17.1 それぞれの器、小樽の別れ(上)

 ドルフィン9のF12は九木崎と中隊が用意したテスト項目を全て消化した。みんなで煤や水垢を綺麗に落とし、塗装が剥げたところもあり合わせの塗料で綺麗にレタッチして、最後にワックスを使って全体をトロフィーみたいにぴかぴかに磨き上げた。白いくせに覗き込むと自分の顔が映るくらいになった。

 ロシア側への引き渡しは小樽港で行うことが決まった。日程も知らされたけど、私たちは基地で留守番して普段通り課業をこなすことになっていた。戦闘部隊が出張っていくと角が立つからだ。ものの扱いは整備小隊に任せる。

 その日の十時半、エウドキア・ロプーヒナは脱衣所の鏡の前にいる。寮には他に石黒のおやじしか残っていない。部屋のテレビからニュース音が小さな虫の声みたいに流れていた。

 エウドキアは洗面台に腰かけて体を捻り、自分の右の臀から膝にかけて洗面台の縁に乗っかっているラインに指で触れ、皮膚の柔らかさを確かめるように指先を少し押し込む。軽く摘み、揉み、さする。顔を近づけてその部分を覗き込む。皮膚の内側には緑色をした血管のシルエットが見える。でもそれは欝血で膨らんだり赤くなったりはしない。生体ではないのだ。指先を膝から腰へ、腰から脇腹へ滑らせる。鳩尾に沿ってファスナーの縫い目をなぞる。

 エウドキアはそうやってまるで自分の体が人間の肉体ではないことを確かめているようだった。義体に移って十日経ってもまだそうして確かめなければならない。もしかしたら、義体が少しずつ生気を帯びていって気付いた時にはすっかり生身に変わっている、そんなファンタジィを怖れているのかもしれなかった。それからヘアスプレーを吹いて髪を梳かし、顔に手を当てて自分の目を覗き込む。鏡の上についた蛍光灯がその陰影をちかちかと青白く照らしている。

 体内コンピュータにアクセスして電池と点滴の残量を確かめ、その他循環器の調子も一通り点検する。再び鏡に背を向けて下着をつけ、スカートを穿き、薄手の大きなセーターを着る。人間の恰好をする。コートを羽織り、その内ポケットに電話と財布を入れる。

 テレビは紋別沖のオホーツク海を映していた。海の黒と氷の白が画面をちょうど半分に分けている。しかし完全な二色ではない。時刻やテロップが表示されている。アナウンサーが各地の海明けを告げていた。流氷の空撮はほんの三十秒ほど映り、そして別の映像に替わった。残念ながら流氷は番組のメインではない。

 表に九木崎女史の古いスープラが走ってくる。まずエンジン音が聞こえ、それから窓の外にゆっくりカーブを曲がってくる黒い車体が見えた。エウドキアはベッドの上に放していたインファン・ゲッコーに手を差し伸べる。ゲッコーはすっと頭を上げてその動作を見るなり手の上に飛び乗り、彼女の腕と肩を伝って反対側の指先から机に飛び移る。卵のスタンドによじ登り、中に入って丸くなる。エウドキアは横に置いてある卵の殻の上半分を少し持ち上げて位置を直す。それだけだ。被せるわけではない。殻の半分がなくてもゲッコーは大人しくしている。この時ゲッコーは手を差し伸べたエウドキアの意図を理解していたし、エウドキアは手に飛び乗ったゲッコーの行動を予測していた。そこに音声のやり取りはなかった。全くなかった。でも両者の意図は通じている。コミュニケーション。

 それからエウドキアはテレビの電源と部屋の明かりを落とし、石黒に挨拶して玄関でブーツを履く。

 鹿屋の腕がまだ治らないので女史が運転席に座っていた。一度鹿屋が降りてシートを前に倒し、エウドキアが後ろの席に入る。鹿屋は珍しくトレンチコートを着ていた。

「狭くて悪いね。窮屈だったら横に座って足を上げてもいいからね。私の場合はその方が楽なんだ」九木崎女史はルームミラーを覗き込んで言った。

「出る前に一度工場に寄ってくれませんか」とエウドキア。

「ああ、構わないよ」

「私の機体、まだそこにありますよね」

 スープラはエンジンブレーキで坂を下って九木崎の正面玄関の前を通り工場の裏手で止まる。エウドキアは車を降りて工場の表、演習場側に回る。ドルフィン9の機体は取り外すべきところは取り外して、カウルなどの付属品も含めると大小五つの木箱に分けて収まっていた。結局一ヶ月ほど日本が預かっていたことになる。木箱の下にフォーク用のパレットがくっついていて、中隊の整備員たちが今まさに一番大きな箱をトレーラに移そうとしているところだった。

 その作業が済んで一度人手が引いたところでエウドキアはトレーラの横に立って木箱の角に手を触れた。両手で押さえ、それから二度叩く。持ち時間は一分足らず。感傷の入り込む隙もない。次の荷物が来るので退避する。やはり邪魔にならないようにするりと工場の中へ入ってドルフィン8の前に立つ。木箱に触れたのと同じ手で膝に触れる。同じように叩く。今度は別に時間の制約はなかったが、それだけだった。裏口から出て車に戻る。また鹿屋が出てきてシートを起こす。エウドキアは「ごめんね」と一言謝って中へ入った。

「もういいの?」九木崎女史が意外そうに訊いた。

「はい」エウドキアは後ろの席に収まりながら答える。

 スープラは九木崎のゲートから通りに出る。別に機体を積んだトレーラーと一緒に走っていく必要はないのだ。単独で現地まで先行する。エウドキアは後席の左側の窪みに座り、フロア中央部の山に足を置いて膝を立てていた。助手席を戻す時に背凭れを避けた姿勢のままだった。鹿屋が様子を確かめるようにヘッドレスト越しに振り返る。エウドキアの視線はちょうど前の二つの席の間に向いていた。まるで目が合うのを待ち構えていたみたいだ。鹿屋は一度目を逸らし、それからもう一度様子を確かめた。でも実際にはその目は別に何も見ていなかったし、鹿屋の動きにも何ら反応を示さなかった。人形のようだった。浅い太陽の光がその頬から首筋、胸元にかけて白い肌をくっきりと照らしていた。息に合わせて喉の下の鎖骨に挟まれた窪みだけが僅かに上下していた。

 工場の前でエウドキアは自分の機体に触れ、同じ手でエリザヴェータに触れた。声は交わさない。私が最初に彼女たちの「声」を聞いたのは無線通信だった。それは必ずしも音声ではない。始めから無線信号として生成したものだったのかもしれない。彼女たちにはもともと音声など必要なかったのだ。今の義体には通信機能はないけど、それでも本人たちにとっては無言でいる方が自然なのかもしれない。黙って触れる。それはただ、行ってきますというくらいの挨拶だったのだろうか。それとも、自分の抜け殻の中から取り出した何かを、眠りに落ちたままの仲間に授けるような意味付けがあったのだろうか。たとえば、エウドキアは自分の襟首に手を差し込んで小さな種火を掬い上げる。両手の中で温められた種火は次第に赤くなり、指の隙間から光が漏れる。エウドキアは両手の器を少し開いて眠っているエリザヴェータの上に翳し、その胸に赤い火の粉を吹きかける。そんな想像をした。

「自分の体を忘れている」九木崎女史が言った。

「え?」エウドキアは訊き返す。現実に引き戻される。ルームミラーに女史の視線があった。

「体の感覚を遮断して内的な想像や思考に没入する。身体に物理的刺激が加えられない限り、どんな姿勢もそれを妨げない」

 エウドキアは少しのあいだ目を瞑って考える。

「あたかも現実と切り離された別の世界であるかのように」女史は続けた。論文でも読むみたいな退屈といってもいいくらいの口調だった。

「確かに、その世界は、今も、昔も、変わらない、同じものであるような気がします。私の体が機体であっても義体であっても変わらない。それはたぶん、私が知っている世界の中で最も大きな広がりを持っていた」

「今は違う?」

「違わない。でも私の体が変わった。いわば、この世界は小さい。でも手の届かない場所があまりに多い」


 ……


 ロシアの貨物船は既に接岸していた。最も北寄りのバースに高い舷側から係留索が幾筋も垂れている。甲板より上が白、船体が黒、喫水が赤、いずれも塗料に艶があってぴかぴかしている。船といえばこういう色使いだよな、というのを思い出させてくれる塗装だった。排水量は二千トンそこそこという感じ。乗組員や軍の技術者たちが岸に上がって大使館の関係者と話したりカメラを首にかけてそこらの写真を撮って回ったりしていた。

 バースの手前には百脚くらいのパイプ椅子が四角く並べられ、その上を屋根だけのテントが覆っていた。椅子が向いている方向に薄っぺらい雛段と来賓用の席。スーツ姿の役人が音響のテストをしている。

 九木崎女史は防衛省の担当者に捕まって舳先の舫がかかっているボラードの前でプログラムの説明を受けていた。エウドキアはその後ろに鹿屋と並んで立って岸壁の縁から下を覗き込んだ。

「汚いな」鹿屋は枯れた水草やごみが吹き溜まっているのを見て言った。

「波が大きく見える」エウドキアは答える。「凪なのに、ここへ落ちたら死ぬって気がする」

「防水じゃないのか、その義体」

「防水だよ。でもたぶん泳ぎ方がわからない」

 エウドキアは二,三歩陸の方へ寄って船を見上げる。舫は波に合わせた張ったり撓んだりする。その向こう端の近くに派手なピンクの鼠返しがかけてある。船にぶつかる海風に乗ってウミネコが舞い、熊みたいに大きなトビがマストのてっぺんにとまってそれを見下ろしている。海からは鳥の鳴き声、陸からはロシア語が聞こえる。

「ロシアに帰りたいとは思わないのか」鹿屋が訊いた。

「うん。戻ったって機体には戻れないし、この義体には煮雪さんの整備が必要だ。いつか身動きが取れなくなる」

 海風。エウドキアは髪が目に入らないように耳の上で押さえながら遠くの景色を眺める。そしてある時ふと陸の方を振り向く。眺めているわけじゃない。何かを探している。

「ん?」鹿屋がその様子を気にした。

「呼ばれた気がした。女の声だ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る