一杯目 子の恩返し①

 商人の町と呼ばれる酒井。 

 先の戦いでは戦地とは遠く、大戦の影響をあまり受けなかった町の一つである。

 江渡か酒井に揃わないものないものはない、商人を志すならば一度は酒井で学ぶべきだというほど、商いに関しては将軍が居る江渡に引けを取らない活気のある町であった。またこの地を治める初代大名も武士ではなく生れは農民、商人として成り上がり、大名の地位まで上り詰めたという異色の経歴の持ち主だったというのも酒井の町の特徴の一つである。


 子の刻―酒井の町では初代大名の指示により、時は金なりの精神に則るために町内に一つは時計が設置されている。そのため酒井の町民の間ではもはや十二辰刻は使われてはいない。町内時計の両針が天辺に行き当たり、誰もが寝静まる頃、酒井の町の外れにある寂れた神社に小さな人影があった。


 ザッ、ザッ、砂を蹴る音が響く。


 人影は比良松と云い、齢にして十四、唐草屋の丁稚である。


 比良松は神社までの段を昇るとニ回礼をして二つ手を叩き、もう一度礼をして降っていった。下まで降りると振り返り、再び昇りだす。すでに息も絶え絶えであった。


 春先といってもまだ残寒があり、夜になれば冷え込む。


 身に纏っている白い肌着一枚。


 履いてきた草鞋をわざわざ脱いで、裸足で駆ける。


 苦しいことを行うからこそ願いは届くだろう、比良松は肌に染みる寒さと突き刺すような足の痛みに耐えながらそう考えていた。その晩、やたらと風が強いのさえも、願いを叶えるためにはありがたいことだった。


 神社の傍にある楓の枝と枝が擦れ、奇妙な音をだす。秋ならば紅葉が色彩豊かに木を飾っていただろうが、春の楓は秋の桜の木と同じように見所が少なく、つまらないものだ。だからといって、しみじみ情緒に浸る余裕など比良松にはなかった。


 月の雲隠れ。物置に置いてあった懐中電灯を片手に、足を踏み外さない様に上り下りを繰り返していたが、電池が無くなっているのだろう、足元を照らす灯りは徐々に輪郭を朧げにしていった。


 「いつっ!」


 前のめりに足をつけてしまい、爪の間に勢いよく砂利が入り、鋭い痛みを伴う。


 割れたか?と、暗くなってきた灯りで照らすと、案の定爪から血が出ていた。ついでに足の裏を確認すると、マメが数ヶ所潰れており、皮の内側に砂利が入り込んでいる。


 このくらいは想定の範囲。苦しいことが増えればきっと、と比良松は歯を食いしばり、また昇り始める。


 運が悪く電池が切れ懐中電灯の灯りも消えたが、月を覆っていた雲がなくなっていた。西にある月の位置から一時くらいだと分かる。


 明日も誰よりも早く起きて、店内の掃除、棚の雑巾がけ、外の箒がけ、品出し、丁稚としての仕事をこなさなくてはならない。比良松は、あと少しだけと鳥居をくぐり、拝殿で二回お辞儀をして、手を叩いた。


 「ぱちりーぱちりーっと……ほんに、うるさいの」


 突然の女の声に飛び上がるほど驚いた比良松は、慌てて周りを見回し、自分しか誰もいないことを確認する。次にウーンっ伸びをした声のようなものが聞えたかと思うと、目の前の幣殿の戸がゆっくりと開いた。


 声の主を月明かりが弱弱しく照らす。


 はだけた高級そうな着物を肩で引っ掛け、けだるそうな顔で煙管を吸っていた。


 「まったく。久しぶりに寝床が見つかったと思いきや」


 こっちに来いと、女は比良松を手で呼び寄せると、彼の顔に煙を吹きかけた。燻した煙草の匂いがつんと鼻につき、煙が目と喉奥をちくりと刺す。


 ケホケホと、涙目になり咽込む比良松を女は鼻で笑った。


 「い、いきなり、なに、をするんで……」


 比良松の言葉は尻すぼみとなる。


 近くで女の顔を目にした比良松は、彼女の整った顔立ちに言うべきことを忘れ、冷え込んだ体に少しだけ火照りを感じ取った。目を下に逸らすと、着物から露出している豊満な胸元が視界に入り、数秒固まってしまう。そして凝視してしまった自分を恥じ、慌てて顔を真横に背ける。


 勢いあまって首の骨が鈍く鳴った。


 「申し訳ありません。ここにどなたかが泊まっているとは存じ上げずに」


 比良松は捻った首元に手を当てながら、軽く頭を下げる。女は吹かしていた煙管を比良松に見せつけるように前に突き出した。


 「知ってやっとるのなら、頭をこいつで叩いとるわ」


 なんとも物騒なことを、と比良松は思いながらも口には出さずに、女を見た。


 足抜けか?


 近くの遊郭から逃げ出した遊女だろうか、だがそれにしては人に見つかったにも関わらず、狼狽したり、焦ったりすることはなく、堂々というかとにかく目の前の女は偉そうな態度である。と言っても旅をする格好にも見えない。酒井のどこかの商人の奥方だろうか?こんな綺麗な方が居ただろうか……ならば、やはり遊女の足抜けというのが一番可能性が高い。容姿を見る限りただの遊女ではなく花魁太夫だろうか。花魁太夫の足抜けなんて、考えただけでも恐ろしい。今頃、どうなっているだろう。


 比良坂は思考を巡らせ、たどり着いた答えに血相を変えた。もし自分がここで会ったことで関係者とみられたらという保身よりも先に、町中が大騒動になることと、何より目の前にいる花魁大夫と思しき女の身が危ういことにだ。遊郭の大輪ともいえる花魁大夫の足抜けなど、酒井の町では前代未聞である。


 「悪いことは言いません。できれば早く帰ったほうが」


 「帰るとはなんじゃ?」


 「そうです、ほら、偶然アタシと会って、怪我してるアタシに肩を貸して帰ったから遅くなったとか。でも、それじゃ外門を出た理由にならない。なら、酔っ払って外門を出てしまった、としても罰があるだろうし、たしかこの前足抜けした人が捕って」


 比良松は喋っては頭を抱え、また喋ってはと繰り返す。


 「こりゃ、ボン、何を一人でぶつくさと」 


 「あ、お連れの人はどなたか」


 「見てわからんか、吾は一人じゃて」


 もしかして恋い焦がれ愛憎の果て、男との逃亡劇かもしれない。比良松は以前に唐草屋の主人に連れてってもらった浄瑠璃の演目を思い出した。女は一人だと言い張っているが、そりゃ居たとしても言えないだろう。捕まってしまっては、男はおそらく始末されてしまうのだから。もしかして、捕まるくらいなら心中するという決心の末の足抜けかもしれない。


 巡り巡ってでた仮説に比良松の退路を塞いだ。そうなったら必然的に心は決まってしまう。


 死ぬのは駄目だ。自殺など以ての外。誰かが生かしてくれたから、今まで生きてきたのだから。手を貸さなければ、比良松は心の中で唐草屋の主人に詫びた。


 そして、下手すれば自分も始末されてしまうと、これから降りかかるであろう火の粉がどれ程のものだろうかと震えあがる。


 「西の貧乏長屋に喜三郎という人が住んでます。お金を積めば何でもやる人です。お金には汚いですが人情味のある人で。もし出歩くことができないなら、アタシが呼んできます。姉さんは幾ら持ち出してきましたか」


 「要領を得ぬな」


 頭を抱えて唸っては、捲し立てるように喋る比良松。女は比良松に出会いそうそう煙を吹きかけたことを思い出すと、ご禁制の物は入ってないはずじゃがな、と火皿を覗き首を傾げた。


 「大丈夫です、アタシも力になります。たぶん、五両くらいあれば、なんとか頼んできます」


 「だから、何を頼むんじゃ」


 やはり煙か、変なものを売りつけおって、と女は戸に向かって雁首をとんと叩き、まだ赤々と燃える煙草を落とした。昨今、道端に生えている草を干して刻み煙草と称して売る輩がいると耳にしたことがある。まさか自分が引っかかってしまうとは情けない。女は煙管を手元で遊びながら覚えておけよ、と小さく呟いた。


 「足抜けですよ。連れの方にもすぐにお伝えください。追手がかかる前にすぐにでも」


 ようやく女は自分が足抜けをした遊女と間違われていることに気が付いた。たしかに遠目から自分の服装を見ればで遊女と思われるかもしれないが、近くに寄れば勘違いであったことに気付くだろう。


 この女が遊郭の外門付近を歩いたとしても、門番から声を掛けられることはないだろう。女が腰に吊るす手形が理由であり、座っているからか少年の視線には入っていなかった。


 「なるほど、吾をどこぞの遊女かと思うたんじゃな」


 出会ったのは今さっき。縁もゆかりもない女である。しかも足抜け遊女を心配するとは奇特な少年だ。知恵が浅いゆえ危険を省みない蛮勇ではなく、自分に危害が及ぶことが分かり恐怖しながらの善の性分。今にも泣きそうな顔や、震えている足がそれを教えてくれる。


 女は紛い物を掴まされた怒りを忘れ、差し伸べられた小さな手の持ち主に興味を抱き始めた。

 

 誤解が解け落ち着きを取り戻した比良松は、女に二度目の謝罪をする。


 「いや、かまわんて。それほど綺麗だと思ってくれたわけじゃろ、誉め言葉として受け取っておくぞ」


 女は肩口まで出している着物をわざとらしくさらに下ろした。目の行き所に困り下を向く比良松を、クククッ枯れた声で笑う。


 比良松はというと勘違いをした恥ずかしさや、申し訳なさから今にもこの場から去りたかった。また女に遭遇してから時間が経っており、風が吹くたびに汗を吸った肌着が冷たくなり、体温を奪っていく。。足の痛みもさらに増してきた。


 「で、なんじゃ」


 女は比良松に尋ねた。


 「なんじゃ、とは」


 「鰻登りな技術発展、電話やらテレビやらがあるこの時代にお百度参りとは珍しいのでな」


 女は着物の裾を雑に手元に引き寄せると、体勢を変え片膝を立てて座った。会ったばかりの不機嫌そうな様子はなく、だがまだどこか気怠そうな雰囲気を醸し出している。持っていた煙管はどこかに仕舞ったのか、代わりに扇子を手にして、月明かりを遮るよう空にかざしていた。その一連の動作はどこか優雅で、色気がある。


 「そんなこと言う必要はない、なんて言うてくれるなよ。吾はいい酒を飲み気分良く寝ていた。だがそこにお百度参りをするボンが吾の眠りを妨げた。そろそろボンを追い払って眠るのも良いが、おそらくその後寝ようとする吾は、ボンが何をそんなに神頼みしていたのか気になり、それが眠りを再び妨げるかもしれんて。それに加えて足抜け遊女と勘違いしたのを申し訳なく思っとるじゃろ。ならば詫びに聞かせてやろうとは思わなんだか?」


 比良松はどう断ろうか考えていたが、女の言い分にも一理あると、語りだした。

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TANUKIBUSHI~物の怪共存御触書 いわしたろはな @katosayo

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