老書聖

執行明

第1話

 広い和室に、三人の男が座っている。

 部屋の中央に座るのは、厳しい眼光の痩せた老人。

 その後方二米ばかりのところに、二人が正座している。ひとりは二十歳そこそこの青年。もうひとりは中年の男で、がっしりした体つきであった。

 この大きな和室に、寝食に必要なものは何も置かれていなかった。電灯すらない。ただでさえ鈍い灰色の光が、障子を通して洩れて来るだけだ。

 凡俗な生活のためにある室ではない。

 老人の手には毛筆が、そしてその前面には半紙と硯が置かれている。

 三人は声ひとつ立てなかった。かすかな雨音だけがする。

 老人は半紙の左上に筆をつけた。

 黒灰色の墨が、さっと白い繊維に染み透る。老人は素早く筆を上げ、その下にもう一度、筆をつける。続けてさらにその下に、波頭のような三角形を創り上げる。

 それはそれは見事なさんずいが書かれた。

 傑作ができる、若者はそれを確信した。

 が、老人はそのさんずいの横に筆を下ろし、そこで止めてしまった。

 黒い液体がみるみるうちに、だらしなく半紙を浸食してゆき、全てを台無しにしてしまう。

 老人は半紙をつまみあげ、丸めもせずに後ろに放り投げた。

 中年の男がほとんど音もなくそれを拾い、若者が慌てて新しい半紙を渡す。


 それから三度、同じことが繰り返された。


 老人は高名な書家である。

 中年の男は、老書家に仕えて二十年にもなる一番弟子。というより唯一の弟子であった。ほんの先月、若者が弟子入りするまでは。

 齢七十を越える老いた書家の人生で、彼が弟子入りに値すると認めた者は、この二人だけだったのである。

 若い弟子は素直で忍耐強い性格であり、下働きばかりさせられることにも不満の表情は見せなかった。偏見に近い覚悟を、最初から持っていたようだ。

 だが今日、若い弟子の顔には初めて不満の色が宿っていた。

 彼にとって、師の書いたさんずいは、師の数々の名作と同じように輝いて見えていた。劣るところなどどこにもない気がしていたのだ。

 己の未熟な目には見えない不足を、師や兄弟子は見抜いたのであろうか。

 いやそんなはずはない、と若者は思っていた。父親や祖父ほど年の離れた、兄弟子と師。だが自分の眼力は、眼力だけは彼らに比べても、決して劣るものではないはずだ。

 彼が師に弟子入りするとき、同年代の候補者がもう一人いた。兄弟子は二人に、素人目にはまったく同じように見える書を二枚見せ、いずれが師の完成品で、いずれが失敗作としたものであるか当ててみよと問う試験を繰り返した。

 もう一人の候補者は二分の一の確率で、つまりまったくの偶然でしか当てることができなかった。

 だが若者は、全て的中させたのである。

 試験はそれで終わりであった。その日のうちに弟子入りを許された。

 後でライバルは悔しそうに、一体どうして分かったのかと彼に聞いた。彼にも答えようがなかった。より素晴らしい書だと思えた方を言っただけだったのだ。

「こればかりは、持って生まれて眼力というものじゃ」

 老書家は言った。

 しかし、今日見た師匠の書きかけのさんずいは、師匠の完成作と同様に輝いて見えた。それも大傑作といわれるどんな書に比しても、決して見劣りするものではなかった。

 

 師は筆を逆さに持ち、コンコン、と硯を叩く仕草をした。

 何かを持って来いという合図だ。中年の一番弟子は立ち上がった。

 師は行き詰まると、よくこれをやる。要求しているものは別の筆であったり、茶であったり、菓子であったりする。どんな叩き方をすれば何を欲しがっているのか、一番弟子はすべて知っている。だが、弟子入りしてひと月にもならない若者には分からない。

 若い弟子は、襖を開けて退出した二番弟子について行った。いったい何を師匠は求めているのだろう。

 今日の師匠の書は、完璧に見えた。

 いったい何が不足しているのか。

 兄弟子とともに長い廊下を歩きながら、若者はずっとその意味を考え続けた。

 二人が行ったのは師の私室であった。兄弟子は襖を開け、ためらわず入室する。

 そして机の引き出しをそっと開け、中からあるものを取り出した。

 漢字字典であった。

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老書聖 執行明 @shigyouakira

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