第10話 同志

雄三とメリッサは暗い原野を歩く。明に暇を出され、流浪の身となった。


もう戻ってくるなと、固く門扉を閉ざされたのだ。


「お前、これからどうする? 俺は東京戻るけど」


雄三の腕の中にいるメリッサの頭部に訊ねた。体の部分は宿に置き去りのままだ。明が問答無用で二人を閉め出したせいである。


「この妖夷め!」


感情的になった明は、メリッサの頭を蹴り飛ばした。妖夷とは魔族の蔑称である。魔族を憎む者がそう呼ぶこともある。メリッサはよほど堪えたのか失意の底に沈んでいる。


 雄三は地蔵の側の岩に腰掛けた。メリッサの温もりで外にいても冷えることはなかった。


「明さんは私たち魔族が旦那さんを殺したと思っていマス」


日本軍とソ連軍が、中国東北部で交戦したノモンハンの戦いにおいても、魔族が介入した記録がある。


両者共、国境での小競り合いを経ていきり立っており、停戦の申し出をはねつけ、混戦模様となった。


そこで魔族は示威活動を行ったとされる。どれほどの規模だったか、正確に伝わっていないが、双方とも犠牲者が出たことは間違いないようだ。明の夫は中国戦線にいたから、その場所にいて命を落としたと誤解したのだろう。


「仮にそうだったとしても、メリッサがやったわけじゃないだろ。あんなのひど過ぎるよ」


雄三はメリッサに肩入れするような発言をするが、実際自分の身内が同じ立場にいたら気が気ではない。


魔族は何のために戦争に介入するのだろうか。世界を征服するためだという説は根強くある。調停が終わったら牙を剥くのだと。今のところその兆候はないが、いつ手の平を返されるかわかったものではない。明を心から責められないのが、今の雄三の微妙な立場だった。


「明さんは悪くありまセン。相互理解には長い時間が必要なのデス」


メリッサの辛抱強さは、安心材料になった。


時間が必要なことは雄三にもわかる。しかし時間が許すかどうか。魔族が皆メリッサのような寛容な者かどうかもわからない。それを見極めるのが、雄三の目下の課題なのかもしれないと思うようになった。


「俺も、つき合うよ。明さんの家の前で待とう」


「帰るんじゃなかったデスか?」


思いの外、頼りにされてなかったと知り、雄三はうつむく。メリッサはそれを打ち消すように顔を綻ばせた。


「頼りにしてマス。雄三は、私の同志デス」


「同志……」


幕末の志士のような勇壮な意識が芽生える。何事かなそうという気概は青年をおもしろいように奮い立たせた。


「よーし! メリッサ、急いで戻るぞ。こうなったら根比べだ」


「その必要はないよ」


草むらの陰から明がぬっと姿を現した。しだれ柳のように背を丸め、凄絶な幽霊のようだった。小心な雄三は血の気が引いた。


「明さん……」


何か言いたそうなメリッサを一瞥した後、明は宿の方向にすたすた歩きだした。


「冷えただろ? 風呂入っちまいな」


二人を拒絶する雰囲気に変わりはないが、明の言葉に少なからず温情が感じられた。


メリッサの顔がため息をつくと、雄三も同じ仕草で安堵をした。知らず知らず息が合ってきた模様だ。


明の家には母屋と別館がある。母屋の裏手の別館に露天風呂があり、雄三とメリッサはそこを使うように言われた。


「あんた臭うよ。このままじゃお客の前に出せやしない」


帰る道すがら、明は雄三の顔の前で鼻をつまんだ。


「俺は働いていいいんですか?」


腕の中のメリッサに配慮するように小声で意向を訊ねた。


「そのつもりで来たんだろ。構わないよ。それからメリッサ」


明はメリッサの頭のある位置まで自分の頭を下げた。


「さっきはすまなかった。ひどいこと言っちまった。許してくれるかい」


雄三はメリッサが微笑んでいることに気づいた。全てを許すような安心感を誰彼なく与える。


「私の方こそ、大変な時に押し掛けてすみませんでシタ。明さん、また仲良くしてくださいね」


ひと段落したはいいが、雄三は合点がいかない。魔族は敵か、味方か。明だっていきなりメリッサに心を許したわけではないだろう。体裁が悪くなって追いかけてきたに違いない。


今はまだ高い塀に囲まれた隣人といった所か。雄三はその正体が知りたい。雄三だけでなく、その他大勢の総意も同じであった。


浴場は、十人以上は入れる湯船が一つと小さい湯船が一つ。営業はしていなくとも、明は掃除を怠らなかったらしい。湯垢、黴、一切ない。清々しい気分で雄三は一番風呂にしけこむ。


「ふー……」


思えば風呂に入るのは久しぶりである。東京の借家には風呂はなかったし、近くの銭湯も空襲で焼け出されてしまっていた。


風呂の縁に腕をついていると、修業時代を思い出す。一門で風呂に入ったことは良い思い出だ。


兄弟子たちは将棋の話をせず、女の話ばかりしていた。雄三は硬派を気取り、話には入らなかったが、耳はそばだてていた。


近所の女学生がどうのこうのと容赦のない品評する。銭湯を出る時、その人とばったり顔を合わせた時、雄三は気まずい思いをした。


「もっと女の話しとくんだったな……」


後悔先に立たず。話したい時に兄弟子はなし。無事だといいが。


湯気の向こうに動きがある。狸か、狐の仕業かと雄三は訝る。その正体に気づくや後ずさった。


「はー、大きなお風呂デスね」


メリッサが悠々を湯気を払いながら、雄三の前に立つ。頭部と体が連結し、一人の女として顕現していた。


雄三はメリッサのくるぶしをじっと見つめる。そこ以外に目を向けたら負けだと思った。


「メリッサさん」


「はい?」


「風呂は俺が先って決めたよね。納得したよね」


「明さんが面倒だから一緒に入れって言われマシタ」


メリッサの白いつま先が内側に寄るだけで、雄三は狼狽した。湯船に顔をつける。


「あのさあ、……すぐ上がるから、向こう向いててくれる?」


「裸の付き合いは大事って明さん言ってマシタ。ご一緒しましょう」


メリッサが体を洗う間も、雄三は金縛りにあったように動けなかった。


結局、雄三は湯船の隅に移動し、メリッサに場所を空けた。場所を空ける必要もないくらい広いのだが、雄三の過剰な意識の現れである。明も余計な事をしてくれたものだ。


「これでよかったのか」


「はい、お風呂は一人より二人の方が楽しいと思いマス」


「違うよ。明さんのことだよ。やけにあっさり受け入れたじゃないか」


メリッサも明も完全に吹っ切れたわけではない。そこに波紋を投げかけるのはいらぬ騒動に発展しかねない。しかし雄三は状況を把握しておかないと気が済まないのだ。


「私は気にしてまセン」


無理をしている。罵倒されても蹴られても、意地を通し続ける。雄三にはそれが解せない。


「メリッサのやりたい事って何?」


メリッサの髪の毛先からお湯が滴る。雄三は見とれつつも核心に踏み込んだ。


「今はまだ……、言えないデス。ですが、世界平和のためというのは信じて下サイ」


「へー、そうなんだー……」


雄三の視界は二転三転している。メリッサが何人も増え、張られたお湯が波濤のように雄三を飲み込んだ。


 「雄三!?」


長時間、湯に浸ったせいで雄三はのぼせ、水中に没した。助け出されても意識は混濁し、譫言のようにメリッサを呼ぶばかり。


深夜になってようやく意識を回復すると、傍らにメリッサの姿がある。


メリッサは団扇を握ったまま眠っていた。熱にうなされる雄三を煽ってくれていたのだろう。 


涼風の感触を再確認するように、雄三は自分の頬を幾度も撫でた。

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