17.2 それぞれの器、小樽の別れ(中)

 ロシア人は男がほとんどだったが、確かに女がいないわけではない。彼らの声は風のせいで遮られる時と比較的よく通る時がある。

 エウドキアは耳を済ませ、そして目星をつけて足早に歩き出す。鹿屋が後を追い、女史も話を切り上げてついていく。式典用テントの方向だった。声の主は実際テントの下にいたらしく、そうやって三人で歩いて行くうちに気づいて日差しの下に出てきた。そうすると赤い髪がほとんどピンク色に光った。顔立ちもはっきりする。

 それはナゴフ博士の研究室にいたのと同じ少女だった。足首までありそうなダークグリーンの制式外套を着ている。階級章は星二つ。中尉。テントの前で立ち止まって三人が来るのを待っていた。王様みたいに堂々とした立ち姿だった。

「ねえ、エウドキア・ロプーヒナを探しているんだけど」少女は三人の顔を順番に見て、エウドキアにロシア語で訊いた。

「私」エウドキアもロシア語で答える。

「あなたがエーヴァ?」少女は目を丸くした。どうやら九木崎女史の顔は知っているみたいだったから、エウドキアのことは通訳か何かだと思ったのかもしれない。

「そう」

「それって特注の義体?」と少女。

「ねえ、私も初めて見る顔だけど、あなた誰?」

「ああ、私、アナ、アナスタシア。そうだった、わからないわよね。こっちも変わっているんだから」少女はそう言って微笑した。

 エウドキアはしばらく黙っていた。ちっとも顔が変わらないのでわかりづらいのだけど、かなり驚いているらしかった。

「九木崎博士、私たち二人で話してきてもいいですか?」彼女は日本語で訊いた。半歩引いて後ろを振り返る。「サナエフの仲間です」

「いいよ、構わない。何かあったら鹿屋に」女史が答える。答える前に一度アナスタシアに目を向けた。「サナエフの仲間」という言葉の意味を考えたのかもしれない。女史は鹿屋が頷くのを確認して岸壁の方へ戻っていく。

「邪魔はしない」鹿屋はエウドキアの横に立って言った。

「どこで話すのがいいかな」

「さっき曲がってきたところにカフェがあった。そこまで歩けばいい」

 アナスタシアは三人が日本語で話すのを目をぱちぱちさせながら聞いていた。「それで、時間取れるの?」とエウドキアに訊く。

「うん」エウドキアは歩きながら話の流れをアナスタシアに説明した。

 鹿屋はその二人の後ろにいくらか距離を取って随伴する。港を抜けて道沿いに歩いていくと突き当たりを渡ったところに一軒の喫茶店があった。

 鹿屋を外に残し、二人は中へ入って奥のテーブル席に座る。二人掛けのベンチシートが一対、背凭れの上に目隠しの擦りガラス。店には他にもロシア人が何人か入っていた。

 アナスタシアは「ああ、寒かった」と言いながらコートを脱ぐ。中は体にぴったりとした赤いワンピースだった。前に着ていたのとはまた別の赤いワンピースだ。もう少し色味が濃く、丸襟で長袖だった。

「寒い?」とエウドキアは言った。「その体は?」

「生体サンプルのことは知っているでしょうね?」

 エウドキアは頷く。「でもそんなに短期間で培養できるものではない」

「あんた全然口が動かないじゃないの。その喋り方どうにかならないの?」

「だってその必要もない」エウドキアはあえて唇と舌を動かして言った。

 二人から一分ほど置いて鹿屋が入ってくる。入口に近い席を取り、奥の様子が見えるように座った。姿は見えるが話の内容までは聞き取れない、そんな距離だった。

 店員が水とお手拭きを持って二人の注文を取りに来る。

「コーヒーを。コーヒーと同じ分だけミルクをつけて」アナスタシアが先に言った。ロシア語だが飲み物メニューの立て札を指差しして丁寧にジェスチャをつけたので相手も頷く。

「私は何も」とエウドキア。日本語。

「失礼ですがお一人様一点は何かご注文いただかないとお席を用意できないんです」

 エウドキアはしばらく相手の目を見上げる。「アナスタシア、ねえ、何かもう一つ頼まない?」

「どうして」

「人数分頼まないとだめだって」

「ああ、なるほどね」アナスタシアはそう言って食べ物のメニューを開く。

「ちょっと興味があるんですけど、もしここに座っているのが飼い犬でも何か頼まないといけない?」エウドキアは店員に訊く。再び日本語。アナスタシアが注文を決めるまでの暇潰しだ。

「ペットはだめなんです。介助犬ならいいんですけど」

「じゃあ一人客がここに大きな荷物が置いていたら」

「それならたぶん一人分で」

「そう、難しいですね」

「失礼ですが」と店員。エウドキアが口を動かさないのを見ていい加減気づいたらしい。

「ヒトじゃないの。生き物だけど飲み食いはできない」

「ああ、それは――」

 店員が頭を下げたところでアナスタシアが割って入った。「ああ、いいから。このデザート・パンケーキをくださいな」とメニューを指で囲む。

 店員はエウドキアが一応通訳したのをメモして戻っていった。

 アナスタシアはその背中を目で追って、「迷惑な客」と言って瞼の上に陰ができるくらい難しい顔をした。

「そうね。気をつける」とエウドキア。お手拭きの袋を開けて指先を拭う。

「で、何の話だったかな」アナスタシアはテーブルの縁に両腕を置いて体を前に出した。

「あなたの体」

「ああ、そう。――もちろん時間をかけて培養したのよ。何年もかけて。つまりあなたの体も用意してあるの。そんな義体なんかに籠っていることはないのよ」

「だから帰って来いって? もう帰国の勧誘はしないって約束じゃないの」

「私は連邦政府じゃない」

「それにこれは義体じゃない。手間暇かけて作ってもらったものだし、今は私に馴染んでいる」

「決意は固いわね」とアナスタシアは横に息を吹き出す。

「それなら、あなたはなぜ肉体を選んだの? 強制されたわけではないんでしょ」エウドキアは訊いた。姿勢よくまっすぐに座っている。膝も腰も直角。

「なんでって、ずっとそうしたかったからよ。私は人間の体がほしかったの。博士と同じスケールで生きて、おしゃれをして、鏡を見たかった。それだけ」

「それが肉体を他者に押し付け得るような理由になるの?」

「やだ、責めないでよ。さして深い意味があって言ったわけじゃない」

「かもね」

「どうして人間の肉体が嫌なのよ?」アナスタシアはグラスの水を一口飲んで訊いた。

 エウドキアはしばらく考えた。やはり姿勢は崩さないし目はずっと相手のことを見ていたけれど、意識は体から離れてどこか遠くにいるみたいだった。

「自分でもわからない。ただただ自分が人間と同じ種の生き物だと感じることができないんだ。人間という種全体に対しても感じないし、それに、個別の人間に対しても感じない。どれほど好きな人間でも、彼は私とは別の種類の生き物だと感じる」

「私はどちらにあるの?」

「あなたは私と同じ。リーザも、他の仲間も。そう感じる」

 アナスタシアは困ったように顔の横に手を当てて指先で額を擦る。

「ねえ、他の仲間たちもあなたと同じように換装したの?」エウドキアは訊いた。

「換装というか、肉体には移されたわ。もちろん全員が望んだわけじゃない、ただそうしなければならなかったから。そうしておけば、サナエフの技術は人体再生のためのものだって、多少は言い訳が効くでしょう。実際のところ、そうね、まだ大勢が目覚めない。体を受け入れていないし、体にも受け入れられていない。私は特別早い方だった」

「地下は無事なのね」

「うん。あそこだけは全く手つかずよ」

「じゃあ、他の施設は」

「ほとんど閉鎖。資料も機材もみんな持って行かれちゃったもの。今でもまだ毎日のように国防省や警察の調査やメディアの取材やら。憲兵がやっつけたからここ二週間くらいはないけど、前はデモ暴徒もいたのよ。すごいわよ。石とか瓶はまだしも、テレビや冷蔵庫まで投げ込んでいくのね。まるで産廃ヤード。もうそこらじゅう酷いありさまよ。街へ出るのも結構危なかったわね」

 アナスタシアは鞄からカメラを出してサナエフの敷地の中の様子を映した画像を何枚か見せた。

「リーザはこっちには辿り着かなかったのね」アナスタシアが訊いた。

 エウドキアは顔を上げる。「そう、じゃあそっちでも見つからないんだ」

「聞いてない。大佐に聞いた感じだとかなり捜索はしたようだけど」

 エウドキアはポケットから自分の携帯電話を出して地図を日本海に合わせた。

「だいたいこの辺だと思う。最初にメイが飛んできて一時間ちょっと、それからアクラに追跡されて全部で三時間くらい、魚雷を十二本も撃ち込まれた。どちらかというとリーザの方が狙われていたと思う。航跡がどのあたりに重なるのか微妙だけど、ここからこう来て、やっぱりこの辺りじゃないかな」

 店員がコーヒーとパンケーキを持ってくる。コップ、平皿ともコーニングのスノーフレーク。白地にブレスレットのような細い青い模様のついた繊細なデザイン。

「ねえ、その体、本当にただの生身なの?」エウドキアは携帯を仕舞いながら訊いた。

「ただの? まあ、そうね、中枢神経の殻だけは残してあるけど、あとは全く。電子系の端子なんかも全然ついてないし、コンピュータもない。健康に生まれてきた人間が何の損傷もなく生きてきたのと同じ状態。機体至上主義のあんたには不便に思えるかもね」

 アナスタシアはコーヒーをブラックで一口飲む。思ったより熱かったようで一瞬目を瞑った。水で舌を冷やして話を続ける。

「まあでも、この体も悪くないわよ。これからどうするかなんてわからないけどね。そういう自由さを与えてくれる。一つの生き物としてこの世界のどこへでも溶け込んでいけそうな気がする。この世界には人の体のための設備で――いわばインフラで――溢れているものね。全てを自分一人の力でする必要はないし、補給の心配もしなくていい。ああいった機体は私たちの生き方を定めていたのよ。それはある意味では守られていたということだし、またある意味では縛られていたということだった。定まった未来があるというのは安心であり絶望でもある。決まった未来がないというのは不安であり希望でもある」

「人間の生き方は縛られていないのかな」

「そんなことはないでしょうね」アナスタシアは目を斜め上に向けて少し考えた。「人間が構築してきた社会の規模の大きさが選択肢を広げてくれているというだけであって、もしもトナカイの体だったら、やっぱりトナカイが構築した社会とそのネットワークの中で生きていくことになるんでしょう。それが人間の社会と部分的に重なるということはあるかもしれない。でもどちらにしてもかつての私たちの社会よりは遥かに広大な領域、多様な在り方を含んだ、つまり自由な社会よ」

 アナスタシアはパンケーキにナイフを入れる。生クリームとジャムをつけて口に運ぶ。エウドキアはその様子をじっと観察している。

「だけど、私たちには可能性の領域がまだいくらでも残されていたような気がするよ。そこへ飛んでいくには機体でないとだめなんだ。人の体では」エウドキアは言った。

「可能性の領域に飛んでいく、か」アナスタシアはパンケーキの甘さに緩んでいた口元を引き締める。

「うん」

「確かに人間のセンサーは機体ほど充実してないわね。でも機体の方が全て優れているというわけでもない。それはやっぱり動物のセンスだよ。細胞と細胞の相互作用、意識の統制下に置かれない活動、その集合体としての生き物であるが故の得も言われぬ感覚。私はそこに惹かれた。そして実際にこうして移って、今まで知らなかった多くの現象に祝福を受け、あるいは苛まれることもある。つまり、私はこの体に移って飛んだわけだよ。もともとの人間が投影器で機体に繋がって飛ぶように、私はその逆の移行をやったのよ」

 エウドキアは楽しそうに語るアナスタシアに少し気圧されているみたいだった。やや顔を俯ける。

「それは人間だ。多くの人間が多くの方法、多くの方向に試みた可能性だよ」エウドキアは言った。

「そう、まさに人間。それが私だけの可能性でなくても別に構わない。おかしいと思う?」

「いいや。それがアナスタシアだ。私とは考え方が違う」

「体が変わっただけじゃ思想までは変わらないわね」アナスタシアは微笑んだ。「認めましょう、お互いに」

 エウドキアは頷く。それからアナスタシアのコーヒーを借りて湯気をたっぷり鼻に吸い込んだ。飲めないが匂いはわかる。

「博士のことを聞かせてもらわなきゃいけない」エウドキアは言った。

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