番外編

昼下がり、シャント

「協定?」


 夏の終わり、昼下がり、路地裏の小さな喫茶店「シャント」のカウンター席で、マスターの淹れた酸味の強いコーヒーを楽しみながらふわふわの厚焼き玉子のサンドウィッチに舌鼓を打ち、わたしはそう、おうむ返しに言った。協定?

 普段ならこのカウンターの向こう側でシェイカーを振っているはずの彼は今日、わたしのとなりの席で同じ品物を飲み食いしている。たまごサンドのかけらを口に放り込み、お手拭きで手を拭いながら、頷いた。


「そう。七緒さんの結論が出るまでの共有期間についてのアライアンス」

「アライアンスってビジネス的には、利益を出すために手を組む、みたいな意味合いあるけどその辺大丈夫?」

「問題ないです。双方に利があるので」


 夜は客入りがほぼ皆無だが、今の時間帯は昼時少し過ぎということもあってなのか、テーブル席のひとつに年配のご夫婦が座りコーヒーと会話を楽しんでいて、カウンター席には外回りの途中のブレイクタイムか、サラリーマン風のスーツの男がひとりで腰かけナポリタンを食べている。

 コーヒーに口をつけたいずみくんが言うには、彼と玲生くんは、わたしに関する協定を結んだらしい。人を物扱いして、勝手に共有期間などというものまで設けたらしい。なんてことだ。


「それって、どういうやつ?」

「たとえば今日俺と七緒さんがデートしてる。俺にプラス一です。だから、玲生も同じように七緒さんとふたりきりの時間をつくる。これで玲生にもプラス一、とんとんですね。そういうふうに、ふたりのポイントに差がつかないように、俺とふたりの時間があったら、玲生との時間もつくってもらう。そういう協定です」

「……ちなみに聞くけどそこにわたしの意思は」


 勝手に話が進んでいる、と思い不服に感じて口を挟むと、いずみくんは驚いたふうに眉を上げた。


「たとえば七緒さんが、どっちかひとりに肩入れするようになったら、それが答えだからそこで協定は終わりですよ」


 納得できるような、できないような……。

 まだ熱いコーヒーを舐めて、すぐに口を離す。それから、まだなんとなくしこりの残る気持ちで疑問を放った。


「……それ、破られない? どっちかが嘘をついたり……」

「七緒さんさえ正直に言ってくれれば、不正はすぐばれます」

「なるほど……」

「言わないで共犯になったら、それも七緒さんの答えだと思います」


 すごく、たしかに、理にかなっている協定かもしれない。


「男の子って、合理的なことを考えるね」

「これについては、男女関係なく、俺と玲生の性格じゃないですか?」

「そっか」


 わたしがたとえば女友達と、ひとりの男を奪い合う展開になったとしたら、絶対そんな協定結ばない。抜け駆けするし画策するし、蹴落とす。それは、そうか、性格なのか。

 ふわふわのたまごサンドを口に運び、大きくひと口いただく。ところでさっきから自分の伯父が聞き耳を立てているこの状況、いずみくんは気にならないんだろうか。

 わたしがちらりとカウンターの向こうにいる伯父さんのほうに視線を流すと、いずみくんもわたしが何を気にしているのか気づいたようで口元を軽く苦笑いのかたちに歪めた。


「聞いてるけど、口は出してこないから」

「ふうん……」

「おいしい?」

「うん」


 ところでわたしは、ずっと気になっていることがあった。玲生くんのいるところではとても聞けないので、今日がチャンスである。


「あのさ、いずみくん、いっこ聞いていい?」

「どうぞ」

「いずみくんのお部屋に泊まった日さあ」


 彼の部屋はシャントの入っている雑居ビルの上階にある。だから、酔いが回って足腰が立たなくなったわたしを連れて帰るのに、ある意味最適な場所だったわけである。

 そして、聞いたところ、そのさらに上の三階に伯父さんが住んでいるそうだ。


「わたし、何をされたの?」


 カウンターに左肘で頬杖をつき、右側に座るわたしのほうに身体を傾けていた彼が、にやりと笑う。


「聞きたいの?」

「そりゃあ、まあ……貞操と今後の身の振り方にかかわります……」

「今後?」


 きょとんとした彼に、わたしは言う。


「そう。たとえば、今後のいずみくんに対する態度とかね?」

「それ、具体的には?」

「判断基準を言ってしまうと、いずみくんはほんとうのことを教えてくれないから」


 眉を寄せたいずみくんは、まあそうか、と呟いて、うなった。視線が天井のほうをさまよう。

 そして、伯父さんのほうを気にするそぶりを見せて、わたしの耳元に口を寄せた。


「じゃあ、嘘偽りなく教えてあげますので、ご静聴願います」

「あ、はい」


 耳元で色っぽくくすりと笑んだ後で、彼の口から放たれた言葉たち。聞き終える頃には、両手で真っ赤になった顔を覆っているわたしがいた。


「なに、その態度。七緒さんが知りたいって言ったんじゃん」

「…………もうやだ死にたい」


 とてもじゃないが昼の喫茶店に解き放たれるべきじゃなかった言葉たちに、泣きそうなくらいに顔が熱くなるし、それらの行為を酔っ払っていたからと言って許してしまった自分も情けない。そしてなんであんな猥褻な言葉を紡いだあとで、こんな涼しげな声でくすくすと笑えるのだ。

 彼の耳元での甘い囁きは続く。


「七緒さん、かわいかったなあ……あんなとこが弱いんだ……、めちゃくちゃ甘えてきてさあ、あーマジ、やっぱやっちゃえばよかったかな」


 あんなとこってどこだ!


「俺を選べば、天国連れてってやれる自信、あるけど」

「もういい! まだ死ぬ予定ないし!」

「今さっき死にたいって言ったじゃん」

「そういう意味じゃないから!」


 揚げ足を取るのはやめろ。指の隙間からちらりといずみくんを見れば、涼しい顔でほほえんでいるが、その男前な目だけはぎらりと獣みたいに光っていた。性欲の権化みたいなギラつき加減に怖気づいてしまう。


「あの、たしかに、いずみくんと玲生くんを振り回すとは言ったけれども……その、そういう感じのことはナシでお願いできませんか……」


 完全にびびって下手に出てお願いすると、いずみくんはその醸し出していたエロい雰囲気をふわっとしまった。それ、出し入れ可能なんですね……。


「いい大人のくせに日和ってんじゃねーよ」


 そう笑われて、普段散々五歳差は誤差とか年齢なんか関係ないとか言っておきながらこんなときだけ大人扱いしやがって、と唇を尖らせる。

 黒いTシャツから伸びる腕にはシンプルなシルバーのブレスレットと時計がついている。色黒というわけではないが決してインドア的な色の白さもない肌を見る。がっちりとしていて、男の腕、という感じだ。細身のデニムにおさまっている足だって、決して病的に細いわけではない。

 そして、頬杖をついていない右手に目が行く。自然と、その目線は指のほうに。この指がわたしの…………。


「七緒さん」

「……」

「そんな目で見られたら、俺期待するんだけど」

「……えっ、何を」


 自分の顔は自分では見えない。なのでおのれがどんな顔をしていたのか自覚がない。


「ここを出たあとの展開、っていうか行き先?」

「へ?」

「俺の部屋かな……とかね」


 せっかく赤みの引いてきた頬が一気に熱を持ち、変な汗をかく。いや、なんか、ときめきというよりかはただただ恥の上塗りという感じで心臓によくない。ここで何か年上の余裕を見せなければ。何か気の利いたお返しをしなくては。


「……いずみくんさあ、そうやって部屋に女の子連れ込むの常套手段なんだ? 慣れてるっぽいよね?」


 変な汗を持て余したまま、結局何も考えずにそう言うと、彼はあきれたように目を細めた。


「俺あんまり女の子部屋に入れないんだけどね」

「またそうやって……」

「ていうか、こんな流行んない場所でバーテンダーやってたって、女の子と出会いなんかないからね」

「……そうなの?」


 それはちょっと意外だ。目をしばたく。


「いくら男前でもね、出会わなくちゃ静かなもんですよ」

「自分で言っちゃうんだ」


 笑うと、つられたようにいずみくんも笑った。

 いつの間にか、カウンター席にいたサラリーマンはいなくなっていて、老夫婦もひとしきり話を終えたのか言葉少なになっている。のどかだ。

 少しぬるくなった飲み頃のコーヒーを流し込み、カップのふちについた口紅を何とはなしに眺めていると、いずみくんがわたしの左手を握った。玲生くんにはたびたび握られるけど、そういえばいずみくんに介抱以外でこうして触れられたのは初めてかもしれない、と思う。


「なに?」

「このあと、どこ行く?」

「うーん……とりあえず、この、ホットケーキ頼んでいい?」

「……よく食うなあ」


 メニューに載っている分厚いホットケーキがずっと気になっていたのである。いずみくんが伯父さんを呼ぶ。


「ホットケーキひとつと、ブレンドのおかわりちょうだい」

「いずみ」

「ん?」


 いかにも喫茶店のマスターという感じのこぎれいなちょびひげを生やした伯父さんは、たしなめるような調子でいずみくんの名前を呼んだ。


「嘘はよくない」


 それだけ言って、にやりと笑い、ホットケーキですね、とわたしのほうにさわやかな笑顔を向けて調理に入った。……嘘?


「何が嘘なの?」

「さあ」


 まあどうせ、女の子との出会いのくだりのことなんだろうけど。家に女の子連れ込むと、やっぱり上階の伯父さんには分かっちゃうのかな。

 ぬるいコーヒーをちびちび飲みながら、伯父さんを観察する。いずみくんとよく似た、ナイスミドルって感じの男前だ。特に、横顔がそっくり。


「ご両親どちらのご兄弟?」

「母親の兄です」

「じゃあ、いずみくんの顔はお母さま譲りなのね」

「そんな似てますか?」


 意外と本人には分からないものなんだな。

 テーブル席のほうにある窓の外を見ると、さわやかな晴れ模様だ。今日は気温もそんなに高くないし、ホットケーキを食べた後は、このあたりを散歩してもいいかもしれない。そういえばわたしは、このあたりはシャント以外に全然知らない。


「ねえ」


 きっといずみくんはこの辺に詳しい。新しいお店を教えてもらうのもいいし、知らない路地に連れて行ってもらうのも、きっと楽しい。

 うららかな秋の午後、夜とは違う顔のこの店は、だけどやっぱりあたたかい。

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