13.2 彼らの言語、撫でる

 正午のチャイムが鳴ったから野球はおしまい。最後の攻守で二小隊が三点、一小隊が〇点だったので用具を仕舞いに行く。勝ち負けはだいたい通しの点差ではなく最後のイニングの点差で決着するのだ。

 松浦とエウドキアは片付けを免除されて一足先に寮が点々と建っているエリアに向かって細い道を登る。一応アスファルトが敷いてあるけど、ここを車で通ることは滅多にないし、路肩はだんだん石がこぼれてきている。こんなところを戦車が通るようなことがあったら一発で舗装が駄目になるだろう。

 道はやがて林の中に分け入り、曲がりくねって、そのカーブの先に寮の建物が見えてくる。高床のログハウスのような建物で、周りに砂利敷きの駐車場がある。一棟の定員が十人前後で、どれも似たり寄ったりだが、完全に同じ形のものはなくて、ほどほどに見分けがつくようになっている。その一棟一棟を寮父や寮母が守っている。彼らは大抵が年寄りだ。他に共通点があるとすれば、それは、頑固ではない、というくらいだろうか。優柔とも違うけど、柔軟性があるのだ。人を咎めることが少ない、という言い方をしてもいいかもしれない。詳しいことは知らないけど、何らかの事情で養子縁組の登録に漏れた人々を九木崎なりにリクルートしている、という説が有力だ。たぶん多くは経済的な基準に満たなかったのだろう。石黒のおやじをはじめとして、元ヤクザ、前科者、といった噂がないわけでもないが。

 ポーチの玄関マットで靴底の泥を落とす。奥のテラスで石黒のおやじが野良ネコに餌をやっていた。ごはんの残りにニシンの干物を混ぜたやつだ。エウドキアは掃き出しを出たところで軽く挨拶を済ませる。

「君がロシアから来た子ね」石黒は特に改まった様子もなく半分振り向いただけで応える。

「はい」

「食事はできるの?」

「ああ、いや」

「んむ。それは残念」おおかた好きな食べ物でも聞いて夕食のメニューにしようと思ったのだろう。

 エウドキアはしゃがんで若いキジトラの一匹を撫でる。

「ネコは初めて?」石黒は訊いた。

「触るのは」とエウドキア。

「そう」

「あと、こんなに間近で見るのも初めて。だって今までは、人間は事情が分かっているからいいけど、他の動物は近くで私が動くととても怪訝そうで警戒した顔をしていた」それから彼エウドキアはネコに訊く。「ねえ、私のことを人間だと思ってるの?」

 ネコは大げさに顎を動かしてごはんを食べている。顔も上げない。首筋に触れられているのだってまるで相手にしていない。そこに手があろうがなかろうがどちらでも構わない、という様子だった。

「そりゃあね、その見かけだもの」と石黒。

「でも生き物がものを判断するのってもっと総合的な感覚でしょう。そこには自分でも説明のつかない微妙な感覚も含まれている。それがわからないのか、わかっているけどどうでもいいのか、そのどちらかじゃない?」

 ベッドは松浦と相部屋のが一つ空いていた。

「男と同じ部屋に抵抗は?」松浦は部屋に入って上の服を脱ぎながら訊いた。

「なぜ?」とエウドキア。

「気にならないなら、別に」

「生まれは女だけど、でも体に性別があったことは一度もないわけで」

 松浦は頷く。制汗シートで体を拭いて新しいシャツを着る。

「この部屋、ずっと一人で使っていたの?」

「そんなことはない」松浦は首を振る。「男もいたし女もいたよ」

 実は今までに二人の女子が松浦と相部屋になっている。それは嫌がらせでも何でもなくて、寮の構造のせいだ。他に部屋が余っていないのである。だから現状の男女比的に我々の小隊の四人目はどうしても松浦と相部屋になる。なんやかんや彼がそれなりに気の利く人間であることは確かだから、一人はそれなりに上手くやっていたが、もう一人は松浦の顔も見ないうちから拒否していた。それで仕方なく檜佐が松浦の方に移って、その女子が私と相部屋になったことがある。でも結局私とも反りが合わなくて仕方なく九木崎の宿直室に移した。

 発端は私が愛用しているスキンクリームだった。彼女はその匂いは嫌いだから私と同じのにしてくれないかと言い出した。真冬に窓を全開にした挙句、お願いだから、と言いつつ私からクリームのボトルを奪おうとしたのである。私は普段の十倍くらいクリームを手にとって自分の額から足の爪先まで隈なく塗りたくって、それから閉めた窓の前に立ち塞がった。部屋を変えてくれと言い出したのは彼女の方だった。

 私だって他人の生活に首を突っ込むタチではないけど、それと同じくらい首を突っ込まれたくないのだ。だいたい初めから個室にしておければいいのだけど、そうすると死んだ時に気づきにくい、籠城しやすい、といった問題もあったようだ。

 エウドキアはその話を聞きながら流しで軍手を洗って窓辺の洗濯バサミに吊るし、それから自分のベッドがどっちなのかを松浦に確認してその縁の真ん中あたりに腰を下ろした。何度か体を弾ませて柔らかさを確かめる。そしてデスクの上に置いてある卵に目をつける。

「あれは?」

「おもちゃのロボだよ。最近買ってきたんだ。そのベッドの上でもずいぶん遊ばせた」

「ロボ?」

「見てみればいい」松浦は殻を開けて手の上にインファン・ゲッコーを乗せる。「何か特別な使い方が決まっているわけじゃなくて、こいつが色々なことを覚えていくのを見守るためのものなんだ。まあ、強いて役割を言うなら、癒しかな」

 ゲッコーはまだ緩慢な動作で松浦の顔を見上げる。それからエウドキアの方へ少し目を動かす。

「最初は何も知らないの?」

「そう。何も。ものの見方も、体の動かし方も」

 エウドキアは自分の手の上にゲッコーを受け取って目の高さに持ち上げる。そうしてしばらくゲッコーを見つめる。じっと動かない。

 少し経ってようやく気づいたようにゲッコーが視線を返す。そのままエウドキアの目を見続ける。

 エウドキアの表情は変わらない。瞬きもしない。ゲッコーも同じだ。目を合わせている。それだけ。言葉もなく、表情もなく、あるいは撫でたり舐めたりするわけでもない。でもそこには確かに何かしらのコミュニケーションが成り立っていた。両者の間で一方が感情のような何かを送り、もう一方が受け取り、そしてまた送り返す。そういった交換が生じていた。それが何を媒体とするコミュニケーションなのか説明することはできない。もしかしたらそれは同じ種族の間にだけ通じる何かなのかもしれない。

 松浦は少し目を大きくして何も言わずにその様子を見守っていた。

 エウドキアが目を逸らし松浦に向かって口を開く。でも言葉は何も出てこない。出てこないまま閉じてしまう。

 松浦は手を差し出す。ゲッコーはエウドキアを見つめる姿勢のまま固まっていたが、ベッドのシーツの上に放すと何度か瞬きをして歩き回り始めた。半月前に舞子が見に来た時に比べると足の動かし方はずっと速くなっていた。

「サナエフで生かされた子供たちの中には最初に人型ではない体を与えられた子供も少しばかりいたんだ」エウドキアは言った。隣のベッドに腰掛け、ゲッコーの動きを目で追っている。

「脳の機能は身体の形と機能に合わせて発達していく」と松浦。

「そう。発達を終えた人間の大人の脳に機能地図の典型が認められるのは、一因として、あらゆる人間がほぼ同じ構造の身体を持つから。別の形態の身体を与えられれば、脳もそれに特化して発達していく。その脳は人間一般の脳とはある程度違ったものになる。それを調べるために動物型の機体を用意したんだ。その中にはこれによく似た姿をしたものもあった。ああ、懐かしい。ちょうどこんなふうに体の動作を確かめるみたいにして」

「彼らはその後もずっとトカゲ型かなんかの機体で?」

「そうね。私はやらなかったけど、時々機体タイプの交換があって、器用に乗り換えられる子もいたし、そうでない子もいた。できない子の場合、今さら人型の義体に入れられて人間に混じって生活しろなんて言われてもどうしようもないだろうね」

「脳の身体への適応は普通七,八歳で固まるんじゃなかったかな」

「どうだったか。でもあなたたちは現に二十歳がらみになっても新しい身体に適応している」

「非人型の機体というのはなかなかエグい気がするね」

「うん。もちろん自分の体を嫌がっている子もいた。だけどサナエフを巨人たちのユートピアみたいに思っているなら、それは違うよ。たとえば人間に比べれば体を動かすことのできる時間は遥かに限られていて、そのくせ動かしたいという気持ちは人並みに起こるものだから、その分ストレスが溜まる。それを発散するには、やはり体を動かして神経系に刺激を入れるしかない。コンピュータから擬似刺激を入れることもできたのだけど、微妙に系統が違っていてそれがわかっちゃうんだ。だから外へ出て自由にできる時間になると私たちは森へ入っていって鬼ごっこみたいな遊びをした。そうすると時々一人か二人戻ってこないことがあるの。逃げ出したわけじゃない。よそへ行っても生きていけないことはきちんとわかっているから。大抵あとになって川原か谷底で死んでいるのが見つかるのね。生身の人間には到底近寄れないような場所で。それくらい過激な遊びなの。お互いが常にハンターであり、かつ獲物であるようなもの。木や地形を盾にして走り回り、飛びかかって揉み合いになり、そのまま転げ回る。命が無事でも足や腕が折れるのなんかザラだった。逆にいえばすぐ直せるからこそそういったレベルになったのかもしれないけど。ともかく、私たちが本当に恐れていたのはサナエフや軍といった権力ではなくて、間違いなく私たち自身だった。私たちは仲間だけど、でも共食いをする生き物だということを意識していなければいけなかった。この世界は私たちにとって十分なほど豊かなものではなかったんだよ。まだ、あるいは、もう」

「遊び、ね」

「楽しいことは楽しいのよ。だって子ネコだってじゃれ合うでしょう。じゃれ合えば怪我だってする」

「規模が違う」

 エウドキアは頷く。「ゆえに私たちは私たちだったんだ」


 ……


 夕食の前にみんなが揃ったところで改めて顔を見せたあと、エウドキアは一人で松浦の部屋に入って明かりをつけたままベッドに横になった。脳には睡眠が、そして義体には充電が必要だった。外界からは何も窺えなかったとはいえ、前の夜は義体に適応するために一晩中活動を続けていたのだ。かなり長い時間眠っていないことになるはずだ。

 充電の方は臍のジャックに電源プラグを挿すか、体の下にコイルマットを敷いて接続なしでもよろしいということだった。エウドキアはマットの方を選んでベッドの上に広げ、その上に仰向けになって布団を被った。

 でもなんだか落ち着かない。体の回りに多くのものがありすぎるのかもしれない。エウドキアはまず毛布を横によける。でも落ち着かなさの原因はどうやら布団ではない。次に服を脱ぐ。靴下を脱ぎ、ジョガーパンツを脱ぎ、セーターを脱ぐ。綺麗に畳んで枕元に重ねる。下着にも手をかけるが、とりあえずそこまでで一度横になる。パット付きタンクトップとショーツ。指先の触覚受容器が部屋の中のやや冷たい空気を捉える。先ほどよけた毛布を体の上にかける。瞼を閉じ、唇を薄く開ける。しばらくそのまま動きがない。どうやら落ち着いたらしい。

 エウドキアは眠る。瞼と口の開き具合、それくらいでしか状態が窺えない。顔の他の部分は動かないし、寝返りも打たない。ただ放熱のために規則正しくゆっくりと胸郭が上下して息をする。鼻孔に生じた気流が微かに震えるような音を立てていた。

 一時間ほどして松浦が部屋に入ってきたが、扉の音では目を開けなかった。布団が気持ちよかったのだろうか。行軍で地べたに寝袋が続いたあとの自分のベッドが格別なのと同じようなものかもしれない。それでも松浦が箪笥の引き出しを開けたりカーテンを閉めたりしているうちに物音で気がついた。エウドキアは目を開けてしばらくぼんやりと天井を見つめたまま自分の体の範囲を認識し直しているようだった。

 松浦はそのベッドの縁に腰を下ろして様子を窺っていた。そのうちエウドキアが手を伸ばして肩に触れようとしたので床に座り直してベッドの側面を背凭れにした。

 エウドキアはベッドに膝立ちして自分の背中に毛布をかけ、その一辺を松浦の上に被せた。毛布はエウドキアの義体の背中や松浦の膝をピークにして山地のような形に広がる。その内側には二人の体に支えられた小さな空間ができあがる。毛布を透過した橙色の光が仄明るく溜まっている。エウドキアは彼の髪を撫でる。前の夜に起き上がって最初に彼にしたのと同じように、毛並みを整えるように。

「随分長い間こうやって人間の頭を撫でてみたいと思っていた」エウドキアは小声で言った。

「人間の」と松浦は繰り返す。

「誰の頭でもいいというわけじゃない。あなただから気が進んだ」

「そう、どのネコでもいいってわけじゃない」

 エウドキアは松浦のその言葉の意味をしばらく考えていた。その間も指先は繰り返し同じ速さで彼の髪を撫で続ける。

「私がここへ来た最初の夜――ここ、というのはこの部屋やベッドのことではなくて、あの工場の中のことだけど――夜中にあなたは私のところへ来たでしょ」

「ああ」

「あそこは夜はとても暗くなるんだね。人はみんないなくなって、まるで深い洞窟みたいに静かになる。私はまだとても気を張っていて、でも眠くて、あまり上手く話せなかった」

「話しに行ったわけじゃない」

「私のところへ? それとも、私のような何者かのところへ?」

「俺は君のところへ行ったんだ。リーザじゃない」

「ねえ、その時と何か違う?」エウドキアは訊いた。

 二人の体はすっぽり毛布に覆われている。松浦は動かない。研究者に捕まえられて観念した小動物のようにじっとしている。目も自分の膝のあたりにとまったままだ。

「少し違う。俺は今何者かの内側にいるわけじゃない」松浦は言った。

「あなたは私の中に入れなくなった」

「でも、少しだ。君に求めるものが変わったわけじゃない。これで十分なんだ」

「なぜ私の中で眠りたいと思うの?」

 松浦はしばらくの間答えなかった。まるで眠っているみたいだった。

 やがてゆっくりと口を開き、言葉を選びながら言う。

「人間がまだ人間という種を持たない神話の中で、一人の人間が生も死もなく存在し続ける。そういった原初の時代の匂いがそこにはあった」

「……旧約聖書?」

「そうかもしれないし、そうではないかもしれない。断片的で、きちんと記憶にも残らない、夢の中のイメージと同じだ」

「タリスにもそれを求めたの?」エウドキアは訊いた。

「なぜ?」松浦は一瞬眉間に皺を寄せて訊き返す。やっと表情が動いた。

「そう、やっぱりね。あなたはタリスに強い親しみを抱いている。でも彼女ではあなたを満たせない。それはきっと触れられないから。あなたには形があり、形のある抱擁を彼女は与えることができないから」エウドキアは相手の体を少し締め付けた。「かわいそうな人」

 かわいそうなヒト。

 松浦はそう聞いて人差し指で目の間を何度か掻いた。それから大きく息を吸って、吸った時よりも速く吐き出した。それは幻滅の溜息だった。そしてその幻滅はエウドキアではなく松浦自身に向けられたもののように思えた。

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