驟雨のあとへ

霜徒然

 ドクン、ドクン、ドクン。耳元で鼓動が響く。最近急に暑くなり始めたせいか、はたまた緊張の産物なのか背中を一筋、汗がつうと滑り落ちていった。ゆっくりと深呼吸をし、固く閉ざされていた瞼が開かれる。視界に映る光景が徐々に鮮明になると同時に、彼は目前の掲示物に視線を合わせた。

 _一学期中間試験成績優秀者一覧_

 _二位_榊時雨__660点_。

 全身の力が抜けた。静かにその場を離れ歩き出す。生ぬるい風が汗ばんだワイシャツと頬を撫ぜ、色素の薄い前髪をふわりとかき上げた。

しばらく歩き続け、ようやく辿り着いた書庫室のドアを一呼吸置いて開け放つ。

「天宮ぁぁぁ!!! 」

「五月蠅い。近所迷惑」

 それは、榊時雨さかき しぐれが天宮に六連敗を果たした記念すべきでもない日の出来事である。


 快適な温度と湿度に保たれた室内は、頭に血の上った榊を落ち着けるのに十分だった。長机とパイプ椅子、そして無数の本しかないこの部屋で、榊は机にべったりと突っ伏したまま動かずにいる。

「また私の勝ちだったんだ。今回も相変わらず二位? 」

 読んでいる本から顔を上げずに淡々と質問をしてくる彼女こそ榊の宿敵、天宮哨子あまみや しょうこ。背中の中ほどあたりまで伸ばした黒髪、切りそろえられた前髪の下に銀縁の眼鏡を据え、その奥の瞳は聡明さを物語っている。

「うるせぇよ。今回こそいけると思ったのに……はぁ」

「そんなところでのびている暇があったら文芸誌の原稿でも書いたらどうなの。まだ一文字も進んでないじゃない」

「そんな気分になれる訳ないだろ。なんでいつもこうなんだよ。元はといえば」

「元はといえば勝負を仕掛けてきたのは榊でしょう」

「うぐ……」

 榊時雨。高校二年生。彼は今まで“人に負ける”という経験をしたことが無い人間だった。幼少から勉強は常にトップ、運動会では毎年リレーのアンカーに選ばれ一位を勝ち取っていた。友人も多く教師との関係も良い。文字通りの優等生として順風満帆な生活を送るごく普通の男子生徒。そしてその日常はこれからも続く…はずだった。

 高校入学後、最初の定期試験。その成績優秀者一覧表の目の前で彼は愕然とした。

「一位じゃ…ない? 」

 一位の欄に、自分の名前がない。あろうことか榊時雨の文字はニ位に押しやられ、頭上には知らぬ名。予想外の結果にショート寸前の頭を叩き起こし、手当たり次第にその名前の人物を探し回った。同学年といえど、新入生が校舎内を自由自在に行き来できる訳もなく、ようやく文芸部所属であるらしいという情報を得たのは放課後であった。そしてその時の彼は、少し冷静さを欠いていた。

「ここに、天宮硝子という生徒は居るか! 」


「あれは中々面白かったわ。雨宮ガラス……ふふっ、まるで推理小説の主人公みたい」

「笑う事ないだろ! ちょっと読めなかっただけで……」

 文庫本で口元を隠し、天宮はさも愉快そうに笑った。対して、過去の失態を反芻された少年は決まりが悪そうに膨れる。

「硝子の“硝”じゃなくて口へんの“哨”。哨戒斑の哨」

「まずそのショウカイハンが書けないだろ」

「それもそうね」

 それ以来、榊は天宮に幾度も定期試験の合計点数で勝負を挑み、悉く敗れている。それはもう見事に。

「大体、現国がどう頑張っても勝てない。論説は具体例と比較の連続だし、小説は作者の意向を問われるし、漢字に至っては数が多すぎる」

「日本が漢字を用いず平仮名と片仮名のみを使う国になったら、君の嫌いな現国の教科書は何冊にも増えるわね」

「お前なぁ……」

 他愛のない二人の会話。それらを聴くのは数多の本のみ。長らく廃部状態だった文芸部の部員は現在榊と天宮の二名。顧問すら滅多に顔を出さない。それ故、書庫室が文芸部の部室として使用されているという事もあまり知られていない。学校という社会の中から隔離されたこの空間は、さながら秘密基地の様である。

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