第17話

*☆*☆*

「しょうのない坊や」

 駆け出すふたりの後ろ姿を、ヤムのひょろりとした影が追う。

 それを見送るキャメルのほほに、おもわず苦笑が浮かんだ。

 見かけに似合わぬヤムの技量は、牙一族の家系らしい。

 混乱する通りの向こう側に、抜け道とは思えない枝小路がある。

 そこへヴァンキーの背中が消えるのを確かめ、キャメルもその場を後にした。

 それと同時に別の騎馬隊が、通りへ乗りつけて来る。

「道を開けろっ!」

 まるで家畜でも追い払うような勢いで、王国軍の一団が、あふれる人々を押しやった。

 あたりが静まるのを待って、ようやくラドゥラ・アインは手を下ろした。

「大事ございませんか? 長老」

 栗毛の軍馬を寄せ、初老の士官が声をかける。

 錆色の強い髪の下で、碧眼が鋭い。

 皺にうもれた左目尻には、砂百足(すなむかで)の刺青が薄く這っていた。

「大事ない。気づいたか、ゼガリア」

「はい。差し出がましいとは存じましたが、わたくしの一存で配下の者を追わせました。一切の手出しはせず、万が一の場合は、一命にかえても お守りするよう命じました」

「よし。事と次第によっては、女神などいらぬ。ルーヴィルさえ、無事であるなら 後はかまうな。髪一筋も傷つけぬよう、命じておけ」

「承知いたしました」

 敬礼して伏せたゼガリアの目が、憎悪を含んで曇るわけを、ラドゥラ・アインは知っている。

 それでもなお、この男が絶対服従する事も。

 てきぱきと指令を下す背に、皮肉と残虐な一瞥を投げ、ラドウゥラ・アインは 軽く馬の腹を蹴った。

 


 誰かが、後をつけている。

 ルーヴィルが 追っての気づいたのは、正殿の北に位置するアストライア神殿の前だった。

 ここは、創世王デュマが、救済の目的で建立した神殿だ。

 終日開かれている大門は、病を抱えた者や飢餓に苦しむ者、悪縁を断ちたい者などを、わけへだてなく迎え入れていた。

 この神殿に迎えられた者は、一切の束縛から解放される。

 聖王といえども、巫女王の許可なしに、アストライア神殿からは何人も連れ出すことは許されない。

「ルーヴィル   お願い、苦しい」

 枝小路ばかりを選び、走りづめにここまで来たが、もう限界だ。

 鍛えぬいたルーヴィルには何でもない距離が、レイアをひどく弱らせていた。

す ぐそばまで、追う者の気配が迫っている。

『くそっ』

 レイアを抱えるようにして、ルーヴィルは混雑する参道から、アストライア神殿へまぎれ込んだ。

 長い坂道を登りきり、大門をくぐった途端、広大な庭園の正面に、巨大な神像が立っていた。

 見上げるアストライア神は、幼子の表情で微笑を投げかけ、すべての者を迎えるように両腕を広げていた。

 拝殿の横に、女官の出入りしている戸口がある。

 一瞬の隙をつき 戸口へ滑り込んだルーヴィルは、最奥の扉を押した。

 ひとけのない部屋は、ひっそりと静まり返っている。

 外の気配をうかがうルーヴィルの腕の中で、レイアはぐったりしていた。

 さっきまで追っていた気配が、嘘のように消えている。

 諦めたはずはない。

 確かに、殺気をはらんだ気配が後をつけていた。だが、あの気配は暗殺者の放つものではなかった。

『だとしたら、誰が』

 シークラーの者に、正体を気取られたのか。

「誰か、いるのですか?」

 暖かみのある、優しい声がした。

 レイアをかばって身構えるルーヴィルから、燃え立つような殺気が立ち昇る。

 純白の僧服に身を包んだ巫女が、軽やかな足取りで入ってくるなりルーヴィルの身体が跳ねた。

 壁に押しつけられた巫女の目が 驚きに見開かれる。

 暗器を構えたルーヴィルの腕に、レイアがすがりついた。

「やめてっ。お願い!」

 レイアは、ふるえていた。

「お願い、傷つけないでっ」

 スッと、ルーヴィルから殺気がひいた。

 それでも巫女を離さず、握り締めた暗器は振り上げたままだ。

「やめてっ、ルーヴィルが人を傷つけるなんて。そんなひどいことしないで。あなたは、優しい人よ。こんなこと、しちゃいけない」

 くちごもるルーヴィルに なおもしがみついて、レイアはすすり泣いた。

「おれは  レイア、おれ 」

『レイアを守る為に、こいつを殺るんだ。こいつからおれたちのことが洩れたら、足がついてしまう』 

 そう言いかけて、ルーヴィルは凍りついた。

 自分でも気づかないうちに、暗殺者として考え、身体が自然に動いている。

「あ  レイア」

 自分のために ルーヴィルが人を殺すと知ったら、レイアはどんなに傷つくだろう。

 そしてもし、ルーヴィルが 暗殺者だと知ったら。

『だめだっ。そんなこと 言えない!』

 ルーヴィルを信じ、ついて来たレイア。だが、正体を知ってなお、信じてくれるのか。

 今のように、慕ってくれるのか。

 マルカの行方を聞き出すために、ルーヴィルは修羅になった。

 怒りのままに、己が目的の為に。

 だが、それは言い訳にすぎない。

 誰かのためなどと、甘い理由を吐くなんて。

 誰もが暗殺者を怖れ、忌む者として嫌悪するように、真実を知ればレイアも変わってしまう。

『嫌だっ。知られたくないっ!』

 暗殺者だと知った時、レイアはどれほどの恐怖にかられ、自分を見るのだろう。

 すがりついているこの腕が、どんな激しさでルーヴィルを拒むのだろう。

 人々が骨の髄まで恐れ、心のすべてで憎むように。

 ルーヴィルの正体を知ったとき、レイアも変わるのだろうか。

 生きていることすら汚らわしいと、罪だと責めたてる、無言の嘲りをぶつけるのだろうか。

 魂を炙る苦痛に身もだえして、ルーヴィルのくいしばった唇から、すすりあげる悲鳴がもれた。

『嫌だっ!』

 静かに扉が開き、黒絹の衣服をまとった巫女が入ってきた。

 上着に刺した紋章が、金色に浮き出している。

 ほんの少し息を引いて、巫女は立ち止まった。

 見返すルーヴィルを見つめ、驚く唇が戦慄いた。

「ここで、何をしているのです?」

 白い僧服の巫女を羽交い締め、首に暗器を押しつけて、ルーヴィルはあとじさった。

「わたくしを怖れてはなりません。ここはアストライア神殿です。乱暴をしなくとも、アストライア神殿が。いいえ、わたくしが、あなたを助けてさしあげます」

 恐れるそぶりもなく、黒衣の巫女は手をさしのべた。

「テミスを離して、短剣をこちらへ渡して下さい」

 穏やかな声だった。

 心に染み入り、すべてを在るがままに受け入れる、深い声。

「来るなっ。おれに近づくなっ」

 ルーヴィルの激しさに言葉を飲み込んだ巫女が、ゆったりと微笑みを浮かべた。

 澄んだ目に浮かぶ、暖かな色。

 虚勢をはった笑みではなく、魂の底からあふれくる優しい笑みだ。

「わたくしは、そうして、その方を守ろうとしているあなたの誠を、信じて言うのです。あなたが、わたくしを信じようと信じまいと、それは、あなたが決めること。わたくしは、わたくしの信念のままに、あなたがたを助けたい。ただ そう、思っているのですよ」

 穴が開くほど黒衣の巫女を見つめ、ルーヴィルは息を絞り出した。

 レイアの華奢な両腕が、うしろから胸にしがみついている。

 初めて出会った地下街で、ルーヴィルの腕に飛び込んできた、あの時のように。

『おれを信じて』と、あの時の自分は言わなかっただろうか。

 助けたいと、全身全霊を込めて、レイアに言わなかっただろうか。

 この巫女は、理由も聞かずに助けると言った。

 自分の信念のままに、危険な、素性も知れない者たちを助けると。

 まるで、レイアを守ろうとした、ルーヴィルそのままに。

『レイアは、なぜ、おれを信じたんだろう』

 だまされ、裏切られるかもしれない。そうは思わなかったのか。

『おれは、この女を 信じたいのか?  なぜだ、こんな気持ち』

 強張る息をつき、喉が鳴った。

 荒い呼吸が止まらない。

 用心深く、羽交い締めていた巫女を押しやり、ルーヴィルは身構えながら暗器を差し出した。

 これを差し出したら、手から離れたら。

 巫女の叫びで、衛兵が飛び込んでくるかもしれない。

 それでも、レイアの目の前で、戦うなんて、できない。

(できないけど、  でも、レイアだけは)

 いつでも反撃できる体勢で、黒衣の巫女の手に武器を乗せる。

 ゆっくり開いたルーヴィルの手が、硬直していた。

 激しく争う、不信と希望。

 どんなことをしても、レイアだけは守りたい。

 たとえ自分は騙されても、殺されてもいい。

 それだけの罰がくだっても、仕方のない罪を犯してきた。

 だが、、、、、

(信じていいのかっ。  レイア!)

 震える指が、ゆっくりと暗器から離れる。

 緊張したまま、ルーヴィルは巫女との距離をあけた。

「レ  レイアを。 レイアだけは、助けて」

 華奢な身体を抱きしめ、初めて無防備な自分をさらけ出して、ルーヴィルは巫女の前にうなだれた。

「助けますとも。あなたが、誰であろうと。わたくしが」

 慈しむ目に、淡い期待が混じる。

『あの疑問が真実なら、もしやこの若者は。神よ、ヒリア殿にうりふたつの、この者は』

 緊張の糸が切れたように、白衣の巫女が座り込む。

「大丈夫ですよ。テミス」

 微笑を受け、テミスはようやく表情を和らげた。

「はい。巫女王様」


*☆*☆*

 古い書簡の封蝋に指を当て、アフロは吐息した。

 ひび割れた蝋の紋章は、アフロ直属の配下の証。

 十数年前に消息を絶った、将校のものだ。

『ヴァルノラ・キリアーノ・シレーユ。。。。。 ヴァンキー  今  どこに  』

 ふたたび、吐息がもれた。

『確かめねば 』

 あの日、産土(うぶすな)の間から 密かに逃亡させた御子。

 ヴァンキーが身を呈して守り、その腕に抱いた御子は、はたして無事なのか。

 この書簡を最後に、シレーユ家の嫡男は 消息を絶った。

 アフロの胸に、殺気を剥き出しにした ルーヴィルの顔が浮かぶ。

『わたくしが駆けつけた時、エレーナは、ヴァンキーに御子を託していた。牙の者を頼って、御子の安全を図ると言って。 あの時、薄く目を開いた御子は、金の瞳をされていた。あの若者は、青灰色。そう、ヒリア殿の目と同じ色。それに、御子がおひとりにしては、エレーナの出血が多すぎた。もし、ふたごなら、なぜ エレーナは黙っていたのでしょう 』

 かたわらの卓上にある暗器は、暗殺者の使う武器だ。

 それならば、大神官となるべき御子を略奪した賊は、やはりラドゥラ・アイン配下の暗殺者ということか。

『やはりあの男。アルラントを足がかりに、世界制覇。いえ、地の者の王たる地位を目論むのか』

 廊下に響く甲冑の音が、扉の前で止まった。

「参じました、巫女王様。ボウ・エダイにございます」

 ボウ・エダイは、アストライア神殿直属の 警護軍を指揮している将校だ。

 元は、シレーユ家に仕える士官の娘だった。

「お入りなさい」

 女の身で騎士を志す娘を、アフロはいつも暖かく迎え入れる。

 ヴァンキーが慈しみ、妹のように育んだ娘。

 嫡男失踪のあと、養子を迎えたシレーユ家から離れ、神殿警護軍に志願した、ボウ・エダイ。

 卓越した剣技と統率力を認められ、アフロ直属の部下として働いている。

「頼みたいことが、あるのです。テミスから、ルーヴィルという若者のことは、聞いていますね」

「はい、先ほど。 本人にも 面会いたしました」

 古い書簡を渡し、アフロはじっとボウの様子を観察した。

 よどみなく目を通すボウの視線が、一瞬動揺をあらわにする。

「御子の誕生にかかわった女官が、サイスの郊外にいます。生まれた御子が、本当におひとりであったのか、確かめてほしいのです。それも、早急に」

 いくぶん青ざめ、ボウは書簡を返上した。

「かしこまりました。 巫女王様。分を越すご無礼を承知で、お尋ね致しとう存じます。あの方は、御子様ともども、ご無事なのですね? そして、あのお小さいご兄弟も、いずこかで 」

アフロは、もどかしそうに見つめるボウから視線を外した。

「今日まで黙っていた事。そなたには、申し訳なく思います。けれど、悪しき企みをする者たちに気づかれたなら、すべてが闇に葬られていた。あなたの義兄も御子も、無事なはずです。あの幼い兄弟も、兄君はご無事でしたが  」

 敬礼し、ふたたび上げたボウの目に、明るい活力が宿っていた。

「ありがとうございます。では、すぐに出立いたします。御子様のご誕生あそばされた時のご様子、子細に」

 ボウと入れ違いに、私的な書簡をたずさえたテミスが、廊下からアフロに伺いをたてた。

 文面に目を通し、アフロは形の良い眉をひそめる。

 かたわらで控えているテミスは、厳しい顔つきをしていた。

「イリスの謁見の間で、先ほどからお待ちです」

 巫女王の居室を含むアストライア神殿の西棟は、大小様々な謁見の間をかかえている。

 原則として、一般の者は立ち入りを禁じられているが、有事にさいし巫女王を守護できるよう、すべての謁見室には警護兵の詰所があった。

 今イリスの綴織りが美しい謁見の間で、巫女王を待つ者がいる。

 摂政の、カイド・エルドゥラだ。

 金髪と濃藍色の目が、謀殺された前摂政ヒリアにそっくりだった。

 もっとも、あまりに違う人格を、厭う者は多いが。

「お待たせしましたね。カイド殿」

 黒絹の僧服に羊毛の上着を重ね、アフロは寒々した謁見の間に現れた。

 暖炉の火は充分にくべられていたが、カイドの急な来訪に 間に合わなかったらしい。

「夜分に、申し訳ございませんでした。巫女王様をわずらわせ、恐縮でございますが、時間がございません。不躾な申し出、ご容赦いただけますよう、お頼み致します」

 思わせぶりに、カイドは言葉を切った。

 ヒリアにそっくりで、正反対な印象を持つ顔だとアフロは思う。

 アフロの妹、前巫女王エレーナの夫として、神の啓示を受けたヒリア。

 摂政として有能なだけでなく、男としての優しさと強さをも持ちあわせた殿方だった。

 あの日さえ来なければ、エレーナとヒリアが、心を通わせ合う時も訪れたにちがいない。

 満面の笑みを浮かべるカイドの顔を見据え、アフロは表情をひきしめた。

「どのような、ご用件でしょう」

 そっけない言いように、カイドの笑みが皮肉ったものになる。

「こちらにいらっしゃる女神殿を、お迎えに参じました。巫女王様の許可が、必要ではないかと存じまして」

(女神  )

 反乱のあの日から、カイドがアストライア神殿を監視していると報告は受けている。

 ルーヴィルとレイアが神殿へ逃げ込んだのを、こんなに早く察知するとは。

 ふたりを追っていたのはこの男かと、アフロは了解した。

 この男は、まだルーヴィルを疑っていないようだ。

 ならば、なんとしても守って見せようと、挑戦的な笑みになる。

 カイドが若き聖王の後見人とはいえ、聖王の実の叔母であり、力において対等の立場にある巫女王に、強要は許されない。

「女神と、申されるか。ならば、ウォディン神殿へおいでなさい。アストライアは男神。こちらにいらっしゃるなど、筋違いというものです」

 袖口の埃をはらい、カイドは上目遣いにアフロを仰いだ。

 二、三歩しりぞいて立ち上がった顔に、もう笑みはない。

「配下の者が、こちらの神殿へ女神が入られたと、報告して参りました。まことであれば、願っても無い国の慶事。王城に迎え、とこしえの繁栄を祈願致したく。聖王陛下の御為にも、お越し賜りたいのですよ。巫女王様」

 軽く声をたて、アフロは笑った。

 数日前、北の岩場へ星が落ちた。

 カイド率いる王国軍、ラドゥラ・アインが率いる近衛軍。

 第二妃アクスリーヌの配下である東塔殿近衛軍が、三つ巴であわただしい動きをしていると、ボウは報告してきた。

『水面下で動いているのはコンラッド子爵家。クロウ侯爵家は一族ぐるみで。フィリング伯爵家では、嫡男のカーランド殿が、動いている様子。もっとも、弟君のバンテ・ロウ・フィリング殿は、何を考えておいでなのか判りません。変わり者の弟君は、市井に身を置く風流人と、その噂ばかり。シレーユ侯爵は、まぁ、噂どうり大変な切れ者と推察いたしますが…』と。

 そっと扇子で口元を隠し、アフロは上目遣いに視線を上げた。

「お目にかかれますでしょうな、アフロ様。女神降臨はアルラントにとって、勢力拡大の機会となりましょう。東の帝都オーティン、西の沿海州一帯の小国群。ひいては島国シムを足がかりに、大洋の彼方にあるベゼルデンの国々すら、我が国家の勢力下に押さえることが可能なのです。どうか、アルラントの繁栄のため、女神をお引渡し願います」

「引き渡せと、仰せか。なにゆえです、カイド殿。よもや四宝の力をと、愚かな事を申されるのでは、ありますまいな」

 カイドから目を外し、アフロはうつむいた。

 この男にとって、権力は無限なのだ。

 後見する聖王アルフィルド・デュマの想いなど、微塵もかえりみない。

 もし、ヒリアが聖王を後見していたなら、こうまで臣下が争うこともなかっただろうに。

 まして、レイアという少女は、御子のひとりやも知れぬルーヴィルが、身を呈して守ろうとしている者だ。こんな男の思いのまま、引き渡せるような娘ではない。

 意を決して、アフロは昂然と顔を上げた。

 あの日、アストライア神殿を背にした時と同様に。

「カイド殿。政策に関与せぬのが、巫女王です。わたくしには無縁のお話し、受けたまわる筋合いはございません。もしも、まこと女神が降臨されたのであれば、わたくしもお目にかかりとう存じますわ」

唇を引き結んだカイドと、恐れを知らぬ微笑を浮かべたアフロの

 あいだで、無言の剣が火花を散らす。

 アフロから侵しがたい気迫が放たれ、あの日のようにカイドを呪縛した。

 まるで神の加護をまとうようだと、カイドは凍りつく敗北感に襲われる。

 カイドには理解しがたい、覇気のような圧迫感だ。

「なるほど、気丈なご気性は、あの日と少しもお変わりではない」

「そう、カイド殿も、お変わりなくて」

 苦々しく低頭の礼をとり、カイドはひざまづいて胸に手を当てた。

「たいへんご無礼を致しました。王城に戻らねばなりませんので、これにて失礼をいたします。巫女王様のお言葉に、陛下は、さぞご落胆あそばされるでしょう。 残念です」

「まことに、  残念ですこと」




 深夜、身体の芯まで染み入る寒さの中、芸香(ヘンダール)亭につづく枝小路を、ルーヴィルは歩いていた。疲れきったレイアが眠りにつくのを待って、テミスにあとを託し神殿を出る。

 他人に大切な人を預けるなんて、今日まで考えたことすらない。

『キャメルが、探して来いって、うるさいんだ。だから』

 神殿の門前で、ルーヴィルは キリーに呼びとめられた。

 キャメルのそばに、いつもいるシークラーの若者だ。

 おどおどと落ち着かない男で、いいようにキャメルに顎で使われている。

 今夜も走り使いなのだろうと、おかしくなる。

 芸香亭の前まで来て、ルーヴィルは 澄んだビューラの音色に足を止めた。

 凛と響く歌声は、いつもの吟遊詩人だろう。

「その昔、大地は緑豊かにして、黄金の天船は空を行き交う」

 はるか昔から語り継がれた物語を、母は子を抱き、添い寝して繰り返す。

 ルーヴィルやマルカを寝かしつけようと、老いた乳母もよく歌っていた。

 いくつもある物語の始まりは、この言葉から紡ぎ出された。

 その昔、大地は緑豊かにして、黄金の天船は空を行き交う、と。

 人いきれと煙草にけむる店内で、朗々と歌いあげる旋律が、ルーヴィルの心を解き放ち、どこまでも羽ばたかせる。

 神々がこの地上に在って人間とともに暮らしていたころ、大地は緑の森におおわれ、黄金に輝く天船は空を行き交っていた。

 人々は自由にヒリングハムの扉を越え、神々の居ます星界を訪れていたという。

 空高く進み行く船は、どれほど雄大な姿をしていたのだろう。

 緑の大地にあふれる清水が、あまねく人々を潤していたころに、自分も生命を受けたかった。

 煌く都市に笑いさんざめいていた人々の声を、この耳で聞きたかった。

 そのころ人は、すべて神の子であり、等しく愛され、等しく交わっていたという。

『神々は、いまも居ますのか? レイア』

 思いのままに宇宙(そら)を駆けた神々は、いまも星海のどこかにいるのだろうか。

 そして、レイアは。

『レイアは、その世界から?』

 なぜ、レイアは地上へ降りたのだろう。

 それも、シークラーの老師を訪ねて。

 締めつけるような切なさに、吐息が慄く。

 レイアが本当に女神なら、ルーヴィルにとって手の届かない存在だ。

 こんなにも憎悪され、穢れた者にとっては。

『レイア、なぜ  舞い降りた   』

 両開きの跳ね戸を押し開き、ルーヴィルは ざわめく店に踏み込んだ。

 正面のカウンターに、長衣をまとったキャメルがいる。

 その横で、傭兵らしい巨漢が ひじをついて話しかけていた。

 不機嫌にそっぽを向くキャメルに、巨漢の顔が赤く染まる。

 カウンターの中に、ヴァンキーの姿はなかった。

 ごつい男の手が キャメルの腕にかかったとたん、ルーヴィルはその手をひねり上げ、殺気をこめた視線を男の顔面に突き刺していた。

「小僧っ!」

 威勢がいいのは声だけで、掴まれた手首を振り解くこともできず、男の赤い顔が 青ざめてゆく。

「邪魔しないで」

 ひねり上げているルーヴィルの手をとって、キャメルは巨漢に流し目をくれた。

 男の身体に震えが走り、おおきく喉が上下する。

「あたしの、男よ。野暮ねぇ、あんた」

 ルーヴィルに寄り添い、艶然と微笑むキャメルを、巨漢は呆け面で見つめた。

 薄い衣を通して伝わる体温に、ルーヴィルも呆然となっている。

「キャメ…」

 振りほどこうと身じろきし、うつむいた唇がふさがった。

 髪に絡まるキャメルの指が、頭の中を真っ白に塗り替える。

 甘い香り、柔らかな感触。

 ほのかに苦い口紅の味に、意識が溶けてゆく。

 酔っぱらいたちのはやし声が、遠ざかって。

「こっちよ」

 奥へ通じる廊下に踏み込んで、ルーヴィルは後じさった。

 よろめいた身体を、壁が受けとめる。

 呼吸を整え、怒りをこめて睨みつけたキャメルの顔から、スルリと色香が滑り落ちた。

「暗殺者(アサッシン)」

 鋭く息を引き、跳びかかろうとした身体を、ヴァンキーがはがいじめた。

「はやまるなっ、ルーヴィル!」

 ふいに襲っためまいに、膝から力がぬける。

『な に  からだ が』

 目の前のキャメルが、不自然に揺れる。

 床がたわみ、視界が歪む。

『 口紅 に  くすり ?』

 かすんで見えるキャメルが、醒めた声で笑った。

 強引にこじ開けられた口に、にがい液体を注がれ、ルーヴィルはもがいた。

 息苦しさに、たまらず飲み込んでしまう。

「ヴァンキー  や めて」

 すべてが無に落ちてゆくのを、とめられない。

 押し込まれた厚い皮を噛み、涙がにじむ。

『レイア  待って る   おれは 』

「捕まえた暗殺者は、すぐに自殺する。おまえに死なれちゃ 困るんだ。もし、おれの思った通りなら、おまえはおれが探し求めていた大切な方だ。こんなところで、おめおめと死なせるわけにはいかない」

 睡魔に負け、ルーヴィルは暗闇に沈むレイアを呼んだ。

「なぜ、殺ってしまわないの。この子は、暗殺者よ」

 キャメルの声には、明らかに憎悪がこもっていた。

 魂の底から、暗殺者を憎む響きがある。

 その手で絞め殺しかねないほどの、強烈な憎悪。

「老師の、命令だ。おそばに つれて行く」

 動かなくなったルーヴィルを後手に縛り上げ、ヴァンキーはぼそりとつぶやいた。

「ヴァンキー!」

 ただならぬ気配が、みなぎった瞬間。血まみれのキリーを抱えたヤムが、転がり込んでくる。

 あわてて抱き起こしたヴァンキーの腕で、キリーは身体を強張らせた。

「キャメル? 逃 げて。 東塔の兵隊 たちが  女 神を」

 ふっと、キリーは目を閉じる。

 もう、息はない。

 裏木戸を蹴破り、数人の兵士が斬り込んで来た。

 ヤムの放ったナイフに先頭の兵士が倒れ、一瞬足を止める。

「ヴァンキー、キャメルと逃げろっ」

 躊躇するヴァンキーの視線は、ルーヴィルから動かない。

「あいつは、おれがなんとかするっ。行けよ!」

 ヤムの叫びに顔を上げ、泣きそうにヴァンキーはうなづいた。

 兵士のひとりがルーヴィルに手をかけたとたん、影が走った。

 その胸が、突き出された兵士の剣を抱き込んで倒れる。

「おまえっ!?」

 影は、死に至る直前、ヤムと目を合わせ、床に筒を打ちつける。

 身をかばう間もなく、影の手が爆発した。

 もうもうとたち込める煙のなか、ヤムは手探りでルーヴィルを引き寄せた。

 そのまま肩に担ぎ上げ、右往左往する兵士をやり過ごし、一気に路地へ走り出す。

 あとを追う兵士が、ヤムの背後で崩折れた。

 その背中に、数本の暗器が刺さっている。

『なぜ? こいつら、ルーヴィルを?』

 一瞬気をとられ、広い通りに飛び出したヤムの前で、馬車馬が棹立ちになる。

 あやうく蹄をかいくぐったヤムの横で、馬車の扉が開いた。

「乗れっ」

 声をかけた男に、ヤムは絶句し。

「お まえ  」

「迷っているひまが、あるのか」

 逆なでする言いように、意を決して乗り込むヤム。

 エルバスの隣には、まだ見習いらしい青い髪の巫女がいた。

「エルバス様」

 ヤムよりルーヴィルを見て、エルバスの隣に座る巫女が息を飲む。

「探していただきたいと、申し上げましたのは、この方です」

 ヤムは、巫女がアストライア神殿のテミスだと 気がついた。

 蓄人(スラッジ)でありながら、アフロに養育された少女。

「早々に見つかって、よろしゅうございました。このふたり、わたくしがお預かりすると、巫女王様にお伝えいただけますか?ボウの不在中に不祥事を起こしました責めは、わたくしが責任をもって対処いたしますと  」

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