防波堤に立つ

彼は誰

第1話

 - 防波堤に立つ -




 ***




「私は魚に呑み込まれました」




 いえ、精確に言うと、魚に呑み込まれたひとを私は見たのです。




 ***


 人生は死ぬまでの暇つぶしなんて、よくも言ってくれたものだ。改札機が切符を飲み込む。むっと熱風が顔に当たった。蝉のサラウンド。暇つぶしなんて4文字で支えきれるものか。この熱さが。

 心の風景というものが、誰の心にもあると思う。それはふるさとだったり、或いは夢でしか見たことのない場所かもしれない。私の心にもある。そして今日は、その風景に逢うために此処にやってきた。

 電車に乗る瞬間の1歩というのは、いつも同じだから妙に私の気持ちにそぐわない。特に今日という日には。私は今、勉強もほっぽり出して、昔ながらの心の風景に逢いに行くなんて劇的なことをしでかしているのに、なんて尋常な世界だろう。

 同乗者は私以外に、小さな子供を2人連れた家族らしき4人組と、スーツの初老の男だけだった。けれども電車の中は夏の気配で満員であった。特に子供にはたくさんの夏の連れがいるようだった。男の子はさっきから蝉を捕まえるんだという話をさかんにしている。私も小さい頃は蝉を見つけるのが得意だったが、もう今では抜け殻さえも殆ど見ていない。大人になっていく証拠のような気がして嫌だった。子供には、そんな「子供だけのもの」があるのだと思う。大人になるにつれて1つずつ落としてしまうような。少年が言った。

「あ、あそこにもいる!」


 ***


「だからそこだってば! あぁ、どっかいっちゃった」

 私はよくそうやって少年に怒られたものでした。その少年は、親戚の子という訳ではなく、いつも同じ場所でよく会うので知り合いになった少年でした。その場所というのは、大きな湖に面する小さな港のようなところで、私のお気に入りの場所でした。いつも学校が終わると自転車に飛び乗ってその港に行き、夕陽を浴びて私は帰るのでした。

 少年に初めて話しかけたのは、ある初夏の日でした。というのも、私がたまたま港でその少年をぼんやり見ていると、少年は釣りをしていたのですが、やけに釣り上げるのが早いのです。まさに入れ食いといった状態でした。何だか面白くなって、私はふと声をかけました。すると少年は、

「魚が見えるんだ」

 と言いました。魚が見えるから、どこに釣り糸を垂らせば良いのか分かるのだと。私には、その少年が魚の読心術師のように思えました。その後、私が学校で習ったようなことを1つ2つ話してやると、その小さな読心術師は心を開いてくれたようでした。私たちはそうして親しくなりました。

 少年はたくさんのことを教えてくれました。いえ、思い出させてくれたと言った方が正しいでしょうか。子供の頃には知っていたこと、見えていたもの、持っていた能力、そういったものを少年はふんだんに並べて見せてくれました。ダチョウは飛べる鳥だったかということや、蝉と蝉の抜け殻、道の上のBB弾、コンクリートに這う赤い虫。四つ葉のクローバーと1番星を見つける勝負ではいつも少年の勝ちでした。覚えないといけないことが多すぎる世の中で、本当に憶えているべきものはこういうものだという気がしました。

 また、こんなこともありました。ある日、少年が悲しそうな様子だったのでどうしたのかと聞くと、どうやら釣具を湖に落としてしまったようでした。消波ブロックの上で手を滑らせたと言うので、その辺りを覗くと、水に浸ってはいるものの、幸い引っかかっていて釣り糸などを使って引き揚げれば取れそうな具合でした。少年は気づいていないようだったので、これはひとつ驚かしてやろうと思って、私は釣具を救出することにしました。私が試行錯誤している間、これもまた子供の能力か、すっかり諦めて(忘れて?)貝殻拾いに夢中になっているようでした。その日はたまたま学校が昼で終わっていたので、長く時間が懸かりましたが、陽がちょうど落ちる頃にやっと救出することが出来ました。しかし、それを少年に見せに行くと、少年はまず最初に驚き、そして私の見間違いでなければ、恐れが顔を支配したのです。それは一瞬の間のことで、少年は小さくありがとうと言い釣具を受け取りました。どうしたのと聞くべきか私が迷っていると、

「これ、もう無くなったと思ってた」

 と少年が言いました。消波ブロックに引っかかっていたから取れたのだと言うと、少しだけ安心の色が顔に戻って、

「良かった。もう、深い深い底に落ちちゃったと思ってた」

 と言いました。

 後日分かったことですが、釣具が深くて暗い湖の底から出てきたと思った少年は、その釣具が墓から出てきた亡霊のように見えたそうです。さらに、それを引き揚げた私も怖かったと。そういった日常のふとしたことへの鋭い感覚も、私を大いに刺激しました。

 忘れていたことや新しいことを教えてくれるので、私はその少年が好きでした。

 そして、その少年はその辺りからでしょうか、よく湖を見入るようになりました。何かを見つめている人を見つめるのが最近の小さな趣味だった私は、そんな少年を見つめました。すると不思議なことに、少年が湖にすっと堕ちるように見えるのです。私はドキリとしました。ですが、それは私の気の所為でした。


 ***


 ガタン、と電車が驚いたように停まった。山の眩しい緑が私の感覚器官を押し拡げる。蝉の声が大きくなっていく。入道雲の白さが目を刺すのが逆に心地良くて、慣れるまでしっかりと見据えてやった。

 名もないような小さな駅に停まったようだ。駅のひとけのなさと蝉の大合唱がアンバランスだったが、それが何故か私の心拍数を上げた。遠くまで来たな、と思った。

 途端、私はいま逃避行をしている! という考えが頭を殴った。口元が綻びそうになって、帽子を目深に被った。そうだ、私は今、逃避行をしている。勉強も放り出して、自分の心の往く方向に走っている。大人になることから逃げている。このまま大人しく「大人」になるなんて嫌だ。御免だ。だから、ただ今だけは。今だけは、この逃避の旅に酔って溶けてしまいたい。

 少しして私は興奮を落ち着けてから席に戻った。4人家族の方も私のすぐ後に元の席に落ち着いた。スーツの男は動いていないようだった。2人の子供は貝殻を拾ってきたらしく、小さな手に幾つも乗せていた。年上の少年が兄らしく、年下の子に貝殻を渡して、今度は少し思案するような素振りをした。その少年は身振りが大きくて面白いのでつい見てしまう。暫く神妙な顔をした後、少年は親に聞いた。

「もし僕が死んだら、何もない真っ暗闇になるの?」

 電車が思い出したように動き出した。遠くの水面がピカリと光った。


 ***


 その日も少年は湖に魅入っていました。魅入っている姿を私が見かけることもだんだん増えていきました。季節は夏の真っ盛りでした。

「今日は貝殻を拾ったの」

「ひらってないよ」

 何を見ているの、といつ聞いても水草、とか魚、としか答えてくれないのを知っていた私は、少し沈黙してしまいました。すると、

「魚」

 と、少年が水面を指して鋭く言いました。指の先を探しましたが、水草が揺れるばかりで何も見えませんでした。

「魚の群れかい」

 と私が聞くと、

「大きな魚だよ。泳いでいったでしょう?」

 と言いました。

「どれくらい大きい」

「僕よりずっと大きい。口もすごく大きいから、僕を飲み込める」

「じゃあ、この湖の主だ」

「うん」

 そして、少年は怖い、とポツリと言いました。

「怖い」

「何が怖い」

「あの大きな魚。たまに湖の底から浮かんでくる泡。どこまでも続く水草」

「どうして」

 分からない、と少年は答えました。

「でも」

「でも?」

 一瞬の沈黙の後で、少年はおずおずといった調子で吐露しました。変だと思うかもしれないけれど。いや、思わないさ。

「……いつか、この湖に落ちちゃったらどうしようって思うんだ。落ちたら、沈んで、あのたくさんの水草に絡まって、溺れて、暗くて前が見えなくなって、どんどんどんどん沈んじゃって、そして」

「……そして、あの大きな魚に食べられちゃうんだ」

 私はどう返したら良いのか分かりませんでした。私も昔同じようなことを考えたことがあるような気がしました。

「大丈夫、」

 落ちたりはしない、と言おうとしましたがいつかの光景が蘇り、私の舌を抑えました。蝉の声がやけに私を急かすようでした。ゆらゆら揺れる水草が底から伸びる無数の腕のように見えました。

「死ぬのが怖い」

 バァーンと、耳の奥で何かが鳴っていました。死ぬのが怖い。

「死んだら、湖の底みたいに真っ暗闇なのかな? 何も分からないのなら、闇ってことさえも分からないのかな? 何も分からないって何? 怖いよ、死ぬのが怖い」

「夜になると、黒くて怖いばけものが襲ってくるんだ。もしかしたら、あの大きな魚かもしれない……」

 私は辛くなりました。この少年を支えないといけない、と思いました。若しくは、その恐怖から逃れられるように。誰もが1度は経験する、この呪いを避けられるように。

「大丈夫、悪夢はいつか見なくなる。大丈夫だ。だから」

「ほんとう?」

「ああ、本当だ」

 突然、港の灯台の鐘が鳴りました。陽はまだ高かったのですが、湖は少し黒くなってきていました。冷たい風が水面を波立たせました。いくつかのボートが唸りました。


「底の見えない湖に堕ちてしまう」「そんな衝動は、きっと誰しもが持っている」「ひとりにしないで」

 と、少年が見つめました。


 ***




「私は魚に呑み込まれました」


 いえ、精確に言うと、魚に呑み込まれたひとを私は見たのです。




 少年は、足を滑らせたようにも、風に吹かれたようにも見えました。

 私はその日も、遠くから少年を見つめていただけでした。




 ***


 電車は、小さな里山を望む駅で停まった。結局、少年の痛みの訴えにも似た疑問に、親たちはこれといった応えもないまま、その家族は降りていった。直ぐに蝉の声に溶けて見えなくなった。代わりに、里山の向こうから吹いた風が、田んぼの匂いや何かを焼いた煙りの匂いを連れて、開け放たれた窓から乗車した。入道雲の白と里山の緑ほど鮮やかな色はないと思った。夏は世界の色を濃く塗り替える。

「あの子は呪いに罹っているね」

 スーツの男が言った。突然のことだったが不思議と驚かなかった。少年のことだと直ぐに分かった。私は少し笑って、

「私もその呪いに罹ったことがあります」

 と言った。

「そうか、君もそうか。辛かったろう」

 慰めてくれる人を欲していたことは今も昔もなかったと思うが、そう反応してくれる人は今までいなかったので、私は何処か面白いような懐かしいような気持ちがした。親戚でも知り合いでもない、旅先で出会っただけの何の利害もない人になら、素直ないい子になれる症候群の私。帽子を弄る。言葉が待っていたように口をつく。

「でも、その呪いに罹ったお蔭で、生きるということが私の中に少し落ちた気がします」

 蝉の声。向日葵の光。蜻蛉。

ものは、死ぬから生きるのだと思うのです。ものとはそういうものだと。そうは思いませんか?」

 死なないなら生きられない、と心の中で繋げた。死の呪いは生の呪い。誰かが私に掛けたもの。

「けれども、私たちは、死にたくないから生きるのではいけない」

 電車は動き出した。


 ***


 ふと気がつくと、私はまたあの港に来ていました。少年もまた小さくしゃがんで湖を見ていました。

「あの魚だ。今日も来た」

 少年が緊張した声色で言いました。もうその頃には、私もその大きな魚が見えるようになっていました。黒くて、今まで見たことがない大きな魚でした。大きすぎて誰も釣り上げられないでしょうが、きっと湖の主なので、もし釣ればきっと良くないことが起きるだろうと思わせるほどの風格がありました。魚が欠伸をすると本当に人を飲み込めそうな大きな口を持っているのが分かりました。悠々と尾鰭を揺らして桟橋の下を通る度に、港が揺れるようでした。魚が私たちを落とそうとしているとも思えました。

 少年の呪いに向き合おう、と考えて行動に移すようになってから何日か経っていました。行動に移す、と言っても治療法なぞある訳もなく、非力な私は少年の話を聞くことしか出来ませんでした。それでも、理解者が居るということが少しでも少年の力になっていると私は半ば信じ、半ば願っていました。

「僕が生まれる前は、真っ暗闇だったと思う。ううん、闇でもなかった…何も、何も分からなかった。何にもなかった。学校で、僕が生まれる前の、武士がいた時代とか地球が生まれた時代とか、そういうことを習うけれど、僕は覚えていない。多分、死んだら生まれる前みたいになるんでしょう?」

「僕が生まれる前にも、とってもとっても長い時間が流れていた。けれど、僕は生まれていないから一瞬のように感じる。でも、僕が死んだら。またその闇に放り込まれるんだ。しかも、今度は永遠に」

「永遠に僕は何も分からない闇の中。誰かが僕のお墓に来てくれたって、地球がいつか粉々になったって、宇宙がなくなったって分からない。永遠に永遠に僕は生まれてこない。一瞬が、永遠? 分からない、怖い。永遠が怖い」

「今のこの見ている世界がもう永遠に消えちゃうなんて嫌だ」

「死ぬくらいなら、ずっと生きていたい。ずっと生きて、大切な人が死んだって、地球が粉々になったって、死なずにずっとそれを見ていたい……」

 少年は夜が怖いと言いました。夜になると死んだ後のことを考えてしまうからと。そして、何故かあの湖の主が自分を食べるところを想像するのだと。少年にとって夜は眠れないものになっていきました。けれども、それは良いのだと言いました。だって、寝ている間に誰かに殺されたら、僕は死んだことも分からないまま無の空間に投げ出される。そんなのは嫌だ。

「でも、永遠に生きるというのも、怖いことじゃないかい」

 私が言うと、少年はうんともううんとも言わずに、ただ湖を見ていました。少し離れたところで、湖の底から小さな泡が1つ2つ、上って弾けました。


 ある日、少年はいつもしゃがんで湖を見ているところとは離れた防波堤に腰掛けていました。近づいてみるとぼんやりとした様子なので私は聞きました。

「何をしているの」

「何も」

「今日は釣りをしたの」

「釣りもしないよ」

 昨日は釣りをしたね、と言う私の心を読んだかのように少年が言いました。

「僕、昨日、いつもより大きい魚をたくさん釣ったんだ。あ、いつもの魚と同じ魚なんだけれど。お腹が虹色で膨らんでた。きっとあれは、ここに住んでる魚たちの親だったんだ。僕、たくさん殺しちゃった」

「ここにいたんだ」

 と、少年が足元を指さしました。そこには魚の影1つないがらんとした浅瀬があるのみでした。俯く横顔には、何を考えているのか分からない暗さがありました。

 少年は、その頃から釣りをするのをやめてしまいました。もしあの大きな魚がかかったらそのまま湖に引き込まれてしまうかもしれないのが怖いから、とだけ言いました。風が冷たくなっていきました。蜩がキキキキキ、と鳴きました。灯台の鐘だけがいつもと変わらず鳴りました。

 防波堤はどっしりとしているようで、実は波が打ち付ける度に揺れているということを私は最近知りました。


 少年は日に日に蝕まれていくようでした。笑うところを見ることも少なくなりました。私も何度か溺れる夢を見ました。いつも水草の手に足を掴まれるところで目を醒ますのでした。

 少年の恐怖は、死から始まり、その対象を拡げていきました。

「僕はなぜ「僕」だったのだろう」

「どうして生き者を殺さないといけないのだろう」

「僕は殺人鬼だ」

「永遠に生きることも永遠に死ぬことも嫌だ」

 もう嫌だ、と少年はよく口にしました。怖い。分からない。どうしてみんな分からないまま生きていられるんだ。いっそのこと、いや、でも……出来ない。


 私たちはみんな、消波ブロックの不安定な角に立たされているのです。文明が湖の底から積み上げてきた消波ブロック。そのお蔭で私たちは今、荒波で溺れることなく、ゆるりとした空気に包まれて穏やかに暮らしています。ブロックを積み上げる必要はもうないのです。文明は発達しました。これ以上は、横にも上にも、要らないのです。お前たちは害をなすと脅されています。それでもなお生きたいという本能と終わりたいという本能と闘っています。下を見れば底のない湖。上を見れば湖よりも深くどこまでも続く空。堕ちそうになる衝動をただ堪えています。水の中でもがいていることの方が、どれほど生きていると言えるでしょう。未だ色んなものが見えていなくて。水面からの一筋の光にただ手を伸ばして。苦しいほど生きていることを感じて。本能のままに上に向かって。


 私の耳の中の蝉が、何時からか少年の訴えを拒んでいるのを薄ら感じていました。私はさざめく水面を見つめていました。私の目の前で、何度目かの湖に堕ちていく少年の背中が見えたような気がしました。私は言っていました。

「私には、君が湖に堕ちるように見えるんだ。しかも、1度じゃない。先週も、その前も、」

 今だって、という言葉を飲み込みました。違う、私が言うべき言葉はそうじゃないのに。


「桟橋に座る人の背中を蹴りたい」「そんな衝動は、きっと誰しもが持っている」「僕を殺さないでよ」

 と、少年が笑いました。


 ***




「私は魚に呑み込まれました」


 いえ、精確に言うと、魚に呑み込まれたひとを私は見たのです。




 私は気がつきました。少年は、湖に堕ちたのではなく、私が湖に落したのだと。



 私は思いました。湖の主が少年を呑み込んだとき、少年は今度は私に呪いを掛けにくるのです。ふとした日の夜や、死ぬ間際まで罹り続けるのです。いえ、呪いは死ぬ間際が1番強いかもしれません。呪いが喉を掻き切ろうとしているからです。


 そして同時に、少年を殺した大人たちはつまり、「少年」を忘れることとなるのです。


 私は、私の少年を殺したのでしょうか。




 ***


 何時か何処かで見たことのある風景にふと出逢うことがある。そういうときは大抵、何処で見たものか思い出せないでいるのだが、今、私は初めてそれをはっきりと言うことが出来る。その風景は私が小さい頃からずっと頭の中で描いていた。心臓の林檎のような種が求めてきた。まだ少し距離はあるけれども、目の前の景色はまだ描いたことがないものだけれども、それでも私の心の種は知っている。あの風景と同じ空気が流れている。確かに此処を知っている。と。

「では、私はこれで」

 スーツの男が山高帽を少し上げて席を立った。電車の頭はきっと次に行くべきあの場所を見据えていた。もしかすると、此処から見るあの場所が1番美しいのかもしれなかった。入道雲に赤みが差していた。蜩のなき声が遠くから聞こえた。待って。まだ少し待っていてくれ。いま行くから。夏よ。

「生きるを、生き抜け」

 少年よ。

 男が降りると扉が閉まった。窓1枚を通すと、旅人は街の空気に溶けて見える。電車が音を立てて曲がって、男は直ぐに見えなくなった。とうとう私1人になった。だが私はひとりじゃない。電車は夕方の緩んだ空気で満杯だった。近づく。私はあの場所に近づいていく。


 ***




 私は一体誰なのでしょう。


 私は私の少年を殺したのでしょうか。


 ひとを湖に落とす夢もじぶんが湖に堕ちる夢も何度も何度も見ました。


 私たちはどこから来たのでしょう。

 私たちは一体誰なのでしょう。

 私たちは何処へ行くのでしょう。


 生きるとは何者なのでしょう。


 ただ確かなのは私がいま此処に居るということだけ。


 ならば、其処でひたむきに生き抜くのみ。


 私はまだ死んでもないのに、生きることから逃げたくありません。考えることから逃げたくありません。「少年」を忘れたくありません。だから私は私の少年と生きていきます。生きていきたいのです。


 少年と大人になる私は、いつかはどちらかが壊れてしまうものなのかも知れません。


 命がどうこうとか、私が口に出すのは烏滸がましいのかもしれません。


 それらはまだ私には分かりません。ですが分からない方が、面白いでしょう。




 ***


 急速にその色を変えていく世界を見ながら、私は、数分後か数時間後か、私がこの逃避の旅から帰るときは、それは私が大人に向かっていくということになるのだろうか、と考えていた。私はやがて大人になる。けれど、ただ、いまだけは。いまだけは心の往くままに走っていたい。


 遠くで何かが光った。トンネル。私は焦れったい思いを隠そうともせずトンネルが明けるのを待った。瞬間、懐かしい茜色。時が夕闇のようにゆっくりと流れていくようだった。一呼吸置いて、私に呼応するように、灯台の灯りがぴかりと光った。

 あれだ。あれこそが。焦がれた、という気持ちはこういうものかと思った。私の心の種にも火が灯った。


 湖の匂い。多分、幾多の魚と水草の匂い。沈みかけている数隻のボート。白い灯台。足が踏み鳴らす砂利の音。心の風景に、鮮やかな絵の具を差していく。

 やっとここへ来た。私は本当に、いまここに、居る。

 そこは、想像していた通りだった。現実味だけが、想像のものとは違っていた。


 灯台の鐘の音が夕方を報せた。良い子はもうお帰りと言う。ああ、これだ。私の身体の器官という器官を水が流れていくように沁みた。ただ、いまだけは。愚図って帰らないでいる、かつての私みたいに悪い子でいたい。


 防波堤に立つ。恐ろしいほどに紅い地平線。彼は誰時。空は夜の気配を湛えている。頭上の1番星に誓う。


「私は君を忘れたりしない。私はもう逃げはしない。私はここに確かに居るんだ。確かにここに居るから、湖にも、深い星空にも堕ちないように、足を踏ん張って、踏ん張って生きていく」

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