列伝弐

05 Summit

 太陽が遠い。


 大地から遠く、天に近く。

 けれど太陽が遠い、「  」の場所。


 大地を見下ろして、あるいは見上げて、人を見ることが好きで。

 人の中を見ることがとても好きで。

 人が語る物語が、とても好きで。

 人が祈る神の姿が、大好きで。

 いつもいつも、うっとりと人を眺めていた。


 そしてある日、ふと天を見上げると。



 天使が、死んでいた。

 



*




 ナツノ、と少年は言った。

 名前は、と聞くと反応がなかったので、「みんな」には何と呼ばれていると聞けばそう答えた。

 ナツノは栫を「人」と呼んだ。ならば「みんな」は何だ、と聞けば視線を巡らせて、ちから、と答えた。

 僕達はちからで、僕はナツノだ、と。

 なつのちからだ、と。


 栫はさすがに身を引いた。

 「これ」は得体が知れない。ただここに現れただけなら、精神に異常をきたしているだけだろうと判断する。もちろんそんな少年と山頂で2人きりと言うのは息が詰まるが。そうではない。何せ、栫はこの少年が落ちてきたところを見ていた。途中でふ、と一回転をして、着地した。立ち上がって、すぐにこけたが。どこも怪我などしていない。そんな人間はいない。月の高さから落ちてきたわけではないが、月と合う目線から落ちてきたのだ。そこから落ちて、無事な人間などいない。

「怪我は、ないのか」

「けが。それは何」

「痛むところは」

「ない」

 ナツノは細切れにしか話をしない。言葉は通じる。会話としてなりたっているかははなはだ不安だけれど聞いたことには答える。

 どうしようかと冷静に考える栫の一部が、

「君は、白い月?」

 何を思ったわけではない。ただ、そう言葉が滑り出ていた。

 白い月。空の、一部。

 ナツノは不自然に瞬きをした後、わからない、と言った。

「空から来たの。宇宙から来たの」

「それは何」

「何って……。空は、その、この地球の中で」

 簡単に表現してしまえば、空とは地上から見上げた時に頭上に広がる空間を指す。それだけで切ってしまえば宇宙まで含まれてしまいそうだから、惑星の大気の濃密な部分を定義されることもあるが。ただし、空が青く見えることについては空気と太陽の関係から生じるものであり、雲も大気も内部に生じるものであり、白い月は一応は宇宙に関係するものである以上、どこまでが空かと問われると、非常に答えにくい。

 宇宙に関しては更に難しい。そもそも空と宇宙を分ける時点で齟齬が生まれている。地球自体が宇宙空間に浮かぶ惑星のひとつである以上、空とて宇宙の一部なのだ。あえてそこを切り離したとしても、大気圏外の空間としか表現のしようがない。語彙的な意味でなら、「宇」は空間、「宙」は時間を意味し、「宇宙」で時空を意味するとされている。もっと狭義にしてしまえば「宇」は「天」、「宙」は「地」を意味し、「天地」を指すことにもなってしまう。そうなれば空も宇宙も聞いた意味が無い。中国思想の天地とは、まさに世界の全てなのだから。

 ああ。栫は言いかけて溜め息をついた。定義を答えることは難しいが、あえて絞ってしまえば出来はする。天文学専攻の学生としてそれは何とか答えられる。けれど、ここで聞かれているのはそういうことではないだろう。確実に。

 栫が悩んでいる間、ナツノは特に何をするでなく辺りをきょろきょろと見回し、ふと何かに気づいたように視線を固定させた。塞から借りた、本が椅子の横に置かれている。

「本が、どうかした」

 質問をしながら、視線を更に奥へ向けると麓に下りる道がある。

 ああ、そう言えば。逃げるという選択肢があったか、と今更ながらに思い、栫は苦笑した。

「あれは、ひとのもの」

「ひと…ああ、そうだよ。まだ読んでないけど」

「あれはどこにいるの」

「どこ? 貸した人ってことかい。ここにはいないよ」

 知ってる、と掠れた声が響く。

「死んだから。それは知ってる」

「え」

 塞は死んでいない。とすればナツノの「どこ」と言う言葉は別のものを指している。栫は困ったように、否、実際困って視線を泳がせた。選択肢のひとつ、逃亡は既に時期を逃している。とは言えひとりで関わるのも困るところだ。そもそも、これが何なのかまだ分かっていない。天使なのか、宇宙人なのか。そう、いっそその二者択一にしてしまえと逃避する脳が囁く。宇宙から来たのなら宇宙人で、空から来たのなら天使だ。ああ、いっそ宇宙人でなければ天使で、天使でなければ宇宙人だ。シンプルでいいだろう。

 酷く冷静な表層の裏で、ぐるぐると思考が廻る。けれどやはり掠れてはいても静かな言葉が、滑り出る。

「死んだって、誰が」

 その言葉に、ナツノはひどく悲しそうに天を仰ぎ、嘆きの声を上げた。


「天使様」


 そうか。宇宙人の方か。



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