インチキ教師と呪われた少女

17

 涼風恭介が母から聞かされたのは、にわかに信じ難い恐ろしい内容だった。

 涼風家は五百年前の魔女狩り戦争で魔女を討ち滅ぼした聖霊術師の血を引く一族だ。

 だが今ではそれも恭介達一家を残すのみ。一族の血を引く者は時代を経るごとに減っていく一方だった。

 それには理由がある。

 涼風家の女性には何代かに一度魔女の呪いが発症するのだ。

 大昔に滅んだ魔女の魂が現代に蘇り、彼女達の体を乗っ取るという。

 恭介の母も、魔女に肉体を支配され夫を手にかけてしまった。

 彼女は言う。自分はもう長くない。もうすぐ自分の魂は完全に魔女に食い尽くされると。

 そうなれば肉体を得た魔女はより多くの犠牲を出すだろう。恭介の父を殺したように。

 この体を魔女には渡さない、と母ははっきり言った。

 一体どんな方法で魔女の呪いを逃れるつもりなのか? 恭介の心に一抹の不安が浮かぶ。

 母の言葉は続く。魔女の呪いは自分の代だけでは終わらない。何年か先、きっと凛音も同じ苦しみを味わうことになる。

 それまでに魔女の魂を消し去る方法を見つけなければならない。

「お願い恭介、凛音を守って」

 それが恭介の聞いた母の最期の言葉だった。

 その夜、母は病室の窓から身を投げ命を絶った。高潔な彼女はこれ以上魔女による犠牲を増やさない為に自分の体を永遠に動かぬものにしたのだ。

 大好きな両親を喪った凛音は、霊安室に横たわる母の隣で大粒の涙を流した。

 そんな妹の姿を見守りながら、恭介は涙を必死に堪えていた。

 泣いている場合ではない。自分にはやらなければならないことがある。

 両親の死を悼む涙なら自分の分まで凛音が流してくれる。

 凛音を魔女の呪いから解放する。それが母から託された願いだ。

 その願いを叶える為には涙など必要ない。

 それから暫くして恭介は凛音を置いて姿を消した。世界の各地を巡り、色んな伝承や神話を調べた。その中に妹を救う手がかりがあると信じて。

 その後、天涯孤独となった凛音は幸平の家に引き取られることになる。


 ドクロの描かれた帆が風を受けてはためく。

 空の色を反射した青い海の上を漆黒の海賊船がゆっくりと進む。

 人気のない海岸に辿り着いたところでその船は動きを止めた。

 甲板から縄梯子が下ろされ、それを伝って二つの人影が船を降りる。

 紫の長髪を靡かせた黒マントの青年、そして筋骨隆々の体に空手胴着を纏った大男の二人だ。

 四皇帝の残り二人、ポセードの兄貴と武蔵。

 シムルグの視界を借り、少し前からこの海賊船の動きを見張っていた。

 ようやくここに辿り着いたか。

 近くの森に身を隠していた俺はすぐに砂浜へと駆けつけて声を張り上げる。

「兄貴!」

 そんな俺の方をポセードは無感情の瞳で見つめ返した。

「ほう、待ち伏せか」

 兄貴と会う為に俺はもう一度この島に戻ってきたのだ。ガーディアン・スクールのあるこの島に。

 病院で手当てを受けている星観の想いを背負って兄貴と戦う。俺にはその覚悟があった。

「これ以上アンタの好きにはさせねえ。夢幻の鍵は返してもらうぜ」

 俺がそう告げると、ふんと兄貴は鼻を鳴らす。

「カストルを倒したからといって粋がるな。この俺に勝てると思っているのか?」

 殺気の籠った冷たい視線に俺の背筋がゾクリと震える。

 星観も紗雪も、もう俺に手を貸してくれる仲間はいない。俺は一人でこの恐ろしい男に立ち向かわなきゃならない。

 恐怖は勿論ある。だけど引けない、俺のこの手で紗雪を救える可能性があるなら。

 兄貴は俺から視線を外し、隣に立つ大男に声をかける。

「武蔵、こいつの足止めは任せた。俺は一足先に地下迷宮へ行く」

 って戦わねえのかよ!

 武蔵の返事を待たず兄貴は踵を返す。その背に俺は問いをぶつける。

「おい、地下迷宮へ行って何をする気だよ?」

 兄貴はちらりとこちらを見ると、強い憎しみの籠った声を吐き出した。

「魔神の封印を解く。奴は俺が殺す」

 はあっ? とんでもない答えが返ってきた。こいつも静佳脳かよ。

 いくら兄貴とはいえ、あの伝説の魔神に勝てるのか?

 五百年前、人類を追い詰めた不死身の魔神。もし奴が蘇ればどれだけの被害が出るか。

 兄貴をこのまま行かせる訳にはいかない。そんな俺の決意は次の一言で揺らぐことになる。

「お前の相手は武蔵だ。もし武蔵に勝てればお前の仲間を返してやろう」

 何っ、紗雪を?

「紗雪は無事なのか?」

「さあな、それはお前の目で確かめろ」

 なんてスカした答えが返ってきた。

 そこに野太い声が割り込んでくる。

「のうポセード、ワシは戦いとなったら手加減はできん性分でな。足止めはいいが、小僧の息の根まで止めてしまうかもしれんぞ」

 拳をゴキゴキと鳴らしながら武蔵はガハハと笑う。

 ひいいいい、なんて恐ろしいことを。

 そんな俺達に興味を示さず兄貴は武蔵に背を向けたまま小さく呟いた。

「勝手にしろ。油断してカストルの二の舞にならないといいがな」

 そう言い残すと兄貴は道路の方へ去っていく。

 まあ正直に言えば四皇帝を二人まとめて相手にしなくて済むなら、それに越したことはない。兄貴を追いかけるよりも武蔵との勝負を集中しよう。

 もっと本音を言えば、紗雪の名前を出されては武蔵との戦いを無視することなんてできない。どんな手を使ってもこいつを倒す。

「さて小僧、準備はいいか?」

 武蔵がやる気満々の様子でノシノシと歩いてくる。

 俺はそれには答えず懐から拳銃を抜き出し発砲した。

 完全な不意討ちに相手は反応できず、鉛弾が武蔵の胸に命中する。

 こいつがどんな強力な聖霊を持ってるかは知らないが、召喚する前に術者を倒せばいいだけの話。

 卑怯だろうがなんだろうが、紗雪を助ける為なら俺は躊躇わない。

「なるほどのう。聖霊を召喚される前に相手を倒そうという作戦か。ワシも好きじゃよ、そういうのは」

 あれっ? なんかピンピンしてるぞこの人。

 武蔵の空手胴着の胸には鉛弾を喰らった証拠の穴が開いてる。外したなんてありえない。

 なのになんで全くダメージを受けてないんだ。まさか防弾チョッキでも着てたか?

 あまりに理解不能な事態を前に瞬時に色んな可能性を思い浮かべる。

 だが武蔵から返ってきた言葉は俺の常識を遥かに越えたものだった。

「ワシは聖霊になど頼らん。ワシの武器は鍛えに鍛えたこの筋肉じゃ! 磨き上げた鋼の肉体はそんなオモチャなんかじゃ傷ひとつつかんわい!」

 ホワイ? ユーが何を言ってるのかワカリマセーン。

 体を鍛えれば銃弾を受けても大丈夫なんてそんな馬鹿な。

 って呆けてる場合じゃねえ! 銃が効かないならすぐに他の手段で攻撃しなければ。

 俺は黄金の獅子が描かれたカードを取りだし、それをかざす。

 虚空に紫の魔方陣が描かれ「ぐおおおおおお!」

 なんか熊みたいな雄叫びと共に武蔵が殴りかかってきた!

 咄嗟に俺は横に飛んでその拳を躱す。俺の後ろにあった岩に拳が突き刺さり爆砕した。

 ひいいいい、なんだこの怪力!

 武蔵は休むことなく二撃、三撃目の拳を繰り出す。俺はそれをすんでのところで避けるのが精一杯。聖霊を召喚する隙など与えてもらえない。

 くそっ、一応監視用のシムルグを空に放っているが、あいつを呼び戻したところで全く戦闘向きの能力じゃないしな。

「小僧、盗賊同士の戦いで最も大事なのは何か解るか?」

 拳を振り回しながら武蔵はそう問いかけてくる。

 その間も俺は拳打の雨から逃れるのに必死だ。こんな状況で答えられるわけねえだろ!

 俺の返事など最初から求めてないのか、武蔵は勝手に語り続ける。

「盗賊というのは多くの聖霊をカードに封印しておる。相手が何体の聖霊を持っているかはわからんし、一体の聖霊と戦ってる間に他の聖霊を呼ばれるかもしれん。

 故に大事なのは己の拳で相手を制圧し聖霊召喚の隙を与えないこと。一番信頼できるのは鍛え上げた自分の筋肉じゃからな!」

 うるっせーよ脳ミソ筋肉野郎! 唾飛んだぞ!

 けど実際、俺が聖霊の召喚を封じられているのは事実だ。

 その時、俺は砂浜に足を滑らせ態勢を崩す。

 あっ、やべ。

 岩をも砕く武蔵の拳が俺の顔面に迫る。この状況じゃ避けられねえ。スローモーションのような世界でそれだけは理解できた。

 反射的に俺は瞼を閉じる。暗闇の中で来たるべき衝撃に備えた。

 あの岩と同様に俺の顔の骨もグシャグシャに砕かれるであろうことは想像に難くない。

 視界を閉ざした世界で俺の耳に届いたのは、何かを受け止めたような乾いた音だった。

 恐れていた衝撃はいつまで待ってもこない。

 不思議に思い目を開ける。そこには俺と武蔵の間に新たな登場人物が割り込んでいた。

 武蔵の拳は彼女の小さな掌に止められている。

 背中まで伸ばされた日本人形のように綺麗な黒髪。小柄な体躯を包むのは初めて森で会ったときと同じパンクな白シャツと黒いキュロットパンツ。

 俺の前に立つ少女がポツリと言葉を零す。

「先生に手を出さないでください」

 彼女は大男の拳を握った右手を自分へと引き寄せる。そして体勢を崩した武蔵の腹部に左ストレートを叩き込んだ。

「ぐっ」

 武蔵は息を詰まらせながら後退し、少女と距離を置く。

 そんな武蔵に向けて彼女は宣言した。

「相馬先生をボコボコにしていいのは私だけです!」

 深山静佳、俺がガーディアン・スクールに来て初めて出会った少女。

 同時に俺のことを心の底から恨んでいる彼女がそこに立っていた。

「し、静佳?」

 全く予想外の人物に助けられ、俺の思考はフリーズする。

「星観さんから話は聞きました」

 そんな俺の方を振り返り、静佳は意地悪く笑って見せた。

「なんでも相馬先生は盗賊の親玉に利用されるだけ利用され、最後には切り捨てられて夢幻の鍵も奪われたそうですね。ざまあない。少しは私の気持ちがわかりましたか?」

 ああ、そうか。俺は静佳に本当に酷いことをしたんだな。

 彼女の痛みを今更ながら理解する。

「まじで悪かった。ごめんな静佳」

「謝っても許しません。後で私刑です」

 それは置いといて、と彼女は武蔵へ視線を向ける。

「この人が無幻の鍵を奪った盗賊の仲間ですか?」

 その問いに俺は首肯する。

「ああ、それだけじゃない。紗雪を助ける為にはこいつを倒さなきゃいけないんだ」

「紗雪ちゃんを?」

 紗雪の名前を聞き、静佳の目の色が変わる。

「頼む! 紗雪を助ける為にお前の力を貸してくれないか?」

 静佳を一方的に裏切っておいて、こんなこと頼めた義理じゃないのはよくわかってる。

 でも彼女だってルームメイトの紗雪を助ける為ならきっと協力してくれる筈。

「嫌です。どうして私が相馬先生に手を貸さなきゃいけないんですか?」

 えええええええ! 速攻で拒絶されたんだが!

「先生に協力するなんてまっぴらです。それよりも先生が私の手足になるんです。この盗賊を倒す為に、少しは役に立ってください」

 ぷい、とそっぽを向きながらそう言い放つ。全くこいつは、素直じゃねえんだから。

 そんなやり取りをする俺たちの間に大男の野太い声が割り込んでくる。

「ほう、ワシを倒すとな。随分な自信じゃのう。じゃがな、聖霊に頼った軟弱な戦い方しかできん奴にワシを倒すことはできんわ!」

 言うが早いか武蔵は地面を蹴り、静佳に飛びかかる。

 そして彼女の頭上へ丸太のような腕を振り下ろした。

「静佳、あぶねえ!」

 突然の事態に俺はそう声を飛ばすことしかできない。

 瞬間、静佳の姿がぶれた。

 武蔵の拳が静佳の頭に叩き落とされる。だが彼が捉えたのは静佳の残像だった。

 静佳は武蔵の懐に入り、彼の腹部に飛び膝蹴りをお見舞いする。

「一つ、訂正してください」

 静佳の膝をモロに喰らい、武蔵の動きが止まる。

 後方に着地したところで静佳は言葉を放つ。

「残念ながら私の聖霊は相馬先生に盗まれたまま、今の私には聖霊を呼ぶことはできません」

 ですが、と彼女は続ける。

「聖霊術師が誰も彼も聖霊に頼って戦っていると思ったら大間違いです。聖霊がいなくても、私自身が聖霊より強ければ問題ない!」

 相変わらずの脳筋! それでこそ静佳だ。

「おい、気を付けろ静佳。そいつは一筋縄でいく相手じゃないぞ」

 俺は彼女に警戒を促す。そこに暗い笑い声が響いた。

「くっくっく、うわっはっはっは! 面白い! お前のような聖霊術師もおるもんじゃな」 豪快に笑う大男を見て、静佳は表情を歪める

「随分元気ですね。私の膝を受けてノーダメージですか」

「おうよ。ワシの体は鍛えに鍛え抜いた筋肉に守られている。お前の貧弱な蹴りぐらいではビクともせんわ!」

 不適な笑みと共に武蔵はそう言い放つ。

 俺も静佳に言葉をかける。

「気を付けろ静佳。あいつの鋼の肉体には銃弾も効かなかった。常識の通用する相手じゃない!」

「それはおかしいですね」

 そこで静佳に顎に手を当て、小首を傾げた。

「銃が効かないにしても、私の膝は銃弾の数倍の破壊力がある筈なのに」

「いやその前提がおかしいだろ! お前はお前でどんだけ人間離れしてんだよ!」

 いかん、超人二人を前にしてツッコミ専用機と化してしまう。

「下がっていてください先生。ここから先は先生がついてこれる戦いじゃない」

 彼女のその言葉と共に武蔵が静佳へ襲いかかる。

 彼の繰り出す拳の嵐を静佳は躱しつつ、反撃の拳を繰り出す。

 だが武蔵の鋼の肉体の前には並の攻撃は蚊に刺されたようなものらしい。

 あいつは静佳の拳や蹴りを受けても全く怯む様子がない。

 対照的に武蔵の岩のような拳は一発喰らえば怪我じゃ済まない。

 それは静佳が攻撃を躱す度に周りの物を砕いていくその破壊力を見れば明らかだ。

 俺もボーッと見てる場合じゃねえな。そう思ってポケットから一枚のカードを取り出す。

 黒猫の描かれたカード、静佳の聖霊サイレント・アサシン。

 こいつを静佳に返せば彼女の戦力を強化できるだろうか?

 そう考えて、いやと俺は頭を振る。

 聖霊を彼女に返したところで恐らく無意味。静佳は元々格闘戦を得意とするタイプだ。

 自分の体を動かしながら同時に聖霊を使役することを彼女は苦手としていた。

 ならば俺が聖霊を操り静佳を援護することこそ最善手だ。

 そう結論付けると俺はカードを翳し、紫色の魔方陣を描く。

「こい、サイレント・アサシン! 静佳を助けろ!」

 魔方陣から黒猫が現れ、静佳の元へ飛んでいく。

 彼女の左手に黒猫が飛び乗ると、驚いた顔を見せる静佳を尻目に黒猫は黒い影へと姿を変え静佳の手にまとわりついた。

 そしてそれは漆黒に輝く三本爪となり静佳の左手に装着される。

 闇の爪アサシンズ・クロー

「これは!」

「俺からのエールだ。受けとれ静佳」

 彼女は戸惑った様子で爪と俺を交互に見た後、ふっと笑う。

「ありがたく使わせてもらいます」

 そう言い残して再び武蔵へと立ち向かう。

 静佳の黒き爪が武蔵を襲う。武蔵はそれを右手で受け止めるが、指の間から血が流れ落ち表情を歪ませる。

「ほう、ワシの体に傷をつけるとは。中々やるのう。だが!」

 武蔵は闇の爪を強く握ると静佳の体ごと頭上へ放り投げた。

「えっ」

 静佳が目を丸くする。

 しまった。空中では敵の攻撃を躱せない!

「静佳ー!」

 重力に従い静佳の体が武蔵の上へ落ちていく。

 武蔵は待っていたとばかりに口許に笑みを浮かべると、静佳の体に無数の拳を叩き込んでいく。

 やべえ! 彼女の手足があらぬ方向に曲がり、静佳は目を見開き口から血を吐き出す。

 一瞬の油断が命取りとなり、これで決着がついた。少なくとも武蔵はそう思っただろう。

「残念でしたね」

 武蔵の背後に回り込んでいた静佳が武蔵の後頭部へ肘を叩き込む!

「貴方が今攻撃したのは、サイレント・アサシンが生み出した私の影」

 サイレント・アサシンは影を操る聖霊。こういう使い方もできるってわけだ。

 元々これは生徒会長になるために俺と静佳の秘密特訓で編み出した戦法のひとつ。

 ただ静佳一人では影を操りながら自分も戦おうとすると集中力が散漫になり上手くいかないとお蔵入りになった作戦だ。

 だが今回はサイレント・アサシンを俺が操っている。

 俺が影で偽の静佳を作り出し、敵がそちらに気をとられている隙に本物の静佳が奇襲する。咄嗟に俺の意図を汲み取ってくれて嬉しいぜ。静佳。

「やっぱり相馬先生と一緒に戦うのは楽しいですね」

 彼女はそう言って微笑む。そんな静佳の前に武蔵が後頭部をさすりながら立ちはだかる。

「ふん、やってくれるのう。だがよかったのか? 今の作戦でお前は聖霊を手放した。あの闇の爪がなければワシにダメージを与えることはできんぞ」

「いいえ、今の攻撃で貴方の弱点がはっきりとわかりました」

 自信に満ちた顔で彼女はそう吐き出す。

「どれだけ筋肉を鍛えようと人の体には急所というものがある。そこは筋肉では守れません!」

 静佳の肘を後頭部に喰らった武蔵は明らかにダメージを受けた様子だ。

 頭部こそ人間の急所のひとつ、筋肉では守ることができない。

 静佳は地を蹴り武蔵へ接近し、彼の顔面を狙って右の拳を打ち出す。

 だがそれは武蔵の右手に受け止められる。

「ふん、何を言い出すかと思えば。頭が人間の弱点じゃと? そんなこと小学生でも知っておるわ!」

 だからこそそこへの攻撃は絶対に阻止する。

 静佳が左の拳で武蔵の顔を狙う。だが今度は武蔵の左手に受け止められてしまった。

 彼女の両腕は交差する形で武蔵にキャッチされている。

 くそっ、万策尽きたか。

「ふん、どうやら手詰まりのようじゃな」

 武蔵が勝ち誇った笑みを浮かべる。

 まずい、この不利な体勢のまま静佳が反撃を受けたら。

「いいえ、この時を待ってたんです」

 静佳の呟きがその場に響く。次の瞬間、静佳は武蔵の顔面へと突っ込み。

「おらあ!」

 叫び声と共に頭突きを喰らわせた。

 武蔵の体勢が崩れ後方へ吹き飛ばされる。

「ば、馬鹿な」

 白目を剥きながら、武蔵は砂浜に転がる。

 なんて戦い方をするだこいつは。こんなの聖霊術師の戦い方じゃねえ。

 ただの喧嘩じゃねえか。

 仰向けに倒れた武蔵へ向けて静佳は言う。

「申し訳ないですが、私はお上品な戦い方なんてできませんよ!」

 って静佳! 額から血が流れてるじゃないか! 早く手当てをしないと!

「くっくっくっく、うわーはっはっはー!」

 その時、仰向けに倒れた武蔵が唐突に笑い始めた。

「面白い。ならばワシも奥の手を出そうじゃないか」

 武蔵は懐から一枚のカードを取り出し、それを掲げる。

 虚空に紫の魔方陣が描かれ、そこから炎が生み出された。

 ここで聖霊の召喚だと!

「てめえ、聖霊には頼らねえんじゃなかったのかよ!」

「確かにワシは聖霊に頼るような戦い方は好まん。だが聖霊を使わないとは言っていないのでのう」

 倒れたまま武蔵の口許がニヤリと歪む。

 魔方陣から放たれた炎は天高く舞い上がり、燃え盛る烈火の龍の姿を形作った。

「これがワシの切り札! 轟炎龍烈花散ごうえんりゅうれっかざんじゃ!」

 龍は咆哮と共に静佳めがけて急降下してくる。

「やべえ! 静佳、逃げろ!」

 あんな炎の塊を喰らったら、いくら静佳でもひとたまりもない。

 なのに彼女はその場から一歩も動く様子を見せなかった。

「龍には、因縁がありましてね」

 あのバカ、正面から受け止める気かよ。

 さっき武蔵に投げ飛ばされたサイレント・アサシンの方を見る。

 黒猫が必死に静佳の方へ走っていくところだ。頼む間に合え!

「半年前に私が戦った魔神、千魂蛇龍せんごんじゃりゅう。あの怪物に比べればこの程度の龍、怖くもない!」

 黒猫が地を蹴り静佳へと飛ぶ、その姿が黒い光となって彼女の左手を覆った。

 その手に再び闇色の三本爪が装着される。

 俺のそんな援護を静佳は当然と言わんばかりに受け取り、左手を構える。

 いよいよ静佳の眼前まで烈花散が迫る。

「こんなところで私は立ち止まらない!」

 そこで彼女は左手を振り抜いた。

 漆黒の三本爪は闇色に輝く軌跡を残し轟炎龍の体を切り裂く。

 燃え盛る炎の龍は四つに切り裂かれた後、その姿を保てなくなり霧散していった。

 全く静佳の奴、無茶してくれる。

 静佳は砂浜を踏みしめ、仰向けに寝転んだ武蔵の方へ歩いていく。

 俺も彼女の背を追った。

「おい、静佳。お前さっき額から血を流してたろ。手当くらいしろ」

 静佳に追いつくと俺は半ば強引に彼女の頭に包帯を巻く。

「まったく、準備がいいですね」

 呆れたようにそう呟くと彼女は改めて武蔵に視線を向けた。

「貴方の切り札は打ち破りました。まだ戦いますか?」

「くっくっく」

 心底愉快そうに武蔵は笑う。

「いや、ワシの負けじゃよ。お主、名はなんという?」

「深山静佳です」

 俺が手当てしてる横でなんか普通に会話してんじゃねえよ。

「深山静佳か、覚えておこう。お主はいい目をしている。怒りに燃え、宿敵を打ち倒すまで誰にも負けないという鋼の意志を感じる。ポセードと同じ目をしておるよ」

「ポセード? 誰です?」

 ああ、静佳は知らないんだったな。

 武蔵の言葉にはお構いなしに静佳は自分の想いを吐き出す。

「私は立ち止まるわけにはいかないんです。あの魔神を倒すまでは」

「お主も魔神に何やら因縁があるようじゃの。そんなところまでポセードとそっくりとは」

 ふっ、と笑い武蔵の視線が海賊船に向く。

 つられてそちらを見ると海賊船の甲板にポセイドン海賊団の団員が何人も集まっていた。

 おっ、やる気か。俺と静佳が身構えるその横で武蔵の声が船へと浴びせられる。

「おい、お前ら。ポセードとの約束じゃ。人質を解放しろ」

 それを受け、団員達が慌ただしく動き始める。

 船からスロープが砂浜へと降ろされ、団員の一人が車椅子を押して船内から出てくる。

 あの車椅子に乗っているのは、見間違えようもない。

 緩くウェーブのかかった栗色髪の少女。紗雪だ。

 ついにやった。紗雪を助け出す時が来たんだ。

 車椅子がスロープを下りてくると俺は真っ先に彼女に駆け寄った。

「おい、紗雪」

 紗雪は俯いていてその表情は見えない。

 彼女の顔を覗き見ると、瞳を閉じ眠っているように見えた。

 嫌な予感がする。いや、ただ眠っているだけの筈だ。呼吸も体温もある。

「紗雪起きろ、俺だ」

 彼女の肩を強めに揺さぶる。

 普通ならどんなに熟睡していても目を覚ますだろうってくらいの振動を与えた。

 なのに彼女は瞳を開くことなく眠り続けている。そこで漸くおかしいと確信した。

「てめえら、紗雪に何をした?」

 ギリっと歯を食いしばり周囲の海賊共を睨む。それに答えたのは武蔵だった。

「何をした、か。それはむしろワシらの方が知りたいくらいじゃ」

 何、どういう意味だ?

 俺の疑惑の視線を受けて武蔵は語り出す。

「その嬢ちゃんの聖霊は不思議な術を使う。その力でアラネアは眠らされ、今も目を覚まさん」

 アラネアが昏睡状態? それを紗雪がやったって言うのか?

「ああ、そしてこの子を眠らせたのはポセードじゃ。ポセードが言うには嬢ちゃんの術を跳ね返したらしい。結局ワシらは嬢ちゃんがどんな原理でアラネアを眠らせ、どうやったら目覚めさせることができるのかわからないままじゃよ」

 その話を聞いて俺は空を見上げる。

 監視用に空に放っていたシムルグが羽をはためかせながら降りてきて俺の肩に止まった。

 シムルグの力、それを跳ね返されて紗雪は眠りについたというのか。

 でも俺はシムルグの能力について何も知らない。一体どうすればいいんだ?

 そう悩んでいると、静佳が口を挟む。

「なるほど、心を操るシムルグの力による催眠暗示ですか。となると紗雪を目覚めさせるのは難しそうですね」

「静佳、お前は知ってるのか? シムルグの能力の詳細を」

 その問いかけに静佳は首を横に振る。

「紗雪は人前では殆ど聖霊を召喚しませんでした。実技の授業も見学ばかり。相馬先生もよく知ってますよね?」

 確かに、単なるサボリかと思っていたが、今思えばアイツは自分の力を隠していたのか。

「紗雪の聖霊は人に気付かれずに力を行使することを得意とする。ルームメイトの私でもその力の詳細はわかりません。それよりも」

 そこで彼女は俺の肩に止まる白い鳥に視線を向ける。

「今のシムルグの所有者は相馬先生ですよね。シムルグについては貴方の方が詳しくあるべきなのでは?」

 俺が? 以前、兄貴も言っていたな。俺はシムルグの本来の力を引き出せていないと。

 俺がシムルグを使いこなせなければ、紗雪はずっと眠ったままというわけか。

 その時、遠くで何かの爆発音が響いた。

 なんだ!

 そちらの方角を見る、山の中腹あたりから黒い蛇のような怪物が顔を見せていた。

 あれは地下迷宮のあるあたりか。ということは兄貴が魔神の封印を解いた?

「あれは、魔神」

 その姿を見て、一度魔神と対峙したことのある静佳は呟いた。

千魂蛇龍せんごんじゃりゅう

 解き放たれた魔神は山の中で暴れ始める。

 あの山は学校のすぐ裏手だ。このままじゃスクールにも被害が出る。

 瞬間、静佳は弾かれたように駆け出した。

「おい、静佳。どこへ行くんだ?」

 俺も車椅子に乗っていた紗雪を背負い静佳の後を追う。

 こちらを振り返らず、静佳は珍しく焦った様子で答えた。

「学校です。凛音を助けないと!」

 凛音を! お前、凛音の居場所を知ってるのか?

 聞きたいことは山ほどあったが、俺は静佳の後を追って道路を走るのが精一杯だ。

 すまん、こっちは紗雪を背負ってるんだ。少しは待ってくれ。

 学校につくとそこは混乱に包まれていた。

 山の方では遠目にも黒蛇と死神がドンパチを繰り広げているのが見える。

 今はまだ学校内に被害はないがいずれ戦いが激しさを増せばここも安全ではなくなるだろう。有事の為にと普段から力を蓄えてきたガーディアン・スクールの生徒達も所詮は十代の少女に過ぎない。魔神の復活を目の当たりにして我先にと逃げ惑う彼女達の姿は誰にも責められないだろう。

 教師達の避難誘導を無視して学校から逃げ出す人の波に逆走して俺と静佳は校内へと進入する。

「遅いですよ、先生」

 階段の上に立ち、彼女はこちらを振り向く。

 いや、マジで人ひとり背負って静佳についてくのしんどいからね。

「どこ行くんだよ、一体」

 ひたすら上の階へとのぼり続ける彼女の目的地が見えず俺はそう零す。

 気付くと最上階まで来ていた。

 学校関係者は殆どが外へ逃げている。この階には人の気配もない。

 静佳はそれでも足を止めず、さらに上への階段をのぼる。

 この先は屋上だが、そこへの扉は閉ざされていることを俺は知っている。つまり行き止まりだ。

「いえ、ここが目的地です」

 踊り場の大鏡の前に立ち、静佳はそう告げる。俺もそんな彼女に追い付いた。

「ここが?」

 俺も何度か見たことがある。不思議な気配の大鏡。

 静佳が鏡に手を触れると、硬質な筈の鏡は水面のように揺らいだ。

「この鏡は隠し部屋へと移動する為のワープ装置になってます。今、指紋認証でロックを解除しました」

 マジかよ。隠し部屋にワープ装置。そんなものがあったのか。

「前に星観に聞いたときは隠し部屋なんて無いって言ってたのになあ」

 俺のぼやきに静佳は冷ややかな声を返した。

「本当に星観さんがそう言ったんですか?」

 ええと、あれは確か。俺は数日前に音楽室で彼女と交わした会話を思い出す。


 ――この学校はお爺様が創られたものです。私もお爺様からこの学校のことを沢山教えてもらいました。隠し通路や隠し部屋なんて、もしそんなものがあるなら私が知らない筈ありませんよ。


 なるほど、確かに隠し部屋や隠し通路が無いとは一言も言ってないな。

 あの狐っ子め。星観のしたたかさを改めて思い知ったところで、俺は静佳に問いかける。

「おい、静佳。お前は凛音が行方不明になった事件について知ってるんだな」

 静佳は訝し気に俺を見つめ返した。

「貴方は? 凛音の何なんです?」

「俺は凛音の兄だ。アイツの家族だ。凛音の行方について知る権利がある」

 どうやら俺と凛音の関係までは静佳に伝わってなかったらしい。

 彼女は一瞬、驚きに目を見開いた後、納得したように言葉を零した。

「なるほど、貴方が。凛音から何度か聞かされました。大好きな兄の自慢話を。自分のどんな我儘も聞いてくれる優しいお兄さんの話を」

 そうか凛音がそんなことを。そこで静佳の表情が暗くなる。

「あの子と一緒に暮らしてあの子の我儘をいちいち聞くのは本当に大変だろうなって同情します。でもその反面凛音があんなに我儘お姫様に育ったのって、そのお兄さんとやらが甘やかしたせいじゃないかとも思ってました」

 うっ、それは確かに否定できねえ。両親からも俺は凛音を甘やかしすぎって言われるし。

「けどこれで納得しました。だから紗雪は貴方についていったんですね」

 紗雪が?

「紗雪のシムルグは人の心の声を聞くことができる。その力で相馬先生の正体も最初から知ってたんでしょう。あの子は相馬先生が凛音の家族だと知った上で貴方についていった」

 それは何の為に?

「紗雪は俺が凛音を救えると信じていた。きっと凛音に関する情報を俺に話して、凛音を助けるつもりだったんじゃないか?」

「でもその様子だと、紗雪は貴方に真実を話すことができなかったようですね」

 確かに、紗雪は事件について何か知っているようだが詳しい話を聞くことができなかった。もっと早くアイツの方から話を切り出す機会はあった筈なのに。

「きっと紗雪は怖かったんですよ。先生に真実を伝えることが」

 それほどまでに話すのを躊躇う真実ってのは一体何なんだ?

 その時、校舎が揺れる。

 ちっ、山の方での戦いの余波が少しづつ近づいてくるのか。

「おい、静佳!」

 俺は今すぐにでも凛音の行方不明の真相を聞き出したかった。だがそれは時間が許してくれない。静佳も切迫した様子で俺に言葉を向ける。

「今は長話している時間はありません。そんなに知りたければシムルグの力を使ってください」

「シムルグの? 心を読む力か」

「ええ、心言領域で私の心を読み取れば一瞬で理解できる筈です」

 俺はポケットから白い鳥の描かれたカードを取り出す。シムルグの力、これを静佳に使う。

「いいのか?」

 それは不思議な問いかけだった。心を読む能力っていうのは一方的に使うイメージがある。こうして相手の許可をとって心を読ませてもらうのは新鮮だ。

 静佳が事件当時のことを頭に思い浮かべてくれれば、俺は一瞬でそれを理解できるだろう。

 静佳は迷いなく頷く。

「ええ、でも私の心に土足で入り込むんです。相応の手土産を持ち帰ってください」

 彼女の真っ直ぐな瞳が俺を射抜く。

「手土産ってどんな?」

「紗雪を、眠りから覚ましてください」

 一瞬、静佳の瞳が不安に揺れたように見えた。

 眠った紗雪を目覚めさせる。その方法は未だわからない。過去の記憶を手掛かりにそれを見つけろというのか。

 それが可能なのか俺にはわからない。でもきっと俺にしかできないから静佳もこうして可能性に縋っているのだろう。だから迷うわけにはいかない。

「ああ、わかった。約束する」

 その時、ドクンという鼓動を感じた。

 ポケットに入っていた残り二枚のカードを取り出す。サイレント・アサシン、金銘獅子雷獣。そして心言霊鳥シムルグ。三枚のカードが淡く輝き、そこに宿った聖霊達が共鳴しているように感じた。こいつらは一体何を伝えようとしているんだ?

 再び校舎が大きく揺れる、下の階からものすごい破壊音が響く。

 戦いの余波で校舎の壁に何かぶつかったのだろう。なんにせよ時間はそう長く与えられてないようだ。

 静佳が俺に左手を差し出す。俺も右手にカードを持ったまま、左手で彼女の手をとった。

 瞬間、俺は理解する。半年前のあの日起こった悲劇の全てを。

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