第17章 酒の谷唄子

第十七章 酒の谷唄子



 唄子は……。

 日輪学院の建築中のビルで争っているものがいる。

 駐在から連絡があった。駈けつけた所轄の品川署の刑事は驚いた。

 渋谷の百軒店で麻薬所持の疑いで逮捕された。服飾デザイナーの大津健一の妻がいた。職質をかけられて、その場から逃走した妻。というよりタレントの酒の谷唄子がいた。人気タレントだけに、ひそかに署に同行をもとめた。


「唄子さんは警察……」

 それ以上のことは、キリコにもわからない。

「よかった。怪我はなかつたのね」

「あれって、なんだったの。なにがなんだか、わたしにはわからない」

 美智子はベッドから下りた。床がひんやりとした。立ち上がった。ゆっくりと注意して歩きだした。なんてことはない。いつもと同じように動ける。


 唄子は――警察。取り調べ室。

 マスコミにはまだ唄子の任意同行はかぎつけられていない。……毎日テレビでは唄子のことは、取りあげられている。だが美智子との関連は気づかれていない。


 唄子は……釈放された。拘束をとかれた。

 唄子は美智子に電話かけた。親身になって、体をはって筋ものから守ってくれた美智子。

「わたしは、もう駄目」

 オチメだ。がらがらと、いままで築き上げた地位が、人気が崩れる音がきこえる。美智子にはひとことお礼がいいたかった。



「美智子。わたしだめみたい」

 自由が丘の自宅。美智子の部屋。夜。ディスプレイに表示された発信者は「唄ッピー」。いまごろなにかしら。不安は的中した。拉致されたあとのPTSD。唄子はまだ立ち直っていない。警察からは釈放されていた。麻薬の陽性反応はでなかったのだ。

「なにいうの。唄子さん。そんなこといわないで」

 せっぱつまった声。低く、かすれて、途切れがち……。不安にさいなまれながら、電話している唄子の姿が美智子の脳裏にうかぶ。

「いままで……いろいろ世話になったわ。ありがとうね」

「唄子!」

 かかってきたときと同じように、とうとつに音がとだえてしまう。返事はもどってこない。遠くですすり泣きの声がした。まだ……ケイタイを手にしている。電話は切られたわけではなかった。

「唄子。唄子。唄子。返事して。電話にでて。おねがいだから、電話にでて」

 唄子が泣いている。すすり泣く声が聞こえる。かすかに断続している。ケイタイの奥でする。唄子が泣いている。どうかしたのだ。なにかしようとしている。なにか不吉な予感。……死ぬことでもかんがえているような――胸騒ぎ。かすかに、かすかに猫の鳴き声がする。鈴が鳴っている。

 サイベリアンのモーが鳴いているのだ。ねこの鳴き声は同じようにしかきこえない。でも、あの鈴の音ははわたしが神戸の土産にかってきてあげたものだ。土鈴のやさしい音だ。金の鈴とちがいこころに沁みるやさしい音がする。

 そして、美智子は恐怖にふるえだした。

 モーの餌代にも事欠く。といっていた。

 夫の健一に貢いでしまったらしい。っうか、浪費癖のある彼だから……。唄子も一緒に遊んでだのだから……。まあ、しかたないのかな。クラブて絶叫していた。踊りまくっていた。麻薬やっていた。それを暗示する映像。TVなんどもながされていた。くりかえされる同じ映像。麻薬常習者と刻印を押されているような映像。

 唄子、かわいそう。苦しんでいる。まぁしかたないのかな。夫婦のことはわたしにはわからない。

 死ぬのならモウと……。ダメ!!  美智子は唄子にきこえるように絶叫した。

「やめて」


 

 唄子を呼びつづけた。

 おねがい。もういちど。いちどだけでもいいから声を聞かせて。

 美智子はガレージに走りこんだ。部屋の固定電話で隼人に連絡した。ケイタイはそのまま切らずいた。BMWを運転する。ハンドルを握っているじぶんがシュールだ。他人のようだ。ここにいるのはわたしだ。でも部屋をでてから、ここにくるまでの記憶があいまいだ。夢遊病みたいな心で、車を運転してきた。大井を過ぎ、渋谷を過ぎた。

 青山の霞町に向かっているのはわたしだ。

「唄子。唄子――」

 もういちど、声を聞かせて。呼気は聞こえる、ようだ。モーの鳴き声はする。唄子のかわいがっている。サイべリアン。モーのニャアというかすかな鳴き声。モーが鳴いていれば。唄子はまだ生きている。管理人のオジサンがまっていた。

「百子さんがもう到着しています。屋上にいきました。酒の谷さんは部屋にはいませんでした」

 よかった。百チャンがもうきている。さすがクノイチ48。ずっと陰ながらわたしたちを見守ってくれている。

 エレベーターからトビダシタ。三段ある階段。駈けあがった。高層ビルの屋上。

 手すりに足をかけて唄子がいた。百子がいた。唄子に近寄ろうとする美智子の肩に手をかけた。百子が首を横にふっている。刺激するのはまずい。そういっている。モーが唄子の足もとで鳴いている。唄子はどうみてもキレている。精神状態が壊れている。じぶんが、なにをしているのか、わからないのだ。少し前のわたしのように。混乱しているなんてもんじゃない。心が壊れ、ブッ飛んでしまっている。

 まだ、片足だけは、屋上の床を踏んでいる。唄子の足にモーが背を押しつけた。甘えている。背をこすりつけて甘えている。あの足が床を離れたら終わりだ。唄子は夜の闇にすいこまれる。落下する。唄子の体が手すりから離れたら――。美智子は残酷で不吉な想像に身ぶるいする。

「唄子。唄子。楽しいことかんがえよう」

「美智子。わたしもうだめ。死ぬ」

 唄子の体が闇の中を。ビルの側面を落ちていく。イメージ。階段を駆け上がってくる。靴音。隼人とキリコのものだった。

「唄子さん。霧降の『山のレストラン』で北米料理ごちそうするわ。モーと一緒に食べない。虹鱒のチーズ焼きおいしいわよ。これが絶品なんだ。モーちゃんも魚すきでしょう。一緒に食べましょうよ」

 話ながら――。キリコが手すりに片足かけた唄子に。近寄っていく。

「だめ。コナイデ。わたし飛び降りるから」

「虹鱒よ……。虹鱒……よ。虹鱒」

 唄子はすでに屍衣をまとっているようだった。体からあのハツラツとしたオーラが消えていた。屋上を照らす灯りのなかで死んでいた。唄子の足が床を離れた。

 鞭だ。

 キリコの金属鞭がとんだ。

 鞭が唄子の足にからみついた。

 三節棍。

 百子が投げた。唄子の腕にからみついた。

 そして片方の端は鉄の柵に固定されている。

 スゴイ技だ。鞭と三節棍が唄子の落下を止めた。

 唄子を手すりに固定した。

「モウダメ。モウダメ」うわ言。興奮している。

「唄子。もう大丈夫。ワタシタチ、みんなついるから」

「モウ……ダメ」

「ほらモウダメなんかじゃない。モーちゃんもいるじゃない」

 美智子は唄子をだきおこした。

「わたしが直人に死なれたとき、ずっと悲しんでいたあのとき。唄子が励ましてくれた。唄子が助けてくれた。こんどは、わたしがなんとかするから、また一緒に映画の仕事しょう」

 美智子は唄子をだきしめた。

「あきらめないで。死ぬなんてかんがえないで」

 モーが唄子に体をすり寄せた。唄子がモーをだきあげる。ほほを寄せて泣きじゃくった。


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