顔は、私とは似ても似つかない。

 顔立ちは幼いし、私より目が大きく鼻が低い。髪型こそショートヘアーで一緒だが、虚像は髪に、花の形のヘアクリップを着けていた。


 そして何より――


「日本人、かしら」

 黒髪で目がでかいといえば、大体そうだ。「言葉は……駄目だ、思い出せない」


 言っていた意味は覚えているが。

 


 まあ、夢だしね。

 都合の良いように話は進むだろう――この場合問題なのは、それがどちらの都合なのかということだが。


「内容だけ考えれば、警告とも取れる……けれど、あの雰囲気は……」


 目は口ほどに物を言う。


 私を見詰めるあの視線。

 そこに込められているのが単純に善意だとは、流石に思えなかった。


 思わず、肩を撫でる。


 夢で掴まれた部分は、ホラー映画に良くあるように、掌の形にうっ血したりはしていない。

 してはいないが――肌に染み付いたあの感触を、幻想だと一笑に伏すことは、私には出来なかった。

 あんな風に肩を掴まれて、あぁ私のことが好きなんだな、とは思えはしない。もしも夢でなければ、相手が誰であれ、全力で投げ飛ばしているだろう。


「敵意、悪意、害意。とにかく、完全な否定形だわ――拒絶したいだけだ、


 そう。

 あの存在がまとっていた気配の全ては、私個人に向けられていた。

 全身全霊で煮詰められたような、憎悪。濃厚な闇が月を呑み込むように、ツキを覆い尽くそうとしていた。


 個人的、か。

 レンが言うところの、世界人類全てに影響を及ぼすような事件の影には、あまりにも似つかわしくない。


「それに、あの子は、


 人魚という単語をあれほど意味深に囁かれた経験は、今のところ一度しかない。

 レン。レン・ウスイ。

 あの男だ。

 あの、自らを魔術師と呼ぶいんちき臭い仮面男。あいつの言葉が、唯一の人魚だ。


「……レン・ウスイか……」


 アイツの異常さに引きずられて、こんな夢を見たのだろうか。ただそれだけで、深い意味は無いのだろうか。


 考えても、答えはでない。

 何故なら所詮は夢物語。意味のあるなしは神のみぞ知ることで、テルポイの巫女ならぬ私には、神託も悪夢もいっしょくた。

 こういうときの対処法は、一つしかない――直感に従うことだ。


 私の直感は、私に、無視するべきではないと叫んでいる。


「なら無視は、出来ない……」


 口まで湯に沈み込み、私は目を閉じる。

 アイツは、男にしてはまあまあ良いヤツだけれども。

 何を考えているか、親切に教えてくれるタイプではない。


 夢は、警告しているのだ。アイツは仮面で、顔以上に何かを隠していると。

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