第10話 愛の賛歌。

第十章 愛の賛歌


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 翔太郎は美智子からのメールを読んでいた。翔太郎は駐車場の隣の? 部屋に閉じ込められていた。コンクリートの打ちっぱなしだ。建築中のビルなのだろう。ときおり車の発着音が聞こえてくる。イメージしたとおりの状況だ。だから、拉致された場所がどこなのか、気にならなかった。彼らは翔太郎を部屋に閉じ込めた。

 なにも訊かなかった。拉致するだけがいまのところ目的で、それから先の指令はうけてない。逃亡の方法をあれこれかんがえることもあるまい。

 美智子のメール。

 翔太郎ジイチャン。

 わたし悲しい。直人とはずっとずっといっしょにいられると思っていた。わたしは直人のワイフとなって――。ジイチャンと智マミみたいに。小さな田舎町でオバアチヤンになるまで。いつもそばにいられると思っていたのに。

 いつも直人のそばにいられるように。芸能界は引退するつもりだった。すべてをすてても悔いはない。そう思っていた。

 直人のこと好きで、好きで、どうしょうもないほど好きだった。

 直人と生活を共にして、赤ちゃん四人くらい産んで、育てて。

 わたしって、ほら、不器用だからうまく育てられるかな?

 ばかだね。まだプロポーズもされてないのに、そんな心配していた……。

 だってね、直人と話していると、ずっとずっとむかしからいっしょだった。そんな気もちになってくるの。わたしってシーラカンスなのよね。すごく古い女なんだ。……とわたし的にはいつも思っているの。生きた化石みたいなのよ。シーラカンスなの。

 ジイチャンは幸せだね。ずっと、いつも智マミといっしょなんだもの。

 あんなに直人のこと好きだったのに。愛していたのに、それをまだいってなかったんだよ。愛してる。なんていわなくても、こころはかよいあっていたもの。

 言葉が必要ないほどはじめから愛しあっていた。こんなのって、おかしいのかしら。アイコンタクトの瞬間。一目で愛の旋律が起きた。もう……ポオッ……としてしまつたの。

 うれしかった。わたしの愛しい人がここにいる。ここに現れたって感じがした。霧降りの「山のレストラン」だった。あの時のジャズは「枯れ葉」だった。シャンソンからアレンジしたのに。ジャズで一番人気の曲。すばらしい演奏だった。

 ジイチャン。

 いつかわたしのほうが先に死ぬようなことがあったら。わたしの日記やメールをベースにして。「直人と美智子の愛の物語」を書いてね。

 

 このメールを受け取ったときだった。美智子が自殺するのではないかと。おそれて……自由が丘に駆けつけたのは。人を愛し過ぎる。恋人のために死んでもいいと思う。

 そう思いつめられる。わが家の家系なのだろう。智子との愛をおもいなら……。美智子のいる自由が丘にいそいだ。そしていま、またもや不穏なものを感じて駆けつけようした。それなのに、拘束れてしまった。


 翔太郎は鹿沼の「マヤ塾」が炎上したのを知らない。

 鬼族の襲撃で全焼壊滅したのを知らない。

 智子が命に代えて――夫のCDを守ったのを知らない。

 理佳子が母の救援に駆けつけたが、手遅れだったことを知らない。



 鹿沼の「マヤ塾」が鬼族の襲撃で、全焼してしまった。

 隼人は直人の部屋に鹿沼からもどった。

 同じ階に内閣府直属の特殊犯罪捜査室がある。室長の黒髪秀行とは連絡が取れる。麻薬の低年齢層への蔓延を恐れた政府が創設した。関東信越麻薬取締官事務所とは別にこの機関を設けた。新世紀に入ってからだ。

 隼人は持ち帰った麻耶翔太郎のCDをたちあげた。CDには翔太郎の行方を捜す手掛かりとなるような記載はなかった。

 翔太郎が生涯かけて追究した日光の裏の歴史。鹿沼の裏の歴史。勝道上人と日光忍軍が鬼神と戦った履歴が綿密につづられていた。隼人の先祖のことものっていた。翔太郎の行方は隼人たちの必死の探索にもかかわらず、わからない。

 直人のCDには美智子への個人的な思いがはいっていた。二枚のCDをその夜隼人は読んだ。『美智子さんに捧げる百本の薔薇』。直人の詩のように美しい文章がつづられていた。そのパートだけプリントアウトした。

 隼人は明け方になってテレビをつけた。渋谷の百軒店の路地で。服飾デザイナーの大津健一が逮捕された。と報じていた。

容疑は麻薬取締法違反。同伴していた。妻。女優の酒の谷唄子は。任意の同行を拒みそのまま街の雑踏のなかに消えた。とつづけた。

 日本の芸能界の知識のない隼人はピンとこなかった。マスコミはたいへんなさわぎになっていた。ともかく人気抜群の唄子。その夫が路上で警察に連行された。そして彼女は行方不明。

 隼人は直人の詩をプリントアウトしたものを美智子の前に置いた。美智子は椅子から身をのりだした。

「なにかしら」

「それから、これも。直人の部屋にありました」

 婚約指輪を偶然直人の机の引き出しで見つけたことにした。どうやら、直人は表の姿しか美智子には見せていなかった。表の顔はプロのカメラマンだ。あたりまえのことだ。秘密麻薬捜査官の身分はかくす。身分は秘密にして置くことになっている。守秘義務だが、恋人にも身分を明かすことができないで辛かったろう。

「直人は霧降からもどったらわたしにプロポーズするきだったのね。マジなんだから。わたしはとっくにその気でいた。早く結婚したかった。わたしは彼の妻であるとおもっていた」   

 美智子は婚約指輪をとりだして指にはめた。

「直人。ありがとう。ずっと待っていてよかった。これからも、いつまでも直人を待ちつづけるわ」

 美智子のようすがおかしかった。もう会うことはできない。どんなに思っていても、会うことはできない。ようやくあきらめかけていたのに、心ないことをしてしまった。と……隼人は反省した。

 直人のエンゲージリングわたすべきではなかった。

 直人が美智子さんに捧げた愛の詩。機会をみて、ようすを見てわたすべきだった。直人への想いに美智子は涙ぐんでいた。ようやく忘れかかけていたことを思い出してしまったようだ。涙がはらはらとおちてきた。人前では見せることのできない悲しみ。スターの顔ではない。

 家だからみせることのできる悲しみのなみだだった。隼人はなにもいえなかった。慰める言葉。悲しみを癒す言葉。励ましの言葉をかけることができなかった。

このとき、二階の階段から女性がおりてきた。ジーンズに、襟に毛皮のついたハーフコートをきていた。テレビで見たばかりの酒の谷唄子だった。

「ダメじゃない、唄子。部屋にいて」

「こちら……あらぁ、直人さんにそっくり。これって、どういうことなの」

「だからぁ、いったでしょう。直人の従弟なのよ」

「いいなぁ。わたしはとうぶんダーリンと会えないな」

 隼人が目礼をかえす。

「酒の谷唄子です。美智子とおなじバンビ事務所に所属していますの」

という言葉がもどってきた。

「わたしのセンパイなの。トラブルにまきこまれてプレスの人たちに追いかけられているの……」



「わたしは、やめられなかった」

 唄子は大麻や合成麻薬をやっていたことを告白した。

 誰かにきいてもらいたかったのだろう。唄子は涙ぐんでいる。麻薬に溺れたじぶんを哀れんでいる。夫の健一が目の前で刑事に強制同行をもとめられた。それをみて逃げたのだという。

 隼人は唄子のわたし『は』という言葉に異様なものを感じた。たった一言の助詞に隼人はこだわった。あなたは止められたが。わたし『は』止められなかった。といっているような気がした。

 あるいは、思い過ごしかもしれない。そのあなたが、話し相手。目前にいる美智子をさしているような気配。不安になった。美智子の顔を見ながらの会話だった。隼人は胸騒ぎがした。

「警察に出頭したほうがいいわ」

「それより、お金貸して。ぶらりと買い物にでたいの……。ATMをつかうと足がつくものね」

「出頭したほうがいいって」

 美智子が金を渡す。唄子は止めるのも聞かずに出ていった。美智子の説得も。願いも聞き入れられなかった――。

 その日の夕暮時。部屋には、美智子と母。隼人とキリコがいた。

「美智子、少しよこになったら」

 母の里恵がやさしくいう。隼人は唄子の言葉について美智子にといただしたかった。

「そうするわ、みなさんごめんなさいね」

「隼人――ダメだよ。美智子さん。まだ直人さんに死なれたショックから完全にたちなおっているわけじゃないよ。思いださせちゃった」

 とキリコ。「ごめんなさい」隼人は里恵にあやまった。

「いいのよ。この三年間もっとひどかった。隼人さんがきてからずいぶんと元気になった。撮影にさしつかえないなら、いくら悲しんでもいいのよ」

「美智子にとったら初恋でしたものね。オフィーリアのように……。わたし美智子が霧降の川に身を投げるのではないかと心配だった」

 里恵はつづけた。吐息をもらした。鹿沼の母の死も美智子に関係あるのではないか。と。悩んでいるのかもしれない。

 美智子は直人を忘れられない。恋しい人の面影をまだ追い求めている。亡き恋人を想いつづけている。その愛の深さがすばらしいと隼人は思った。

 人を愛するこころの切なさがひしひしとつたわってくる。隼人もミレイの描いたオフィーリアの狂死の絵は。なんどかバビルゾン派の巨匠の画集などで観たことがあった。水面に揺らめく花々に埋もれて……。入水自殺をした美しいオフィーリアが流れていく。

「すみません。直人の残したエンゲージリングや詩を不用意にわたすべきでなかつた。余計なことをしてしまった」

 

 テレビは唄子の逃避行を追いかけていた。リポーターはまくしたてる。唄子の出生から今日までの履歴をあらいざらいまくしたてている。どのチャンネルを開いても唄子のことが話題となっていた。

 それでも、唄子の潜伏先はわからない。あれから、どこにいつたのだろう。

 芸能界の、スキャンダルの蜜に群がるプレスの蜂。いたるところをとびまわっている。

 唄子の所属事務所では美智子の受賞でもりあがっていたのに。

 それが反転した。

「事務所側では。酒の谷唄子が薬物依存症だったということに関しては。まったく認識がありませんでした」

 渋い顔で飯田社長がコメントしていた。

 唄子の故郷西宮。親たちが健在だ。すわ、ふるさとに潜伏かと――。西宮の城山。高級住宅地区にもレポーターとカメラマンがおしかけた。唄子の同級生にもインビューしている。取材競争がさらにエスカレートしていく。その狂乱ぶりががテレビの画面からもよみとれた。



 キリコが階段の踊り場で叫んだ。叫びながら階段を駆け下りてくる。ただごとではない。足音。ただごとではない。叫び。

「美智子さん下りてきた?」

 里恵と隼人は思わず階段を見上げた。

「たったいままで窓に影がうつっていたのに。いないのよ」

 まばゆい部屋の光の中で、キリコの顔が不安にゆがんでいる。

「裏階段だ」

 外階段から庭に出られる。隼人がカーテンを開ける。

「ほら……滝をみている」

 そびえたつミニチュア―の滝。直人への愛の思い出。眺めつづけてきた滝。夕闇にはまだ間がある。蒼穹に広がっていた白雲が茜色に染まっている。淡い光の中で美智子が滝を見ている後姿が庭に在る。

 その後ろ姿は、ハンマースホイの静謐な絵のなかの人物像のようだった。妻のイーダの後ろ姿を繰り返し描いた画家。その筆が生みだした傑作のようだ。

 遠目にも美智子の、うなじから肩にかけての哀愁ある風情か見える。美しい。さすが女優。後ろ姿のプロポーションだけでもひとの心を惹きつける。隼人はしばしみとれていた。

 まだ着替えはしていない。部屋を出たときのままだ。黒とグレイの毛糸で編んだスエタをきている。美智子のお気に入りのマックスマーラの太めの毛糸仕様のざっくりとした感じのスエタだ。

「よかった。びっくりしたよ。きゅうに影も形もみえなくなったのだもの」

 美智子の部屋はキリコの部屋と向かい合っている。ガラス窓になっている。そこから、美智子の部屋が見える。美智子の存在をたしかめられる。庭にある人工の滝には直人への想いがなまなましく生きている。その滝を静かにみているはずの美智子が――。唐突に動きだした。

「やっぱオカシイよ。外に出てくよ」

 キリコの不安と危惧は、この後、現実の展開を暗示していた。


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