第2話 とある真剣師の来歴


雄三は東京から汽車に乗り、静岡県にある伊豆半島に向かっていた。


賭け将棋に負けた雄三にあてがわれたのは、旅館での仕事だった。


軍服の男とは東京駅で別れたので、いつでも逃げ出すことはできる。しかし、賭け金をきっちり払うことと、イカサマをしないことを信条としている雄三はそうしなかった。将棋指しとしての沽券に関わると思っている。


それにしても……、と、雄三は人でごった返す列車の中で軍服の男との対局を思い返していた。


雄三の最も得意とする相矢倉の戦型で破れたことで、心中穏やかではいられなかった。


あの男の雷光のように鋭い差し回しと、妖気を匂わすような雰囲気に呑まれたとはいえ、完膚なきまでに負かされたのだ。自信を取り戻すのには時間がかかる。


雄三は三年前まで将棋のプロ棋士を目指していた。


プロになるにはまず師匠に弟子入りする必要がある。雄三は旧制中学卒業後、雑司ヶ谷の師匠の家に住みこんだ。


熊本から東京に出てきたのに、将棋は教えてもらえず、雑用ばかりやらされた。その合間に兄弟子たちの本を盗み見たりして、技術を磨く日々だった。師匠も兄弟子たちも、雄三は余計なことを言わない方が伸びると思って何も言わなかったのだろう。


奨励会というプロ養成機関で三段の段位になった頃には戦争は激化し、兄弟子たちは残らず出兵していた。


師匠でさえも軍需工場に取られてしまい、いよいよ雄三は家に居づらくなった。時勢も将棋が許されるような空気ではない。師匠も奥さんも何も言わなかったが、配給は少ないので肩身は狭かった。


自分の食い扶持くらい自分で稼ぎたいと思い立つ。働くのが嫌いな雄三にもいっぱしの孝行心が芽生えたのである。


工場で働くことも考えたが、周りに迷惑をかけることを懸念した。少しでも空いた時間があると、将棋のことを考えてしまい危なっかしい。些細なミスでも工程に大きく差が出るのはいただけない。


実入りのある仕事は何かと考えているうち、一番手直なものに飛びついた。つまり将棋だ。


プロとして扱われるのは、四段からだ。雄三はまだ何者でもない。それを利用しようという企てだ。


賭け将棋を生業とする真剣師という存在は以前から知っていた。プロからは邪道だと見なされていることも。


しかし、戦時は大抵の手段を正当化する。背に腹は代えられぬと雄三は即実行に移した。


駒落ちのハンデでアマチュアの相手をする。指導ではなく、純粋に負かすために。


近場では顔が割れているため場所には気を遣ったが、相手に不足はしなかった。おおぴっらにはできなくても、誰もが息苦しい時代のはけ口を求めていたのである。


食料不足のため、貨幣よりも米の方が喉から手が出るほど欲しかった。雄三は前のめりになりながら勝負に没頭した。


初めて米を手に入れた時は急いで師匠の家に帰り、奥さんに炊いてもらった。米は実家から送ってもらったと嘘をついた。


さすが師匠は勘が鋭い。悪事はすぐに露見した。


「考えられん。お前は素人じゃ! 一生素人じゃ!」


師匠は将棋盤をひっくり返し、激怒した。


奥さんや他の棋士は謝った方がいいと雄三に言ってくれたが、雄三はよかれと思ってやったことだから謝らない。


売り言葉に買い言葉、雄三は師匠も特権意識に毒された大人に過ぎないとまで公然と口にするまでに至った。


ついに師匠は雄三に将棋会館の無期限出禁を命じた。事実上の破門である。


師匠の家を出た雄三は実家にも帰らず真剣師として一年過ごした後、召集され、満州で戦争を終えた。引き上げ船で帰国したのは一ヶ月前のことだった。


将棋に未練があったのか、真剣師を続けている。師匠や兄弟子たちは元気だろうか。知りたいが、今の自分では顔向けできない。腕を磨き続ければあるいはと、甘えた考えもあったのかもしれない。


さて、伊豆なら湯治と相場が決まっている。雄三は仕事そっちのけで、物見湯山の気分に浸りつつある。


というのも、車内にいる復員した男たちの陽気に当てられたせいでもある。


彼らは一様に浅くない傷を負っていたが、帰途につくことで少しずつ活気を取り戻しつつあったのだ。


(帰る場所があるってのはいいことだ)


雄三も故郷の母の面差し思い浮かべた。東京に出る際に勘当同然で送り出された。しかし考えない日はないと言っていい。


名人になれば故郷に錦を飾ることができる。そう信じてやってきたのに、彼の前途は突然閉ざされた。時代のせい、制度のせいにすることもできる。だが、将棋で鍛えた合理思考はそれを許さなかった。あらゆる境遇を受け入れる。


真剣師になるにあたって雄三が自分に課したことの一つだ。徹底しているかどうかは時と場合による。


先ほどから雄三の正面に若い女が立っている。木綿のシャツにカーディガン。こぎれいな格好が若干車内で浮いている。雄三はつぎだらけの国民服を着ているし、他の乗客も似たり寄ったりだ。


雄三は女が苦手だ。師匠は芸妓遊びが好きで、雄三も連れていってもらったことがある。


普段は気むずかしい師匠が、簡単に踊らされる。女は魔力を持っていると、雄三は密かに恐れていた。


車内は帰郷する人間が溢れんばかりに収まっている。雄三と女も意図せずとも密着せざるを得ない。振動があれば人の流れも起きそうなものだったが、この稠密度では長時間、同じ人間と面と向かうことになる。


うつむきがちの女のまつげが雄三の目に留まる。蝶でも止まれそうだなと思った。


その時、電車が激しく鳴動し、緊急停止した。


雄三は踏ん張りきれず、女を壁際に押しやってしまった。


「おっとごめんよ」


雄三は予期しない失敗に慌てた。へっぺり腰になりながら謝った。いかつい風貌にそぐわず滑稽にすら見えた。


女の鳶色の目を伺おうとしたが、前後左右どこにもない。


女の首から下だけの肉体が、雄三の腕の中にあった。首から上はどこかに転がってしまったらしい。

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