第7話 裏鹿沼

第七章 裏鹿沼



 鹿沼。日光の隣町。舟形盆地の低地にある街。

「マヤ塾」。先祖から受け継いできた剣道師範では食っていけないので、学習塾にした。塾長の翔太郎はいまではほとんど、将来に対する夢はみなくなった。ただただ、現実を静かに眺めて妻の智子と日々を過ごしている初老の男になっている。

 庭を一巡りして、バラを見回っていると、ケイタイがポケットで鳴った。

 翔太郎はいままさに自由が丘の孫娘、美智子のことを想っていた。

 美智子が「カヌマの、オバチャのバラ」が欲しいというので、自由が丘の娘、里恵の庭に移植したアイスバーグは咲いているだろうか。美智子が芸能界に復帰した。これからまた忙しくなるだろう。

 どうしているだろう。――などと考えていた。

「お父さん。美智子はブジに帰ってきたからね」

 電話は娘の里恵からだった。自由が丘に住む長女里恵、次女里佳子、孫の美智子のことを意識していた。このシンクロニシテイに驚きながらもきき返した。

「何の話だ?」

 不意のことだったので、翔太郎声が尖った。

「留守電、聞かなかったの」

「何かあったのか」

「美智子がパーティの席からいなくなって、おおさわぎしたの」

「すまん、テレビも見ていない。留守電も聞いていない。智子がずっとこのところ、おちこんでいたので……」

「なにか鹿沼でもあったの」

「塾生が減少するいっぽうだ。大手の塾が東京から進出してきて、華々しい宣伝戦を繰り広げている。弱小塾はとてもかなわない」



 美智子は元気に出かけた。映画の仕事に復帰した。こちらはおおいそがしよ。里恵からの電話は、あわただしく切られた。

 里恵はなにか不安をかかえている。父親の直感がとらえた。どんな不安なのだ。なにが起きようとしているのだ。娘の不安が父に乗り移った。

 翔太郎は汗をかいていた。今電話で話したばかりの里恵のことも心配だ。里恵は「美智子は元気に出かけた」といっていた。それでも里恵の声には不安があった。

 なにかある。なにか起きる。翔太郎は胸騒ぎがした。

 テレビには美智子が映っていた。受賞パーテイの録画だった。

 翔太郎はテレビを見るのは妻にまかせた。

 ひさしくこうした感覚に襲われなかった。

 どっぷりと平穏無事な日常のなかにひたっていた。

 じぶんには超感覚のあることを忘れていた。わが家の家系には予知能力がある。

なにか、緊急の事態が起きなければ、発動しない能力だが。



「おとうさんが倒れた。帰っておいで。鹿沼にもどってきて。さもないとわたしたち死んでしまうからね」

 あれから、長い時が流れている。赤坂の郵便局の赤電話から家に電話をかけた。あのときの母との逼迫した会話は覚えている。父がなにか得体の知れないものと戦って敗れた。倒れたのだと知らされた。母には正体がわからない。

 父から麻耶の血脈を受け継いだわたしにはすぐに理解できた。故郷鹿沼にむかしから住みついているデーモン。悪魔、鬼神、なんとでも呼べるが恐ろしい敵を相手にしたのだろう。

 わたしは赤電話を手にしたままその場にへたりこんでしまった。じぶんの体がずるずると地の底にひきずりこまれていく。受話器からは――。

「もしもし……翔太郎……翔太郎」

 と呼びかけてくる母の声がしていた。遥な距離ある場所からの母の声。背後でカラスのけたたましい鳴き声がしていた。はじめはかすかに、そしてそれは群れの声として高なってきた。

「お母さん、カラスの鳴き声がするけど……」

「そんなことはない。いま仏間で電話にでているのだから……。カラスの鳴き声がはいることなぞあるわけがない。不吉なことをいっていないで、早く帰ってきてくれないかね」    

 わたしはおもわず受話器をとりおとした。耳もとでカラスの邪悪な鳴き声は高なるいっぽうだ。

 ヤッラは勝ち誇っている。

 わたしを誘っている。

 帰っておいで。

 帰っておいで。

 むかしのように遊ぼう!!

 ショウタロウクン。ショウチャン遊びましょう。

 わたしは家の裏の墓地にいた。

 なぜか、カラスの声は人の声だった。

 いっていることがよくわかった。

 誘われている。

 わたしと遊ぼう。

 遊ぼうよねぇ。

 いいでしょう。

 わたし翔太郎のこと好きよ。

 その場所まで――決っして遊びにいってはダメですからね。

 母にいいつけられていた墓地の奥が森に連なる辺り。

 墓石や巨大な一枚岩のような墓碑銘がまばらとなる《境界》に足を踏みいれていた。地面がじめじめしていた。低い低木地帯で羊歯が生い茂っていた。

 後年、自己分析してみた。あれはカラスではなかった。

 黒い見つけぬものを見た。

 見てはいけないものを垣間見た自責から、

 そのものをカラスの黒い姿におきかえたのだろう。

 でなかったら、カラスがわたしを誘惑するはずがない。

 あれは女陰をふちどる黒々と多毛な陰毛だった。

 黒いかげりのなかに肉色の割れ目があった。

 カラスが嘴をひらいて喉の奥までみせてわたしを誘うために鳴いた。

 翔ちゃん、アソビマショウ。アソビマショウ。

 その境界のさきは黒い森が、ずっと日光の山岳地帯までつづいていた。

 その黒い森の向こう側は安達が原の鬼ババァの伝説のある東北へとつらなっているのだ。


 あれは鬼神の娘だったのだろうか。



 ふたたび、使うことはないと思っていた能力だ。

 敵である鬼神が動きだしている。能力の発動はそれに呼応してのことだろう。

 悪魔が跳梁する。危険だ。害意は自由が丘に住む、里恵と里佳子と孫の美智子を 襲おうとしている。はやくそのことを知らせなくては――。

 いやもう襲っているようだ。

 どうして……それを事前に察知できなかったのか。

 いまこそ、能力の封印を解くときだ。

 そのときが、きたのだ。

 翔太郎は東武新鹿沼駅から浅草に向かった。


 美智子はキュンと胸がなった。

 どうしてだかわからなかった。顔がほてって、動悸が高まって、ふらついた。ど うしてそんなことが起きたのかわからなかった。三年前のことだ。

「中山さん? ですよね。気分でもわるいのですか」

 直人のわたしへのはじめての言葉だった。彼が手をさしのべてく   

れた。

 ……わたしはふらついて、倒れそうになっていた。それほど、動揺していた。

彼の手をにぎったときピリッとした。感電したみたい。わたしウブだから……オクテだから。初恋だった。

 わたしは、中学から大学まで女子校だった。恋には……オクテな女子だった。男の子に手をにぎられたのなんて――。はじめてだった。ひとめぼれ。

 何万ボルトもの恋に感電したみたい。

 あの出会い。神さまに感謝していたのに。感謝していたのに――。

 

 直人を失った美智子のところに。翔太郎がかけつけたとき。美智子の瞳は風景を映していなかった。

 直人の写真を元にして「霧降の滝」のミュチャ―を作ることを薦めた。Sandplay Therapyのような効果を期待した。美智子はその工事現場で庭師たちとどろんこになって働いた。日光の森や滝の精霊と会話をかわしているようだった。

「ジイちゃん、直人が精霊の群れのなかからわたしに話しかけてくれるの」

 うれしそうだった。なにも見ていなかったつぶらな瞳に光がやどった。工事が完成した。

 美智子はうれしそうに人工の滝を――。ミニチュアにしては大きすぎる滝を見ていた。滝の流れ落ちる音に耳を傾けていた。翔太郎は孫娘の悲しみが和らぐのを感じた。

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