第11話 駒落ち

夜が明け切らぬうちに、雄三は揺り起こされた。疲れは取れず、まぶたは重い。


まだ外は暗い中、メリッサが息を弾ませた様子で枕元に立っている。昨夜は別々の部屋で寝たはずだが、何事かあったのだろうか。


「どうした? 明さんに殺されかけたか?」


悪い冗談だと思ったが、寝起きで雄三は機嫌を損ねている。軽口にメリッサは真顔で首を振った。


それから膝を折り畳むようにしゃがみ込み、雄三の顔を真上からのぞきこんできた。逃げ場がないため非常な圧力がかかる。


「な、何だよ……?」


「雄三、将棋教えて下サイ」


メリッサの並々ならぬ情熱は雄三を焼き尽くそうとするかのようだった。


にもかかわらず雄三は背中を丸め、肘と膝まで折り曲げて胎児のような姿勢を取った。


「将棋はねえ、盤と駒がないとできないんだよ。残念だったなあ。もしあれば、プロじこみの技をおせえてやれたのに」


ぐずる雄三をよそに、メリッサは足付きの将棋盤を引っ張り出してきた。さすがの雄三も寝ていられなくなる。


「明さんに借りてきました。お客さんに貸し出すこともあるそうデス」


「へえ……」


雄三は明からいくつかの仕事を仰せつかっている。旅館再開のためにやらなければならないことは山積みだ。しかしまだ朝の仕事まで時間はある。メリッサもそれを見越して頼みに来たのだろう。狡猾な面も持ち合わせているから侮れない。


「わーったよ。懇切丁寧に指導してやろう。ビシビシいくから途中で投げ出すんじゃないぞ」


「やったあ! よろしくお願いしマス、先生」


プロ棋士は先生と呼ばれることがある。雄三にその道は絶たれているから、胸が痛い。もちろんメリッサに悟らせるような真似はしなかった。


将棋盤はやや黒ずんでいるが、榧で作られていた。将棋盤にとって最も高級で人気のある材質が榧である。


雄三はその盤に駒を広げ淡々と並べ始めた。メリッサの陣地に駒を並べ終わると、自分の陣地には玉一枚と、その前面に歩を九枚横一列に並べた。将棋は二十枚と二十枚、総勢四十枚の駒が激突するゲームである。


その他の駒は? とメリッサでなくても問いかけたくなる。


「駒落ちって言ってな、実力差がある場合、上手が駒を外して戦うんだ」


雄三の駒は実質、一番価値の低い歩しかない。前に一歩しか進めず一見すると弱いが、他の駒と組み合わせることで力を発揮する。


 メリッサは簡単過ぎると見なし油断していたが、意外と難しいことがすぐにわかる。


将棋は相手の玉を詰ます(逃げ道を完全に塞いで、移動できない状態)にするのが最終目標だ。雄三は駒の動きを教えて後は何も指図しなかった。


メリッサは前進あるのみ。強力な飛車や角が、雄三の陣地をやすやすと突破する。


ところが守りの手薄に見える雄三の玉は器用に逃げ回りなかなか捕まらない。


メリッサは髪を邪魔そうに払い、盤面をにらみつけている。鬼気迫る表情だが、雄三は手を抜かない。それどころか逆にメリッサの玉を詰ましてしまった。


「あっ……!?」


メリッサは膝を悔しそうに叩き、唇を噛んでいる。恨めしそうに雄三を見上げる。


「……、もう一回お願いしマス」


「いいよ」


 原則、雄三はどんな相手でも挑戦を断らないようにしている。盤面だけは真正面から挑み、嘘はつかない。人生のわき道はそれても、これだけは譲れない。


 「雄三、逃げないで下さい」


 再開してすぐ、メリッサが口走る。将棋の内容について述べていることにしばらく気づかなかった。


「逃げるのも戦略のうちなの。文句があるなら捕まえてみな」


「それ絶対女の子の台詞デス。雄三には似合わないデスよ」


雄三の玉はつれない女のように、捕まりそうで捕まらない。無理に追いつめようとすると駒を渡すことになるから雄三の思うつぼである。


「雄三はどうしてそんなに将棋強いデスか」


悩んで悩みぬいてようやくメリッサは一手を指す。雄三は催促することなく仰臥してそれを待つ。


「寝てたら強くなった」


「ふざけるのは将棋だけにして下サイ」


「将棋も人生も真剣さ。俺はずっと寝てたんだよ」


雄三はメリッサの銀を歩で取り、駒台に載せた。取った駒は好きなところに打ち込める。


「夢を見てたんだ。今は覚めちまったからもう強くなれない」


諦めを口にしても、こうして盤の前に居座り、駒に振れれば頭が冴える。こうしている間だけは幾分、夢の絞りかすが味わえた。


「私も夢を見ていマス。雄三と同じデスね」


メリッサが思い描く夢はどんなものだろうか。雄三には検討もつかない。当初は恐ろしさから訊ねなかったが、今は違う。


自分の卑小さに比べてメリッサの青写真は雄大で、一国の運命を変えるものだったとしたら、やりきれない。つまらない嫉妬だ。


メリッサはまた負けた。将棋の手際はあまりよくないようである。定跡を教えない雄三が悪いのだが、眠くてそれどころではない。威勢が良いのは口だけであった。今の雄三にはとても先生は勤まらない。


雄三があくび混じりにまたやるかい? と訊ねるとすぐに答えが返ってきた。今度はメリッサが駒を並べ始めた。どうやら初期配置を覚えたらしい。


メリッサが十枚落ちを卒業するのが先か、仕事の時間が来るのが先か。雄三が賭けるのは……



雄三の賭けは結果として成立しなかった。何故なら雄三が、途中で寝てしまったからだ。駒を握ったままうつ伏せになっている。


それを見たメリッサは憤慨した。どんな奇矯な手を使って起こそうか考えたが、すぐに諦めた。無理に教えをこうた自分が悪いと思っている。繊細な手つきで、雄三の体に布団をかけた。



「雄三は夢を見続けていいんデスよ。そうやってみんな繋がっているんデスから。今はおやすみなサイ」


メリッサは駒を箱にしまい、盤を持って静かに部屋を出た。


メリッサの夢は未来への土台作り。雄三の夢もかつてそうだったように、多くの他者を巻き込もうと動き出していた。

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