紫煙に捲かれて蒼空を仰ぐ

第1話

 彼は自分の名を知らない。田舎の貧しい家の子に生まれ、口減らしに奉公へ出された。それが指を咥えているほど幼い時であったので彼は自身の名はおろか、両親の顔さえ虚ろに霞がかった夢のようにしか思い出せなかった


 彼に初めて会った時、少年は目の前の目の人物に思わず目を奪われた。

 薄手の布で仕立てられた着物はまるでお伽噺に出てくる天女の羽衣のようで、少年は生まれて初めて見る美しさの人間に暫し茫然と立ち呆けた。


 窓辺の寝台に片足を上げて身を横たえ、長い煙管の片方を静かに咥える唇には薄く紅が差されている。


 年齢の察しはつかず性別も同様だったが、この場とその所作から理由無く女性かと思い込んだ。そう至ればもう、出来ることなら直ぐにでもそちらに駆け寄りたかった。そうすれば女特有の庇護を無条件に与えてくれるような気がしたのだ。少なくとも、背後の男よりはそう思えた。

 然しそれ以上に、初対面時から今に至るまでの男の乱雑さを思うと逆らうのは恐ろしく、少年は一層強く手を握りしめて俯いた。鼻の奥が痛くなるのは、この部屋を白く曇らせる煙のせいばかりではない。


 その人物は、この国では珍しい赤茶の髪で、癖のあるそれを長く伸ばしていた。純白で艶のある絹織物に髪を流した様子は、まるで赤銅色の龍が雲海を泳ぐかのようだった。

 彼は紅化粧の施された瞼を重たげに持ち上げると、少年のことを撫で付けるように足先から頭まで見やる。



やがてその人物が口から莎持った重い煙を吐き出すと、それを待っていたかのように男が言葉を切り出す。少年の生まれた村とは酷く言い回しや訛りが違い、少年にはまだ多くを理解出来なかった。


「これをお前に見繕ってきた。言うことを聞かなければ物でぶっていい、頭の出来が悪いが、顔はいいから稼ぐようになるだろう」


 饐えたような臭いがする煙に、単なる煙草ではないのだろうと少年は訝しむ。目の前にいる派手な化粧をした、男か女かも分からぬ人物は二言三言己を連れてきた男へ文句を言った。


「……わたしは世話人はいらないと言った筈だけれど」

「御前は煙ばかり呑んでちっとも身の回りの事に構いやしないじゃないか。それにこれは御前の下働きであり、御前が仕込む新人でもある。……意味は分かるな?」

「其れも含めて、わたしはいらないと……」


「とやかく言うな! 御前がそうやって芥子ケシを吸って酔っていられるのが誰のお陰か、もう分からなくなったか? 御前をそこいらへ放り出したとして、正気を保っていられるだけの芥子が手に入ると思うか」


 言い負かされたのか、唸るように声にならない不満を漏らす。その声は煙に燻された掠れ声で、どうやら彼は男であるらしかった。少年は人知れず僅かに警戒した。

 女の方が大抵は子供に優しいことを、少年は既に知っていた。彼のような田舎生まれの子供にとって、男は母へ威張り散らし、子供を貶し、畑の動物を殺すものに違いなかった。


 彼は、少年の肩をがっちりと掴んでいる男に言いくるめられたと見え諦めを見せるとふいに感情を廃れさせた顔をし、諦めて窓の外に意識を逃した。

 話がついたとあり、男は少年に淡々と言う。


「お前は今日から竜胆ロンターだ。あいつは垰 李渕タオ リェン。お前の兄役だ。お前に彼是ものを仕込む人だ、よく仕えなさい」


「タオ……」


 名前を呼ばれたのにも拘らず、彼は既に二人の事など微塵も厭わないようだった。寝台の上で窓に凭れて空を見上げる様子は、本来の住処である天上に焦がれているようだ、と少年は思った。



 それから少年は竜胆ロンターと呼ばれるようになり、他に近しい年頃の少年が二、三人寝起きする部屋に押し込められ、そこで生活をするようになった。起きている間はあの青年、峠の部屋に向かわされ、彼の言いつけ通り働いた。


 タオは少年がはじめ危ぶんだような『典型的な男』ではなかった。最初の数日こそ彼は少年の事を疎ましがるような態度を取り、部屋の隅に一日中座らせておいて客が来た時にだけ外で待たせて時折何かを言いつけて持ってこさせるような、明らかに彼を持て余した扱いであったものの、手を挙げられるようなひどいことは一つもされなかった。


 二人が仕事以外の話をするようになるのに、そう時間は掛からなかった。峠はあまり自分から口を開かなかったが、竜胆が彼是尋ねるのに二言、そして三言と言葉数が増え、次第にそこへ僅かばかりの温かみを帯びた。


 後になってあの生臭い男がこの遊廓の支配人であることや、ここが違法建築の上に違法建築を積み重ねた、天を突く不潔な摩天楼であること、支配人は峠へ自分が言うことを聞かなければ手を上げても構わないと告げたこと、峠はそこまで人気のある娼人ではないものの、それ以上の何も望まないのだと少年は知った。


 とはいえ、峠は竜胆へ手を上げるどころか声を荒げた事さえ一度もなかった。彼は竜胆が慣れない小間使いに些細な失態を犯した時には、静かに怪我の有無を尋ね、必要の時には近くに呼び寄せて慣れた手付きでその手当をした。無事の時には片付けだけ命じ、自分は次の阿片を煙管へ詰めて興味なさげに外を見た。

 まるで時間潰しにもならないとでも云うように。


 竜胆は時が経つにつれ、峠を母親代わりのように見るようになった。峠もまたはっきりと口にはしなかったが、自身へ純粋な信頼を寄せる竜胆の事を悪くは思わなかった。その仕事をする者にとっては欲望や、執着や、利害が最も向けられがちな感情であり、竜胆の寄越すような信頼や愛着を示す者はそう居なかったのだ。物珍しいそれを、彼は大層重宝がった。



「……竜胆、御前が生きるため仕込まなくてはいけない事がある。恨むなら恨め、我わたしはそれを咎めない。……只、恨むなら我だけにしなさい、そうでなければ御前はきっと惨い目に遭う」



 そう告げると、峠は慣れた手つきで、恐る恐る未熟な身体を抱いた。幾度となくそれが繰り返されると、竜胆は彼と寝台で過ごす時間を次第に心地よく思うようになった。どの時も必ず、まじないのように峠は謝った。然し、竜胆が彼の言うように彼を恨むことは無かった。恨む理由など、竜胆にはこれっぽっちもなかったからである。


 やがて竜胆が客を取るようになると、彼は前より益々峠の手の優しさに焦がれるようになった。彼はどの客よりも丁寧に、竜胆を好くさせるよう努め、どの客より柔らかに彼を抱いた。


 それを彼へ告げると峠は、


「それを客へ言っちゃ悪いよ。寝台ではどの客へも貴方が一等と言いなね。嘘を言えないなら黙って乱されて、曖昧に笑っておけばいい」


 と悲しげに笑った。美しく伏せられた目が竜胆へ向けられることはなかった。





「タオ、」

 竜胆がある時、仕事の暇を貰って峠の部屋へ訪ねた日、窓枠に切り取られた夏の空は突き抜けるように青かった。


 異様な人口密度と下の階から上がってくる蒸気とで蒸し暑いこの住処の中でも、峠の部屋ならば大きな窓が幸いして僅かばかり涼しい事を竜胆はよく知っていた。竜胆はいつものように好物の豬肉饅頭を両手に持ち、陽炎の羽のような布を掻い潜って峠の部屋を訪れた。


 峠は食事や睡眠や性行為に興味が淡く、竜胆は下仕えの一環としてよく食べ物を持ち込んだ。阿片を吸った後には蕩けるように眠り、否応なしに上限より多く性感を与えられる環境では、竜胆が心配するべきは食事だけで事足りた。


 よく晴れた空から降り注ぐ太陽光が、上階の洗濯物の間にちらついて木漏れ日の様相を現していた。彼は変わらず寝台に片足を上げ、呆と空を見上げていた。竜胆には気がついていないらしい。

 何処からか鳥の囀る声がした。と、思えば、峠のもとへ数羽の小鳥が舞い降りる。彼は捕まえるでもなく、かと言って追い払うでもなく、それを自身の肩や指先に留まらせては小さな生き物の一挙一動を眺めているのだった。


 寝台の上を見れば、呪符が数枚、無造作に放られている。そのうちの一枚、朱筆で酉、と書かれた真上に真っ直ぐ簪が突き立てられ、寝台に磔にされていた。簪の先端についた薄布の飾りが風に吹かれて揺らめいている。その傍らを小鳥が跳ねる。


 定期的にここを訪れるまじない師から、峠がいつもあの呪符を数枚買い上げている事を竜胆は知っていた。峠は客をとって払われた給金を、大半は阿片へ、残りをあの鳥寄せの呪符へ、残った一握りの貨幣をその身を飾るものへと注ぎ込み、生きるために必要なものへは僅かたりとも使わないのだった。


 暫く、竜胆はその様子に見蕩れていた。峠は本当の姿ではきっと小鳥で、友人達と束の間の談笑に耽っているのではないかとさえ思えた。しかし、その幻想は一蹴された。


 突風、竜胆の傍らから白い猫が飛び出した。呪符が部屋に舞い上がる。薄汚れ灰味を帯びた猫だった。

 竜胆があっと声を出す間もなく、猫は峠の部屋で戯れていた一羽へ向けて真っ先に飛び掛った。

 呆気のないものだった。薄茶の羽根が舞い散るのを茫然と立ち竦んで見ていた。真っ赤な絨毯へ血が滴ると、何も無かったかのように汁気を吸い込んでしまう。竜胆が我に返ると同時、猫は暴れる小鳥を咥えて竜胆の脇を走り去った。部屋へ呪符と羽根とが降り積もる。


 それを眺める峠は変わらず、何の表情も浮かべていない。小鳥達は跡形もなく飛び去った。死んだ仲間の羽根だけを残して。


「……ああ、ロンか。悪いね、気が付かなかった。何用かな」


 怖いほど感情の動かない峠を目前に、……否、その感情は最早能動するのを諦めてしまったように瞳の中に横たえていて、竜胆は途端に峠が憐れに思えてきて仕方がなかった。思わず駆け寄って、もう自分より華奢になってしまった峠の胸へ抱きついた。窓から仰け反るような形になった峠は長い髪を窓枠から垂らしながら、竜胆の背を撫でた。


「どうしたロン、大きくなっても御前は甘えただなあ。……御前の好物を落としたよ、……何があった、そんなに悲しんで」


 その手は落ちそうな自分を縋らせるのではなく悲しむ弟分を宥める優しさで、竜胆はこのままこの手を離しても彼がそれを咎めないだろう事が酷く恐ろしかった。床に転げた蒸饅頭がぷうと溜息をつき、その声に峠が珍しくけらけらと声を出して笑った。






「タオ、」

 

 竜胆の呼びかけに、彼は緩慢な視線を寄越した。

 阿片の煙で充満していた部屋から、泥々と重い煙が階下へ流れ落ちる。垰は竜胆が来たことに少なからず驚き、化粧をしていない目を僅か見張った。


「ロン、……今日、御前は仕事だと思っていたよ」


「仕事抜けてきた。これ、めし」

「まったく……其んな事、また老潘ボスに折檻されるよ」

「平気、おれは丈夫だから。タオは気にしなくていい」

「そういう問題じゃあないよ……。尤も……今の御前なら其の気を出せば老潘くらい片手で伸せるだろうけど」


 竜胆は自分の豬肉饅頭にかぶりついたまま、不思議そうに首を傾げた。その様子を見て、峠は物悲しげに笑う。


 竜胆はその後目間苦しく成長し、身長は六尺と二寸、体重は二十五貫もある大男となった。

 その体格では最早迚も身体を売るには似つかわしくなく、かといって頭の鈍い彼に店の算盤を弾くことも儘成らず、仕方なしに用心棒のような真似をして店に置いて貰って宿と飯との面倒を見て貰っているのだった。


 峠の言う意味が分からないのだろう。竜胆はきょとんと目を丸くしたまま、彼へもう一つの饅頭を手渡す。姿こそ大男なれど、中身はまだ子供のようだと峠は思えて仕方なかった。

 自分の頭が冴えないことを、竜胆もよく自負していた。

 峠は竜胆の差し出す饅頭を受け取ると、少し齧りながら寝台へと背を凭れた。食欲は無かったが、自分を思って買ってきたとなれば無碍にはできない。


「タオ、それってどういう意味?」

「どうもこうもないさ。御前が店の前でとっちめる連中と老潘、どっちのが弱そうかようく考えてご覧よ」

「ううん……老潘」

「よく考えろと言ったのに」

「だって老潘の鞭は痛いし、逆らうともっと痛くされる。あいつらは脅かせばいなくなるけど」


 峠の足元の寝台に腰掛けて饅頭を頬張りながら、竜胆は当たり前のように言った。嘗て刷り込まれた経験が彼の中で更新されていないのだ。支配人には迚も敵わないと思い込まされている。


「……そう。……そうだったね」


 峠は竜胆の唇の端が切れているのに少し触れながら、蜘蛛の巣が破れるように静やかに言った。


 峠は意見を通そうとはしない。

 彼もまた、それが無駄ということを強く刷り込まれていた。二度と逆らおうとは思わない程にそれは強固に、念入りに、硬く塗り固められていた。今では諦めばかりが先に立ち、ただ煙を吸って時間を浪費しては日々を過ごす。その間に、気が付けば峠はもう小官として薹の立った年齢となっていた。今では客も少なく、休みの方が多い。

 仕事が減り手取りが半分以下になったとしても、阿片の量は少しも減らせないどころか増える一方で、他のものを買う余裕など少しもなかった。それに、他の何を欲しいと思うことも、もう無かった。


「……ロン、またこの辺りのものを適当に見繕って質に入れてきてくれないか。それでいつもの紅と芥子けしを買えるだけ──いや、……売値の半分は御前にやるから」


 竜胆は僅か狼狽えた。峠は客が減って阿片を買う金が足りなくなると、若い頃客に貢がれた簪や反物、金細工、玉など金になるものを質入れし、金を工面するようになった。峠は幼い頃に纏足を施されていた上、最近は脚が弱り立つことも儘ならない。質入れと買い出しを竜胆に言いつけた後は、決まって使い走りの償いのようにその売値の一部を与えた。



「でも……もう、タオのものが無くなってしまう。己が代わりに……」


 おずおずと、竜胆は殆ど口にしたことのない反論をする。

 自らの懐が潤う事より、峠を彩っていた身の回りのものが瞬く間に失われていく事の方が遥かに耐え難かった。


「佳いよ、……もう佳いんだ。それに御前の給金ではきっと買えないさ。もう残りは幾らも無いからそれまでに、ね……頼むよ」


 竜胆はおずおずと頷いた。それが峠の身体をひどく蝕んでいる事を竜胆もよく知っていた。しかしそれ以上に、薬効の切れた時に悶え苦しみ、脚が痛いと悶絶のたうつ様子が可哀想で見ていられなかったのだ。

 彼が了承したと見て、峠は安心したように僅かに笑んだ。痩せて薄い目の下に浅い皺が寄った。


 謝るような口付けを竜胆の厚手の唇に受け止められ、峠は心地良さげに目を細める。熱を帯びていく口吸いに、竜胆が峠の細い腰を引き寄せた。視界の外で、かちり、と煙管が机に置かれる音する。


 口を離され、くらくらした竜胆は寝台にへたり込む。目を回しながら膝立ちになった峠を見上げると、彼の解かれた髪の毛が炎の滝のように背中から流れ落ちていた。


 竜胆を見る目が屁泥のように酷く澱んでいる。深く阿片に酔っているようで、着物が着崩れている事にも気付いていないのか、気にならないのか。露出した肩や胸からはごっそり肉が削げ落ち、骨が薄い皮一枚通して剥き出しになっている。


「……期待、したかい?」


「……した、」


「我はまだ、御前を抱く資格があるかい?」


「いい、……タオが、いい」


 可愛い子、と同情するような声音で峠は言った。痩せた指が竜胆の身体を這う。産毛を逆撫でられる愛撫に竜胆は喉の奥で声を殺して喘いだ。何時か客に黙っていろと言われて以降、竜胆は声を出そうとしない。結い上げられた竜胆の首筋をそうと食むと、顎の骨から竜胆の奥歯が不協和音を上げる音が峠の耳へ直接伝わってきた。


「……ロン、我慢せずとも」

「やっ……だ、だって、……己、声、がっ……大人に……ッアぁっ!」


 不意に耳の内側を舐られ、竜胆は上擦った声を上げた。歯の間に峠の指が滑り込む。腰骨が甘く砕けそうに痺れ、滲んだ視界で峠を見上げる。


「ふっ、ぉあっ、…たお、やめっ……ぇうっ……」

「うふふ、……どうか指を噛み千切らないでおくれよ」


 ざらついた塩辛声が竜胆の髄膜を撫でていくようだ。言葉に反し、その声色は食い千切っても構わないと冗談めかしているように愉しげであった。


「ん”、ぅっ……ぁ、ぁう……う……」

「矢張り、後ろでなければ駄目?」


 緩々と繰り返し頷く竜胆に、峠は蕩けた目の奥に同情に似た後悔を滲ませる。

 峠は仕事が苦痛とならないように、丁寧に念入りに後ろの扱い方を仕込んだ。

 結果、確かに竜胆は仕事で客と寝ることに苦痛を伴わなくなった。代わり、その子は女を抱くことは疎か、前だけで達することも儘成らなくなってしまった。

 だから峠より大きくなって尚、竜胆は峠を頼って慈悲を乞う。


 自分に芥子ケシがなければ生きていかれないように、竜胆を自身から突き放すのを峠は躊躇っていた。


 体格差と足の不便で、峠は竜胆の全てに容易に手が届かない。それを竜胆はよく了解していた。


「己がする、から……タオは寝ていて、……任せて」


 寝台に身を横たえた峠に跨り、竜胆が後ろを慣らしながら峠のものを咥える。煙の酩酊の為か幾ら支えても寄る辺ない其れを刺激しながら、伺うように峠の顔を見上げる。


「ん……御免ね。我も存外、もう駄目なのだろうかね。ロン、我も手伝ってあげるから一緒に……ロン?」


 峠の何気なく口にした呆気のない諦めの言葉に、竜胆は俯いて肩を震わせていた。驚いて峠が身を起こして顔を上げさせれば、息を詰まらせながら竜胆は泣いている。


「ど、どうしたの。済まなかった、そんなに御前が気にするとは……」

「違う、違うんだ……タオ、そんな事言わないで……」


 子供のように大粒の涙を零しながら縋る竜胆に、峠はまだ彼が小さかった頃の事を目の前に蘇らせていた。老潘にぶたれた、仲間にからかわれた、酷い客がいた、そう言っては竜胆は泣きながら峠に縋りついた。それをどうする事もできない峠は、ただ慰めながら頷いてやる事しか出来なかった。


「いなくならないで、タオ……」


 何故なら自分には現実を変える力は何一つとしてなく、自分の事さえ満足に自由にできない。風切り羽を切られ、籠に囚われた鳥なのだから。

 峠は慰めの言葉に詰まり、自分に縋り付く子供の前髪を指で梳いていた。その子が落ち着いて微睡むまで、何時までもそうしていた。




「……タオ、……己と逃げようよ」

「嗚呼、……また其んな事を言って我を困らせるの?」

「冗談で言っているんじゃないよ、ねぇタオ、ちゃんと聞いて」

「んん、止めとくれ。我は、……御前には重すぎる荷物だ。我なんぞ、持っていかなくていい」

「そんな事ない! 峠がとても軽いこと、己はよく知ってる。己が抱いて走るよ、そうして遠くに、」

「違う、違うよ、そう云う事じゃあない、御前は……一人で行かなければいけない、……御前なら何処まででも、」

「厭、厭だ、己はタオがいる所に居る、タオがここに居るなら己もここにいる」

「止めとくれよ……我儘を言って困らせるな……」


 峠はそれ以上言わせないと言うように頭を掻き乱した。竜胆の隣に俯せたまま、饐えた煙をくゆらせる。

 無くなりそうな灰吹きを見て、峠は次の丸薬を取ろうと力の抜けきった手を伸ばし、それをぼとりと床へ取り落とした。それが最後の一つであったのを見て、緩慢に竜胆を見上げる。継ぎ足しに継ぎ足しを重ねて舌は縺れ、目は澱んだまま焦点が定まらない。


「ロン、……ロン、早く次のを買ってきてお呉れよ、そこいらのもの、どれでもいい、みな持って行って……はやく、」


「……タオ、少し吸いすぎじゃあ……」

「四の五の言うな! 分からないか――ああ、違う、嗚呼……我は御前を怒鳴りつけたくないんだ……。ねぇ、頼むよ御願いだから、行って来て……」


「……。分かった」


 渋々頷いて、竜胆は起き上がった。峠に指示されたものを二、三手に取り、後ろ髪を引かれながら部屋を後にする。


 峠はどっと寝台に倒れ込んだ。最早指の一本も動かしたくはない。呼吸のため持ち上げる肋の格子さえ重く、身を起こすにも骨が軋んで難儀だった。竜胆の去っていった出入口を目玉だけで見遣ると、そこは原型を残さないほど絡み合って歪み、今更出られそうにない。閉じ込められた、と渇き切った笑いを上げた。


 阿片の味を知ったのは、し損じた足を纏足にする痛みを紛らわすのに丁度いいと仲間が煙を吸わせたのが最初、だったか。そうして痛みに苛まれる度に使ううち、それは鎮痛のみならず夢と現実の混ざった世界へ逃避する食事より大切なものに変わっていった。


 竜胆は大人になってしまった。巣立ちを悟った若鳥になった。

 峠は生を嬲り尽くした。骨は隙ばかりで地に降りるには痩せすぎた。


 然れど、焦がれた空へ舞い上がるにはまだ重過ぎる。


 遠く、鈴――、鈴――、と鈴の音がした。呪まじない師が来た合図だ。峠は重い首を擡げた。定期的に訪れるそれは芥子ケシの樹脂よりも峠の楽しみにしていたもの。

 がらんどうの部屋を見渡す。もう金になるものはない。無くなったならば、もういよいよ後はない。元より望まれれば何でも差し出すつもりであった。


「応、……居るんだろう、其処へ」

「──居るさ、お得意さん」

「今日は愛い弟が居らなんだ、我もとても歩きたくない。此方へ来てやってくれるかい」

「ええ、ええ。弥速いやはや……アタシが情人の部屋に手招かれるとは思わなんだわ……」


 長い漢服を引き摺って入ってきたまじない師は顔を黒い布で覆い隠し、年齢どころか性別さえ察しがつかない。峠は見慣れているのか別段反応すること無く、僅かに微笑みさえした。


「つい先刻、御前様の弟分が金を握りしめて歩いていったのを見たがね」

「我が走らせたのだ、芥子ケシを買ってこいと……」

「ほう、そいつは可哀相なことだ」


 最後の丸薬を大きな灰受けに詰め込み、火で炙った。もう、と煙が立ち、窓の外に流れ落ちていく。


「貴方はもう存じておられようが、何にせよ我はもうここに居られない」

「応、そうだろうとも」

「頼んでおいたものは間に合ったろうか」

「間に合ったとも。只、見たところ代金が……」

「……なんの、まだ在るさ」


 峠の言葉に、呪い師は須く納得したようだった。呪い師の幾重にも重ねられた布きれの下から大判の呪符が差し出され、それが峠のごつごつした胸の上に置かれた。そのまま、呪い師の長い指が、峠の腹を裂くように臍まで線を引く。


「まだ足りないか」

「……幾らか」

「そうか……仕方ない、弟の手から不足分を取って呉れ」

「承知した、なれば宜しい」


 峠は窓の外を見やった。額縁に収まった眺めるだけの空を。






 竜胆は勇み足であった。竜胆は初めて峠の言いつけを破った。預けられた物品で得た金で阿片を買っては来なかった。彼はそれを懐に納めたまま、峠を担いで姿を消してしまう算段であった。

 というのも、質屋へものを持ち込む道中、不穏な噂を耳にした。顔の主も知らぬ囁き声に拠れば、この堆く積み重なった違法建築の城砦は近々取り壊されるらしい。それを元締めだけは知っているが、住民には直前まで知らされない。来るべき移住に備え、稼ぎの悪いもの、使えぬ者の首切りは既に始まっていると。


 そういう事なら、二人して切られる側の人員であることは明白だった。それは同時に好都合だった。これを機に地上へ出て自分は働き、峠へ正規の鎮痛剤を買ってやる。人並みの、幸せな暮らしができるのだと信じた。阿片を買うには心許ないこの金も、下の世界で生活を始めるには余りある。


 部屋へ戻る時、時折峠が呪符を買い付けている呪い師を見かけた。黒ずくめで顔を隠した死神のような様を見て覚えた、根拠のない悪い予感に、竜胆は理由も分からないままにざわつく胸を押さえながら峠の部屋に戻った。


「タオ! ここを出よう、話を聞いた、己もタオも追い出されてしまう、その前に──タオ?」


 部屋ヘは、誰もいなかった。何も無かった。竜胆の持ち出した最後の私物はたった今金に化けたばかりで、窓際へ置かれた煙管と、寝台に突き立てられた簡素な簪、それに磔にされた呪符が、大きく開け放たれた窓から吹き込む風にはためいていた。平然な顔をして、只いつものように小鳥達が屯していた。


 ぞ、と嫌な予感が膨れ上がる。竜胆は慌てて窓際へ駆け寄ると転げ落ちそうになりながら土足で寝台に這い上がり、眼下を見下ろした。荒々しく弾かれた簪が、カツン、と音を立てて転げ落ちた。目の回るほど遥か下に小さく構える地表に、峠の背中はない。地表へ吸い込まれていった簪が音もなく転げた。


 その時、背後で鳥の鳴く声がして竜胆は弾かれるように顔を向けた。瞬間、嬲る羽音と風圧に竜胆は顔を庇う。見逃すまいと追うように目を向ける。


 彼の傍らを何者かが飛び去った。


 一羽、赤銅色をした細身の──鷺が、細い翼を目一杯に広げて空へ舞い上がっていった。竜胆の髪をさらった風が彼の手から数枚の紙幣を抜き去り、錐揉みしながら人造の渓谷へ消えていく。空の彼方へ消えていく鷺を追うように、同色の小鳥達も跡形もなく飛び去った。


 竜胆は途方に暮れ、鷺が見えなくなるまでそれを見送った。やがてこの部屋にあった何もかも、自らの幻だったのではないかと思い始めた。煙に巻かれた──否、それさえも幻影だったのではないかと。


 部屋を見渡すと、これ程まで視界の晴れたこの部屋は初めてのような気がした。仕事に戻らなければ……と遠く思った側から、叛逆するに難くない、と思い直し、地上ではきっと力仕事が捗るだろう、と期待さえしながら、彼は部屋から立ち去った。

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紫煙に捲かれて蒼空を仰ぐ @Haruca

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