最終世界

久山橙

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 ぼくは彼女の膝に頭を乗せ、仰向けで彼女の瞳を見ていた。じぃっと、じぃっと。彼女の瞳は赤子のように黒目が多く、澄んでいて、それはぼくに星がすべて滅んだあとの宇宙を連想させる。

 唾液がつーっと糸を引きながら、ぼくに向かって落ちてくる。小さな泡をいくつも内包した雫。それは彼女の口元から分泌された彼女だけの唾液。ぼくはそれをぼくだけの眼球で受け止める。じんわりと世界が滲む。

「人間ってエゴのレゴだと思わない?」彼女はそんなぼくの戯言には応えず、

「あなたの白目の黄色く濁っているところ、月みたいで好きよ」そう言ってぼくの世界のもう半分に舌を這わせた。

「きみの瞳にぼくらの故郷は見えないね」両の目の機能を彼女の唾液と舌に奪われ、ぼくの世界は真っ暗になる。

「瞳は瞳よ。宇宙じゃないわ。ここに映るのは『わたしの世界』と『あなたの世界』」それだけよ、と彼女。

「詩人だね」

 ぼくの言葉に彼女が少し微笑んだのがわかった。


 彼女との出会いはいつ頃だったか。日にちにあまり頓着をしないから忘れてしまった。ぼくは黒いパーカーを着ていたし、彼女は上にセーラー服、下は裸の状態でたくさんの男に囲まれていた。静かに横たわる紺色のスカート。まだ少し肌寒かったように思う。桜の花びらが川面に浮いて揺れていた。

 よく晴れた日の夕方、ぼくはイヤフォンから流れる『雨に唄えば』を聴きながら河川敷をゆったり歩いていた。川の上に架かる名前も知らない橋、その下の暗がりで彼女は男たちに犯されていた。声も挙げず黙ってされるがまま、彼女はただじっと地面を見つめていた。

 橋の上を犬に引かれた少女が駆ける。学生服に着られた学生たちが大きな笑い声を挙げる。なんて平和な街なのだろう。ぼくは目を細め、その風景を見上げた。夕焼けが眩しい。それでいて、だからつまり、まずもって何よりもちゃんとただしい風景は、橋の上をさんさんと照らし、橋の下に黒々と影を落とす。その対が成す「ファクト・イズ・ストレンジャー・ザン・フィクション」。どちらがより不自然なのか、そんなものは個々人にとって都合の良いものを選べばよいとぼくは思う。ぼくらの現実は「ぼくらだけの現実」だ。「他者のそれ」は「それ以外」でしかありえない。背表紙にピンとこなければ手に取ることもない。

 舗装路に施された色とりどりの惑星ほし。濁った川の静かなせせらぎと男たちの荒い声。彼女が鳴らす湿った音。ぼくの耳元で歌うジーン・ケリー。長い髪の隙間から時折見える切れ長の、ハイライトの入っていないベタ塗りのマンガのキャラクターのような瞳。そんな彼女の瞳を蠱惑的に感じた。

 行為の済んだ男がどんよりとした瞳でこちらを見つめている。彼女と同じようで、まったく違う残念な瞳。彼の視界に入った先から世界が腐り落ちていきそうな、そんな瞳。

 ぼくが彼からマレーグマを連想しているあいだ、彼はじっとこちらを見ていた。そうしてしばらく経ってからのち、彼は萎えてしまった陰部を揺らしながら歩き出す。彼の歩みは次第にぼくと彼との物理的距離を縮め、ぼくはその合間にマレーグマ同士のキスを想像した。あの長い舌をクマ科最小の彼らはどのように絡めるのだろうか。フレンチ・キスは言葉の響きのかわいらしさに反して、とても激しい粘膜情報の交換を意味するらしい。そんな妄想も束の間、ついにぼくはマレーグマに首元をつかまれた。ぼくはポケットのなかの冷たさを確かめる。

「何を見てい……」

 男の声はへんに甲高く、ぼくはそれが苦手だと思った。きらめくナイフと夕日よりも幾分明度の低い赤色。男の首元にぱっくりと開く生命の出口。そこから溢れる血。みるみる気化する彼にとっての「わたし」。必死に酸素を求める息遣い。漏れ出る空気の音。作り物みたいに完璧な無表情。まだまだ流れる男の血。彼は本来の寿命より少しだけ早く生き物から肉の塊になった。

 ほかの男たちがこちらを見つめている。みな一様に男性器を俯けながら。ただひとり彼女に挿入していた男だけが腰を振り続けていた。ぴちゃんぴちゃん。幼子が水たまりで遊ぶような無邪気な音。連なる無表情と虚ろな瞳。ぼくはそろそろ終わる『雨に唄えば』を耳元から外し、ポケットにしまった。

「たのしいね」

 心からのことばだったが、男たちは応えない。みな一様にこちらをじっと見つめている。腰を振り終えた男が何拍か遅れ、状況に気付く。

「続けなよ」

 ぼくは再度投げかける。男たちは戸惑っている様子だ。だらりと長い胴と手。短い脚。そのうち男のなかのひとりが挙手し、

「人を殺すのはいけないことです」とぼくに教えてくれた。

ぼくは「たのしくてもダメなのかな。これがぼくの趣味なんだ」と彼らに問うた。彼らはみな不揃いのリズムで首を縦に振る。口々にさえずる「人に危害を加えてはいけない」という正論。ぼくは思わず吹き出しそうになった。

「提案があるんだ。今日のこと、誰にも言わないでいるよ。だからさ、その代わりに君らも内緒にしてよ、今日のこと。どうかな?」

 男たちの後ろで、彼女がぺたんと座っている。視線は地面に散らばる星々に注がれていて、ぼくはその星を映した彼女の黒い瞳を見たいと思った。それはとても素敵だと思う。ロケットに乗って見る本当の宇宙なんかより、ずっと。

「あなたは人をひとり殺しました。彼はわたしたちのかけがえのない仲間です」

「それは、ごめんね」

「わたしたちはかなしい。彼の死を受け止める準備ができそうにありません。ぼくらの愛は、ひとつ失われました」

「きみたち、英語をそのまま直訳したような日本語を話すね」

「わたしたちはロボットですから」

「ロボットだからって、そんなふうに話す必要があるの?」

「それは、わかりません」

「最近のロボットはよくできているんだね。勃起もすればレイプもする。死だって理解してるじゃないか。科学の賜物だね」

「ほめてもらえるとうれしいです」無感動につぶやくロボット。表情筋の使い方を彼らは知らないらしい。

「お願いがあるんだけど、彼、埋めておいてもらえないかな?」

「ロボットは、お墓を必要としません」

「へえ、そうなんだ」

「あれをごらんください」

 彼らの指差す方を見る。元人間だった故ロボットの、意志あるいはそれに準ずるソフトウェアが停止した肉の塊。それは悪臭と湯気を放ち始める。それから徐々に泡が立ち、だんだんと煮崩れ始めた。そしてついにすべて気化してしまった。残ったものは赤い肉溜まり。

「ロボットの死ぬところなんてはじめて見たよ。人間とは随分違うんだね」

「わたしたちは自然にやさしい死をむかえます。わたしたちはみな気化して雲になり、雨になって地上に振り注ぎ、あらゆる生命の糧になるのです。そのような仕組みがあるのです」

「それはいいね。人間なんかよりよっぽど有意義な死だと思うよ」

「ありがとうございます」

 男たちはしゅんとした男性器をぶらさげたまま、ぼくに笑顔を向けている。風体はみな河川敷に住まうホームレスのようなのに彼らが実はロボットだなんて、まったく科学の進歩はすごい。死んで惑星の糧になる。そんな結末には夢があるじゃないか。ぼくはそう思う。

「ところできみたちは、いったい誰に作られたんだい?」

「わたしたちの母は……」言いかけて彼らはしゅわしゅわ音を立て始める。緞帳どんちょうが降りるようにくずおれていく。ぼくは、そんな彼らの幕引きから「ぼくらのはじまり」を期待せざるをえない。こんな超常、きっともうぼくの人生にはないのだろうな。


「そんなおしゃべりに作ったつもりではなかったのだけれど」


 ロボットたちから沸き立つ死の煙の奥で彗星のような声が聞こえる。彗星が真空を切り裂くような音。真空のなか、聞こえるはずのないイメージの音。だからこれまでのどんな音にも例えることのできない、そんな声だった。

 ぼくはその声の方へ歩いていく。途中、ぐずぐずになったロボットたちの肉に足を取られそうになる。肉溜まりにあらゆる鳥類が集まっている。灰色のや茶色のや黒色の鳥。みな自慢の鋭いクチバシでそれを啄んでいた。死んでなお鳥葬される彼ら。いや、これが「惑星の糧になる」ということなのだろうか。まあ、過ぎたことはどうでもいい。ぼくはすでに恋をする準備ができているのだから。

 彼女は男たちに脱がされたスカートを履いて、そのあとにパンツを履いた。うなじにうっすら汗が浮いている。息は存外乱れていない。

「わたし、宇宙人なの」と、彼女が言った。

「変わった自己紹介だね。大丈夫?」と、ぼくが問うて、

「わたしね、痛みがわからないの」と、彼女。

「あたまでも殴られたのかい?」

「わたしの触れてほしいのは、そんなところじゃないの」

「ちっとも会話が繋がらないね。ちぐはぐだ」

「わたしとあなたは、まだ出会って間もないもの。それとも、あなたにとってわたしが宇宙人であるように、わたしにとってあなたも宇宙人だからかしら?」

「でもぼくたちはこうして会話をしているよ。これはほとんど奇跡なんじゃない?」

「言語の響きが似ているだけで、きっとお互いが言っていることの本質は、お互い理解していないでしょうけれどね」

「きみはへんだね」と、ぼくが返して、

「そうかしら」と、彼女は地面に向かって微笑んだ。

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