18 楽しみましょう、死が訪れるまでは

 九木崎の工場はドルフィン9が運び出されたせいで少しばかり寂しくなった。何も入っていない冷蔵庫みたいに物足りない感じがする。二週間余りは二機のF12がそこに並んでいたわけだが、今はただ傷ついたままのドルフィン8――エリザヴェータの機体が伏せっているだけだ。脚と腕を畳んで細長い上体を前に倒し、顎を地面につけている。まさに伏せている。微かな夕日の中で見るとそれはまるでとても古い機械の残骸のように見える。私、柏木碧かしわぎ へきはキャットウォークの手摺に肘を預けて夕日と陰に満たされた工場の中をしばらく眺めている。

 手摺に寄り掛かった肘の下が次第にだるくなってくる。もういい、そろそろ帰ろう。風がシャッターを騒がせていた。普段なら駐機場の方を回って帰るところだけど、外は冷えるだろうし、キャットウォークから下りるのも面倒だ。今日は九木崎の母屋を通っていこう。カーベラの機体コンピュータの電源を切り、投影器ケーブルのリールを巻き取りつつ端子を抜く。胴体後部に足をかけてダンクシュートのようにハッチを閉める。IDを翳して渡り廊下を抜け、母屋の三階へ上る。廊下の端に出た時、反対の端、つまり裏口に人が入ってくるのが見えた。

 背丈、髪型、歩き方からして松浦だ。彼は風除室の泥除けマットでブーツの底についた雪を落とし、廊下側の扉を引く。彼はそこで私に気付いた。扉を引いたまま私が風除室に入るのを待っている。でも私は進まない。松浦の恰好に興味が湧いたからだ。妙にシックな服装だった。黒いウールのショートコート。前を開けているので中も見える。紺のブレザー、細い格子のついたシャツ、グレーのチノ。それにブーツ。ブーツだけがいささか不釣り合いにいかつい。

「いい恰好だ。決まってる」

 私がそう言うと松浦は扉を支えておくのをやめて廊下へ入ってきた。「靴が変だろ」

「変だ。私も思った」

「これしかなかったんだ。いや、ないことはない。茶色の革靴さ。でもあまりに滑りすぎる。底に溝がないから」

「靴としてふざけてる」

「ああ、まったくふざけてる」松浦はいくらか廊下を歩いてビニール張りのベンチに腰を下ろした。「結局これしかなかった」

「舞子とデート?」私はまだ扉の前に立っている。一度歩いてきたところを松浦と話すために戻るというのは馬鹿馬鹿しい気がした。

「そんなところだな」松浦はやれやれまったく、といったふうに首を振る。見つかりたくなかったのかもしれない。投げ出すように脚を開いて壁に背中をつける。

「今日はエウドキアが出掛けてるからね」私は言った。

「そいつは不倫だな」

「エウドキアが妻で舞子が愛人ってことになる。私は逆の方がいいと思うけどね。結婚というのは同族の間でするものだ。いや、生物学的にいえば同科、同属か」

「おいおい」松浦は呆れと怒り半分に言った。

 私は肩を竦める。

「彼女ついさっきまで工場にいたよ。まだ待つんじゃないかな」

「別に構わない。俺は自分の支度ができたから下りてきただけだ」

 私もたいがい小声だったと思うが松浦の声も聞き取りづらかった。仕方ないのでベンチの前まで行って、いっそ横に座った。でも隣ではない。間に一人分空けてある。それは必要なスペースだ。もし二人掛けのベンチだったら座らなかっただろう。私は脚を組んで膝の上に手を重ねる。松浦は姿勢を変えない。足を開いて股の間に両手を垂らしている。

「どっちが誘った?」私は訊いた。

「彼女の方……」松浦は答える。「いや、それは都合を確かめてくれただけだな。ほとんどなりゆきだよ。はじめは仮定の話だったものが可能性の話になり、可能性の話が予定になり、そして日取りが決まった」

「アホな軍隊の作戦計画みたいに」

「そう」

「止まれない」

「止まれない」松浦は繰り返す。

「舞子の気持ちには気づいてるんだろう」私は静かに訊いた。目は自分の手の甲を見下ろしている。

「ああ」

「ああ、ね。気づいてるだけだ。酷な男だな」

「確証はない。何も言われてないしな」松浦はまた小声で答える。ほとんど口の中だけで声が響いているくらいの音量だった。

「言えないだけさ。エウドキアが来てますます言いづらくなった」私も小声で返す。

 廊下の空気はクレバスの底のように冷えている。窓から入ってくる光もまるで氷を通したみたいに青い。

「柏木、おまえは聞いたのか」

「ああ、聞いてる。確かめたね。おかげで散々お前の話をさせられた。いい加減直接話してくれ」

「なんだ、そういうことか」

「いい女だよ。器量もいいし、真面目だし、いい体をしてる。そんな上玉なかなかモノにできない。私が男だったら逃しちゃおかない」

「そう。別に俺じゃなくたって、彼女なら引く手数多だ」

「しかし本人が松浦要でなきゃならんと言ってる」

「うん」松浦は溜息と一緒に答える。

「まだエウドキアに気があるのか知らないが、だとしてもそれは人間としてじゃないだろう」

「人間として、か」

 私は膝の上から人差し指と親指をちょっと浮かせて無言で訊き返した。

「柏木の場合、矢守のことは人間として好きなのか」松浦は訊いた。

「悪いけど私はおまえみたいに複雑怪奇な嗜好を抱えているわけじゃない。人間としてもクソもない。他によそ見すべきものもないしな。何者として好きなのか? いわば、生き物としてだ」

「うん」松浦は喉を鳴らした。呟く。「俺は生き物として何を求めるのか」

「とにかく、よく見極めろ。彼女が何を求めているのか」私は脚を解いて立ち上がった。


 ……


 松浦はコートを脱いで階段を下りる。母屋の一階、ロビーのソファに腰を下ろして先ほどと同じように長い脚を投げ出す。目を瞑る。片耳にイヤホンをする。

「タリス」

 返事はない。

「ねえ」松浦はもう一度呼びかける。

 返事はない。

 松浦は唇の上に留まるくらい小さな声で続ける。イヤホンのコードの途中についたマイクがその声を拾う。

「俺はまるで小さな星の上に立って一人で彗星を眺めているみたいだ。いくつもの彗星を眺め続けている。それは星の王子様の星くらい小さな星で、小さい分だけ彗星が近くを通って飛んでいく。彗星は火の玉みたいにとても大きく見える。でも手が届くほど低くはない。ぶつかりそうなほど大きく見えるのに、手は届かない。だから見ていることしかできない。彗星はぶつかってくるわけでもないし、いなくなってくれるわけでもない。たくさんの彗星が俺の星を通過していく。俺はそれを見送るしかない。タリス、俺を繋ぎとめてくれないか」

「繋ぎとめる?」タリスは返事をした。

「心を」

「心を繋ぎとめる。私をあなただけのものにしたい? そういうことなら無理です。残念ながら。私には私の存在意義がある。あなたがそれを望むなら、あなたが私だけのものになることはできるでしょう。私もそれは認めます。でもその逆はない。ごめんなさい、こんなことを言えばあなたは傷つくでしょう。それはわかっていました。あなたは今私に話しかけるべきではなかったのです。でも聞いてしまった以上は答えなければいけない。だから、答えることがせめてもの気持ちだと思ってください。」

 松浦は膝に腕を置いてやや前屈みに俯いたまま黙っていた。

「こっちへ来たらどうですか?」

「いや、こうして話しているだけで十分だ」

 松浦はまた黙り続ける。目を瞑っている。タリスも何も言わない。ただ電話は繋がっている。繋がり続ける。どちらも切ろうとしない。もしかすると彼はタリスの中の景色を想像しているのかもしれない。例えば彼は聖堂の身廊に置いた椅子に今と同じ姿勢で座っている。タリスの像がその背中に手を置く。右の肩から左の肩の後ろを撫でる。もし彼が実際に潜るよりあえて想像するにとどめるのだとすれば、それは潜っていったところで実際の肉体には何ら感覚が得られないからなのかもしれない。虚しいからなのかもしれない。

 五分経ち、十五分が過ぎる。ロビーの中を帰宅する職員たちが通り抜けていく。松浦は石像のように動かない。 

 やがて舞子が仕事を終えてやってくる。彼女はシャンパン色のダウンを着ている。松浦を見つけてロビーの入り口で手を振る。でも呼びかける前に唇をつぐむ。微妙に上げてしまった手を肩の前に浮かべたまま、ゆっくり近づく。足音を忍ばせる。結局声をかけないまま目の前まで来てしまう。そして膝に手を突いて顔を近づける。そのまま間近で横顔を眺めている。

 松浦が薄く目を開ける。

「あなたの耳の形が好き」と舞子。

 松浦は鼻から小さく息を吐く。次いで大きく吸い込む。蘇生の息だ。鮮血が巡るように普段の彼に戻っていく。彼は何度か瞬きする。

「いい服ね。格好つけすぎてない感じがいい」舞子は言った。

「靴のせいだ」松浦は足首を左右に振った。

「緊張してるの?」

「いや、全然別の考え事をしていた」

「じゃあ全然平気?」

「そうでもないけど」

「大丈夫よ。私が呼んでおいて言うのもなんだけど」

 二人は表玄関から駐車場を横切って舞子の車に向かう。古くて丸いクラウン・ロイヤルサルーン。白とクリーム色のツートーン。

「俺が運転しようか」松浦は車の前で提案した。

「いいの。私が乗る時だけの保険になってるし、それに道もわからないでしょ」と舞子。

「真面目だ」

「要くんに言われたくない」

 二人は車の両舷に分かれて乗り込む。

「乗せてもらっておいて言いづらいんだけど、何か手土産を買っておかないといけない」と松浦。

「それもそうね。どこがいい?」

「煮雪家の好みがあれば」

「わかった。じゃあシャトレーゼにしよう。あそこのケーキが食べたい」

 舞子はエンジンをかけてエアコンの吹き出し口に手を翳す。暖房が効いてくるのを待ってヘッドライトを点ける。光は黄色と白の間を揺れ動きながら明るくなる。一度ハイビームに。遠くの標識が小さく反射する。

 走り出す。タイヤが雪と氷を踏みしめる。ハンドルを切る度に車体がゆっくりと大きくロールする。ガラスが曇ってくる。舞子がデフロスターをつける。二人はゲートを出るまでどちらも話さない。緊張感と心地よさが互いに競り合っている。

「エウドキアとは上手くやってる?」先に舞子が切り出した。「彼女が渡ってきてひと月、義体に移って二週間」

「まあまあだね」松浦は一拍置いてから答えた。「ゲッコーとよく遊んでる。いい世話係をやってくれてるよ」

「あれ、要くんはゲッコー飽きちゃったの」

「いいや。そんなことないよ。でも俺が遊ぼうとする頃にはだいたいゲッコーが疲れ切って寝ちゃってるんだ」

「ああ」舞子は納得する。デフロスターを少し弱めて声が通るようにする。

 沈黙。

「あとは本当にまあまあだ。ルームメイトとして上手くやっている。リビングでみんなに混じって話してることもあるし」

 舞子は唾を飲み込んだ。

「ねえ、私に気を遣ってる?」

 松浦は口を開いてからちょっと答えを迷った。「少しは。でも考えてみたら彼女との間のことで舞子さんに隠さなきゃいけないことなんて何もない気がするんだ」

「そう?」

「そう思う」

「あなたたちはもう少し深い関係になっていくと思ったんだけどな」舞子は言った。少し声が震える。「それはもちろん肉体的関係じゃなくて、そうであっても身体は表面に過ぎなくて、もっと精神的にね、本質的に心が呼び合っているみたいな気がした。つまり、あなたたちが出会うのは運命で、ずっと昔からお互いの存在を求めていて、手を取り合えば心の底からわかりあえるみたいな気がしていた。まるでとても遠くにいた二隻の宇宙船が計算に基づいて少しずつ軌道を変えながら近づいて、最後にゆっくり速度を合わせてランデブーするみたいに」

「それは誤解だろうね」

「ごめん」舞子は唇を噛む。

「いや、正直言うと、俺もあるところまではそんなような感覚を抱いていたのかもしれない。エウドキアに対して、というよりも、ドルフィンという存在に対して」

「あるところ?」

 車は国道をまっすぐを走っている。ヘッドライトが照らす地面は黒く濡れ、しっかりとしたセンターラインが途切れることなく続いている。

「エウドキアが機体のままでいる間、俺は自分がどうしようもなく人間であるということを認めずにいられた。どこまででも彼女に近づいていけそうな気がしていたんだ」松浦は言った。「でも違った。舞子さんが作った義体は彼女の姿を限りなく人間に近づけた。でもだからこそそれは生身の人間と彼女とを横に並べて精密に比較することを可能にし、そして彼女が本質的には人間ではないということを浮き彫りにした。それは義肢装具士にはどうしようもない問題だ。あるいは神様が彼女に完全な肉体をあとから与えたとしてもそれは変わらないと思う。彼女が機体の中で生きてきたという過去、事実がある以上、それは誰にも変えられない。仕方がないんだ。そして彼女のそうした新しい在り方は俺の自己認識にも反射してきた。俺自身が彼女の比較対象になった。人間でない彼女に対して俺は結局人間なんだ。我々の間には深い隔たりがある。越えられない渓谷がある。互いの本質をわかりあうことができない。それはいわば種の隔たりだ。共に生きることはできる。でもどちらかがどちらかに変わることはできない。変わろうとすることはできる。でもそれで変われるわけじゃない。扮しているだけだ」

 疎らな街灯が眠った呼吸のようにゆっくりと車を照らし、またゆっくりと後ろへ去っていく。

「要くんは何を以て彼女が人間ではないと感じるのかしら」舞子は訊いた。

「何より彼女の自意識が人間の身体性から乖離している」

「義体が馴染んでいないの?」

「いや、馴染んでるよ。ただ彼女は義体も機体の一つだと思っている。人間はそういう考え方をしない。肉体は唯一、取り替えのきかないものだ」

「そうよね」

「彼女はまた血筋と遺伝子の問題も理解しない」

 舞子はちょっと松浦の方へ目をやる。松浦はまっすぐ正面を見つめている。

「でも彼女だって何もかも意図的に人間的なものを避けているわけではない。ただそうなってしまう、やはりどうしようもない。彼女の在り方はところどころ人間的なものと根本的に折り合わない」

「どうしようもなく折り合わない」舞子は確かめるように言った。

「例えば、彼女といると自分がネコになったみたいな気がする」

「ネコ」

「大人しく寛大なネコ。あるいはネコのぬいぐるみ。どうしても撫でなきゃいけないほどの積極性はない。でも撫でると心が落ち着く。撫でられる方もまんざらじゃない」

「うん」

「人間がネコを撫でるように人間を撫でるもっと大きな生き物っていない。でも彼女はそういう存在なのかもしれない。エウドキアは時々俺のことを撫でる。俺のことが好きだからじゃない。撫でやすい人間だから撫でるんだ。ただなんとなく、そうすると自分も気持ちがいいのを知っているから」

「要くんとしても嫌じゃない」

「嫌じゃない。そしてそれは彼女をとても遠くに感じさせる。まるで別の世界に引き裂かれたみたいに。なぜなら彼女はその時、かわいいと言う」

「可愛い」と舞子は口に出して確かめる。

「可愛いという感情には垂直性がある。自分より上位と思う存在に対しては感じない。下だ。それが彼女の俺についての見方を象徴しているような気がする。それが俺と彼女の間の隔たりだよ。物理的な距離はとても近い。でもそれだけだ」

「可愛い、庇護すべき存在」

「そう」

「あなたは横に並びたかったのね」

「そう思っていたこともある」

「幻滅?」

「俺が勝手に期待を抱いていただけなんだ。彼女は何も悪くない」

「もし彼女があなたに幻滅していたとしても、あなたも悪くない」舞子は慰めるように言った。

 松浦は首を振る。「彼女は肢闘としての在り方を貫こうとしている。俺の方は人間としての在り方を貫こうとしていたわけじゃない。違う。対称でもない。俺たちが人間同士として距離を詰めていくなんて想像はとても非現実的なもののように感じられる」

 窓ガラスがまた曇ってきた。舞子はデフロスターの風を強めた。

「本質をわかりあうことはできない」風の音の中で舞子は言った。「あなたはさっきそう言った」

「うん」

「わかりあえなければ愛は成り立たないのかしら」

「そんなことはないと思う。でも我々はわかりあえる可能性のために近づいていったんだ。初めて朔月の上で話した時から、彼女が我々のところに着くまで。だから俺と彼女の間の隔たりはある意味では致命的なんだと思う。お互いの間に『わかりあう』が成り立たないってことを確認して少しずつ離れていくような気がする。心が離れていくんだ。それは必ずしも別離じゃない。ただ、お互いの存在が当たり前になり、気にかけなくなっていくような」

「ヒトとネコの間にも愛はあると思うのだけど」

「でもそれは目的のない愛だよ。俺と彼女の間にも愛が成り立たないことはないと思う。でもそれは俺たちの求めていたものじゃない。彼女は確かに人間として生まれたさ。だから多くを学び、慣れていけば限りなく人間に近づいていくことはできるかもしれない。でもそんな生き方は彼女の存在の今までも、これからも、両方を否定するようなものだ。何より彼女自身がそれを望んでいない。一方で俺はどうしようもなく人間だ。彼女に近づいていく意志だけでは本当に変わることはできない。結局、そういうことなんだろう」松浦はそこで舞子の横顔を見た。「ごめん、妙に深刻な話になってしまった」

「深刻な話はしたくなかった?」

「いいけど、ちょっと場違いな気がした」

「気にしないで。こんな話はしたくなかったなんて、私は思わない。前にもっと話したいって言った時、半分はシリアスな話でいいと思ってたから」舞子の声がまた少し震えた。

 千歳の街中へ入ってシャトレーゼでバウムクーヘンを買い、車に戻って北北東へ走る。直線の道路が続く。直進、左折、右折。直進、左折、右折、直進。

「そういえばエリザヴェータには何か感じないの?」舞子が訊いた。

「何か?」

「要くんがエウドキアに感じていた期待のようなもの。彼女たちだって一人一人考え方が違うわけでしょう。例えば要くんと碧ちゃんのように」

 松浦は顎に手を当ててしばらく考えた。

「どうだろう。感じないというか、話したことがないから、期待していいかどうか想像がつかない。ただ性格だとか考え方だとかはやっぱり全然違うだろうと思うね。エウドキアの話によると、エリザヴェータは割に大勢の真ん中にいるタイプらしい。うちで言うと檜佐だな。彼女たちの中にも人間の体がいいか機体がいいかちょっとした派閥のようなものがあったらしいんだけど、エリザヴェータはほとんどそつなく両派と付き合っていた」

「ふうん。エウドキアは機体派なのね」

「その中でも尖った方だ。彼女曰くエリザヴェータも機体派なんだけど、バイアスかもしれない。どちらにしろそれくらい意見が分かれるのは確かなんだ。だからエリザヴェータがエウドキアとは全然違う思想の持ち主ということはありうる。人間の肉体を経験していないという点では同じだから、彼女たちの中では、という意味だけど」

「ええ」

 松浦は少し考える。

「ああ、そういう意味では彼女たちは我々と対照的な経験の集団なのかもしれないな。我々には親との間に何らかの確執があるけど、彼女たちは逆に何も知らない」

「そうよね」舞子は素直に頷いた。

「なんだ、思ってたのか」

「思ってたけど言いづらくて」

「それもそうか」

 黒い壁のような林のシルエットの手前に一軒の民家が見えてきた。窓から洩れる光が灯台のようにぽつんと闇の中に浮かんでいた。

 舞子はそこで指示器を出して砂利の上に車を進めた。道路との境に積もった雪を踏む時にぎっと車が沈み込んだ。

 煮雪家は二階建ての一軒家だった。四角いカメの親子みたいだ。その手前にマツダのSUVとアウディのセダンが置いてある。

「今日居るのは両親だけね」車を見て舞子が言った。ハンドブレーキを引いてライトを切る。

「お疲れ様」と言って松浦は車を降りる。ポーチの庇の下に入って髪を整えコートを脱ぐ。

 チャイムは押したが舞子が出迎えを待たずに鍵を開けた。リビングで二人が待っている。母親が内側から扉を開け、父親はキッチンから出てきた。ともに背が高い。母親は細身。タケノコのようなスカートとチュニックとカーディガン。父親はフリースにジーパンだが髪はまだきっちりと固まっていた。どちらかというと父親の方が整った顔立ちだった。松浦はスマートに挨拶を済ませバウムクーヘンを渡した。お互いまだ体面を張っている。

 長く大きなテーブルを囲む。夕食はグリルで焼いたローストビーフをメインとして、じゃがいもやパプリカのソテーなど。大皿からそれぞれの平皿に少しずつ取り分ける。細いグラスにビールを注いで食事を始める。しばらくは料理の話をする。これがおいしい、好物は何か。今日は概ね父親が料理したものだそうだ。普段はともかく、こういったパーティの時はよく父親の担当になる。

「松浦くんは肢闘のパイロットか」ビールを一杯空けたところで舞子の父が言った。ちょっと籠った声だ。「最近はどんな仕事を?」

「機体の無人制御ですね」松浦は口の中のものを飲み込むまでの間に考えて答えた。楕円形のテーブルの長い方を二人が挟んでいる。

「AIか」

「ねえ、あんまり訊いちゃだめだよ。機密を訊き出したってことになったら間諜罪なんだから」舞子が口を挟んだ。

「AI。まあそんなところです。どうしたら人や木にぶつからずに動けるか、とか」と松浦。

「どれくらいのレベルに達してるんだろう」舞子の父。

「リアルタイムで敵味方の識別はきちんとできるようになってきてますよ。顔、迷彩服や武器の種類なんかで判別している。隠れていても熱カメラで見える。そういう位置関係を把握しながら次に自分が足を踏み出す場所を決めていく」

「人間のレベルにかなり近づいてきているわけだ」

「近づく?」

「機械というのはもう少し融通の利かないイメージを持ってたけどね。進めなければ止まる、回って進む。その程度の」

「林の中で障害物を避けながら機敏に動く機能なんかはまだ人間の方が上でしょうね。ただ熱カメラなんかは人間は機械が処理した画像しか目にすることができないわけですから、機械の方が進んでいるというか、一概には比べられないですね」

「AIというのは人間の思考をコンピュータで実現することを目指すものじゃないのかな。そういうふうな理解をしているけど。つまり君たちパイロット、人間がしていることを代替しようとしている」

「純然たるAI研究というのはそういうものなんでしょうけど、今回のは用途が決まってますから、もともとコンピュータがやっている処理も含めて統合して判断・制御するようなシステムを構築している。人間がやっていた判断と操作を機体側に取り込んでいるだけで」

「人間になろうとしているわけじゃないんだ」

「そうですね。九木崎の情報処理分野に関しては、人間に近いか遠いかという尺度で測るのはナンセンスでしょう。あくまでコンピュータとしてどれだけ処理能力を高められるかというのが問題関心ですから。コンピュータにはコンピュータに最適な思考方法があって、その方法は人間の脳とは違う。見かけが似ていても中身は全然通じていない。そういうものだと思いますね。人間の考え方、つまり情報処理や判断の手順はとても参考になるけど、そこが目的地じゃない」

「ふむ」

「人間とAI、どちらがすごいかという問題設定は深海と宇宙どちらがすごいかというようなもので。両方すごいけど方向性が違う、というのがたぶん正しい」

 舞子の父はローストビーフをナイフで切り一切れ口に入れた。

「なぜ人間はAIと競いたがるんだろうか」飲み込んでから彼は言った。

 松浦も肉を切りながら考える。

「道具ではないから。判断するからでしょう。引き金を引けば撃鉄が落ちる、というように操作と動作が一対一に対応してるわけじゃない。間にAIが入れば引き金を引いても撃鉄は落ちないかもしれない。最終的に撃鉄を落とすかどうかを判断するのはAIになる。人間の手を離れる。使う人間次第で便利な道具にも凶器にもなるという問題ではなくなってくる」

「自律兵器の問題か」

「ええ。あるいは一種の生き物として人類と利害関係に置かれる可能性を見ているのかもしれない。家畜か猛獣と同じように、どう共生するのかという」

「しかし猛獣の能力が人間に勝るのかといった議論が危機感を煽る方向へ傾くのは聞かないな」

「たぶんAIの進化が速いからでしょう。猛獣との付き合い方は古来あまり変わらないけど、AIは違う。しかもそれらとどう共生していくのかという人間としての判断にもコンピュータが関わってくる。コンピュータを使わなければ人間は膨大な数値を扱うことができない。AIは人間が生み出し、まだ人間と分離していない。分離しないまま育っている。そういった特殊性がある」

「AIを飼育するのか、それともAIに飼育されるようになるのか」舞子の父は言う。

「家畜は自らを人間に飼育させているのだという見方もできる。特に牧畜は個体の寿命は短くなってしまうが数的繁栄は得られる。それは種として嘆くべきことなのかという問題はあります」

「たとえ人間がAIに管理されるようになってもいい?」

「良い悪いというか、管理されても何ら不満なく生きていくことは可能なんじゃないかと思います。現状、コンピュータを含んだ複雑なシステムの上にまだ人間がいるというだけで、管理されていることに変わりはない」

 松浦は額を拭った。

 舞子の父は「少し暑いか」と言って暖房を一段弱め、バルコニーの掃き出しを開けて外へ出た。ウッドデッキは四畳ほどの広さがあって、軒の外にあるので月がよく見える。眺望もいい。庭の先に若い雑木林が広がっている。暗くてわかりにくいがその向こうはゴルフコースらしい。

「九木崎にも高度なAIがいると聞いたことがある」舞子の父が言った。

「タリスのことですか」と松浦。

「そうそう」

「もとはデータベースなんですが、厖大な情報のストックから自主的に学び整理する機能を持っていますから、処理能力、記憶容量、何を取っても並みのコンピュータとは格が違う。そういった個別の機能を比較すれば当然人間の機能を超えています。ただ、やはり全体としてどちらが優れているとか、高等とか、そんなふうに言うことはできない。生物学的に、他のあらゆる生き物を人間と比べて高等下等であると言えないのと同じです。それぞれ人間と同じだけの時間をかけて、人間とは別の進化を追求していった結果その形態を獲得したわけですから。ただしタリスは生き物じゃない。生き物と言うこともできるけど、それはレトリックに過ぎない。レトリックで理解することは容易い。でも誤謬を生む。人間と他の生き物を哺乳類とか動物とかいったカテゴリで括るように我々とタリスを同じカテゴリに括ることは難しい。生き物、存在、意識体。タリスはどれも違う。正確じゃない。そういった表現の通用しない、次元が違う何か、我々とは交わらない何かだと言うことしかできない」松浦は努めて説明的にゆっくりと話した。「そういう異質な生き物のような何かにどうにか呼称を与えようと苦し紛れに編み出したのが広義のAIという用語なんじゃないでしょうか」

 舞子の父はしばらく黙ってビールを飲んでいた。松浦が言ったことを頭の中で繰り返しているようだった。一口飲み、考え、また一口飲む。グラスを持った手を手摺に置く。

 松浦は家の中をちょっと振り返る。舞子と母親が酔い覚ましの紅茶を飲みながらテーブルで話していた。

 向かいの林の中で何か動く。木々の間ではなく、幹に取りついている。エゾリス。まるで平面を移動しているみたいに素早く幹を上り、枝を伝って隣の木に飛び移る。

「人間は自分たちがこの地球の支配者であるような自覚を持っている。そう思いませんか」松浦は訊いた。

「地球の支配者」舞子の父は無表情に繰り返した。松浦の言ったことが具体的にイメージできなかったみたいだ。

「気候変動の抑制や、絶滅危惧種の保護や」

「なるほどね。どうだろう。人間ほど他の生物や生態系全体のことを考えて、管理しようと努めている生き物は他にいないんじゃないだろうか。他の生き物は人間より敏感に生態系の変化を感じ取るかもしれないが、でもそれを自分から変えていくことはできない」舞子の父は言った。

「他の生き物が何らかの形で地球のための取り組みを意識的にやっているとして、人間はそれを捉えることができるんでしょうか」

「観察の技術も年々高まってきていると思いたいね」

「そうですね。だから想像に過ぎないんですが、他の生物の活動はやはり人間の活動とはスケールが違うだろうと思うんです。アリの活動は人間にしてみればとても高速で小規模だろうし、木々の活動はとても長期的で大規模、あるいはネットワーク的なのかもしれない。そうした活動を人間による観測のスケールやスパンで捉えるのは難しいかもしれない」

「実際、他の生き物も地球を考えていると思う?」

「わかりません。人間的な意味で考えているとはいえないかもしれない。ただ、何かを感じ、行動しているのかもしれないとは思います」

「人間は支配者ではないわけだ」

「そうですね。人間にはそう見えている、そういうふうにしか見えないというだけであって」

「次元が違う」

「次元が違う。ただコンピュータとの関係と違うのは、人間と他の生き物が、現実の空間、肉体の次元の大部分を共有しているということです。ゆえに人間と近いとも言えるし、誤謬を生じやすいともいえる」

「なるほどな」舞子の父はまたビールを飲んだ。グラスが空になる。「人間が地球の支配者であるというのが幻想なのだとしたら、AIに管理されるかもしれないという不安もまた空虚なものだ。それが君の考えだ」

「俺はそう思います。そういう意味では広義のAIは人間の自意識を相対化する機会を与えてくれているのだと。ただ、人間社会を誰が支配するかという実際問題はもっと具体的に議論するべきでしょうね。AIに支配されなければいいとも言えない」

「人間にも酷い政治家や官僚はいるからね」

 冷たい風が吹き雑木林の中で枝葉が揺れる。舞子の父はグラスを持ち替えて空いた方の手をポケットに差し込んだ。

「ねえ」舞子が呼びかけた。戸口の柱に抱きつくようにして二人の背中を窺っていた。「要くん、少し歩かない? 外にお気に入りの場所があるの」

 松浦は舞子の父の方へ顔を向けた。

 舞子の父は首を傾げる。勝手にしろという意味だ。

「上着だけ着てくるから待ってて」舞子は足早に階段を上っていく。

「寒くなってきた」そう言って舞子の父も部屋の中へ戻る。「片づけはいいから」

 松浦は掃き出しの戸を閉めてコートを着込み、玄関から出てバルコニーの下に回った。薄いカーテン越しに部屋の中の様子が見える。舞子はまだ下りてこない。階段に積もった雪を足で下ろしながら待つ。

 五分ほどして舞子はごつい赤色のジャンパーを着てバルコニーへ出てきた。

「あんまり森へ入っちゃいけないよ」とガラス戸が閉まる前に中から舞子の父の声が聞こえる。

「はーい」と舞子は戸を閉める。階段を下りてきて折り畳み式の鉈を松浦に渡した。お互いの手が触れる。心なしか松浦がちょっと手を引いたように見える。

 舞子はちょっと肩を竦めてカンテラを点けた。足元に光と影の強いコントラストが生まれる。カンテラが動くたびに二人の脚の影がワイパーのように揺れる。二人は林へ向かって庭を横切る。積もった雪をずぼずぼと踏んでいく。

「彼はなかなか紳士でいい子だなって。よかったね」と舞子。

「お父さんが?」

「そう」

「それならよかった」

「うちの父も案外物分かりの悪くない人だったでしょ? あなたにもきちんと向き合ってた」

「ああ」松浦は上着の襟に顎をうずめながら頷いた。

「私が九木崎で働くことに反対してるっていうのも、そういうレベルのものなの。大したことじゃないのよ。何となく満足していないみたいな、私にはそう感じられる、くらいの雰囲気であって」

「結局その話はできなかったな。色々考えていたんだけど」

「ありがとう」舞子は微笑んだ。「でもそれでよかったと思う。そんな話になったらまるで喧嘩をしに来たみたいだし」

「そう。やっぱり立場は違うんだろうけどな。ともかく、前に悪く言って申し訳なかった」

「いいの。要くんが悪い印象を受けたのも仕方ないもの。伝聞ってそんなものよ」


 フェンスについた金網の扉を抜けてゴルフ場の敷地へ入る。

 闇の中にカンテラの灯りが揺れる。低木の枝に遮られて不規則に点滅する。舞子がそれを手にしている。足元を照らし、確かめながらゆっくりと進む。先を行く松浦が鉈を持って目に入りそうな枝を低いところで切り落とす。

「舞子さんが今の仕事を目指したのって、お父さんの影響?」松浦が訊いた。

「まあ」

「あの義手は? とてもいい出来だ。手に馴染んでいた」

「ああ、わかったか」舞子は残念と嬉しさ半々で答えた。「いや、あれは違うの。私のデザインだけど、合わせたのは洞爺にいる同僚。娘に頼むのはなんだか恥ずかしかったみたいで」

「でも、舞子さんはそのために今の道を」

「うん。そうよ。でもね、昔ね、ほんとの最初に作ってあげたのがあるんだけど、あまりにも長持ちしなくて。直しても直してもすぐ切れたり緩んだりで、私もまだ働き始めで忙しかったから、つきっきりで整備もできなくて、それでお互い少し遠慮してるの」

「結構古い傷なんだ。ああ、いや、傷じゃないのか、わからないけど」

「ううん。怪我よ。学生の時ハワイへ行って、ちょっと治安の悪いところへ迷い込んだのよね。それで強盗に遭って、銃でちょうど指の付け根をやられたの。左手の下から三本」

「治せなかった」

「九ミリのホローポイント。骨も肉も粉々になってたでしょうね。それに三十年以上前の話だもの。病院の目の前で撃たれたわけでもない」

「人の体って――」松浦は藪から突き出した枝を鉈で切り落としながら言った。

「脆いの。そう、とても脆い」

 やがて足元の地面が湿ってくる。そこには湧き水の池がある。カニすらいないようなとても小さく浅い池で、底から水面まで厚く落ち葉が溜まっているのでほとんど水があるようには見えない。ちょっとした窪地の広場のように見える。そうやって不用意に近づくと落ち葉を踏み抜いて足首のあたりまで浸かってしまう。しかし夜は水面が灯りや月を反射して闇の中にその光が浮かび上がる。池はむしろ妖しいくらい目立っていた。

 松浦は立ち止まって頭上を見上げた。池の上に木々の枝の覆っていない空間がぽっかりと開いてそこから星空が見えていた。舞子は一度カンテラの明かりを消す。闇の中にわさわさと枝が擦れ、落葉が転がる。

「綺麗でしょう?」

 松浦は小さく頷いた。「月が暗ければもっと星が見えただろうけど」そう言って鉈の柄についているネジを緩めて刃を折り畳み、ズボンのポケットに入れた。

「そうね」舞子は丸い月を見上げて苦笑した。

 それから松浦の顔に目を向けて「あっ」と声を漏らした。顔の前に翳してカンテラを点ける。彼の頬が血で濡れていた。目の下に切り傷があってそこから出血していた。

 松浦はその血を指先につけて確認した。

「ああ、そうか、さっきからなんか痒いと思ってたんだ」

 舞子はジャンパーのポケットに手を突っ込んだ。

「いいよ。もったいない」松浦は濡れた指先を舐め、辺りにちょうどいい岩を探して腰かけた。血を指で拭って舐め、それを繰り返して最後に手を池の水で洗った。前屈みになって溜息をつく。

「気分が悪い?」舞子が心配して訊いた。松浦の前で腰を屈めて表情を窺う。

「いや。でも口の中が血の味になった。まったく、ろくでもないな。こういう何でもない怪我が一番嫌なんだよ」

「気になるから?」

 松浦は二度頷いた。

 舞子は背中を起こしてカンテラの火の大きさを調整した。火といっても電球なので電圧のことだけど。それに合わせて二人の顔が明るくなったり暗くなったりする。

「……それとも親のこと?」と舞子。

「まあ、それもある」

 舞子は少し緊張した面持ちで松浦の耳のあたりに目を落としている。

「舞子さんは俺の経歴を読んだことはある?」松浦は訊いた。

「うん」

「思い出せる?」

「ごめん、本当はいけないんだけど、読んだのは一度やなんかじゃないの。思い出せるわ。端から端まで、ありありと」

 松浦は舞子にちょっと横目を向けて、その途中で思い直したようにすぐ正面に戻した。

「気に障ったのなら謝るわ」

「違う。ありがたいよ。でも礼を言うのも嫌味臭い気がしてさ。あれを読んでくれたならわかるだろうけど、なんというか、俺は自分の血は好きじゃないんだ。血の中身じゃなくて、その混ざり方、配分がさ。それは生まれ持った歪みだ。どうあがいても一生消えない。俺が生きている限り、ずっと」

 舞子は影のようにそっと松浦の左側に近づいてその背中に右手を置き、右の膝まで左手を伸ばして、下から掬うように口づけした。彼女の肩から少しずつ髪が垂れて松浦の手の甲や膝の上にかかった。松浦は避けない。でも唇は閉じたままだった。舞子はその感触を確かめるように相手の下唇を甘く咥え、そのまま引っ張るように引き下がった。そして閉じられた唇を見つめる。松浦の唇は移った口紅のせいで少しだけ明るく見えた。

 松浦はゆっくりと舞子を見返した。驚いているわけでもないし、かといって微笑を浮かべているわけでもなかった。彼の顔には拒絶も受容も表れていなかった。まるで表情のつけ方を忘れてしまったみたいだった。舞子はその視線に耐えかねて、今しがた彼に口づけしたばかりの自分の下唇を口の中に薄く引き込んで前歯で噛んだ。

「他人の血液を舐めるのはよくない」松浦は静かに諭すように言った。それから一度下を向いて巨人のようにゆったりと立ち上がった。

「そうよね」

「血の交わりは同時に自分の歪みを突き付ける。それなのに俺は血のない世界に同じ行為を求めているのかもしれない。それは他ならぬ血の儀式の形式だというのに」松浦は呪文のように口元で低く呟いた。「誰に何を求めればいいのか、それすら判然としない」

 舞子は足の位置を少しずらしたり膝で掌を拭ったりしながらしばらく考えた。

「ロビーで待っている時からずっと考えてたのはそのことだったのね」

「そのせいでちょっと集中できなかったのかもしれない。すまない」

「いいの。話してくれてありがとう」

 松浦が今日その問題について考えていなければならなかったのは、当然そこに舞子が関わっているからだ。たぶん彼女もそれに気付いたのだろう。

「あなたにこそ義体が必要だったのかもしれないわね」舞子はまた少し考えてから言った。カンテラを岩の上に置いて、松浦の真横に肩を接してぴったりと並び、離れられないように彼のコートの裾を指先で捕まえる。「あなたの血を直してしまいたい。もし、私にその力があれば」

「そうかもしれない。でも、そのつもりはない」

「そう? 何も怖いことはないのよ。やってしまえば決して難しいことじゃない。エウドキアだってやり遂げたもの」

「違うよ。それでは意味がない。彼女にも肉体は残っている。神経系は生身だ。どれだけ身体のあり方を変えようと、意識の連続には肉体が必要なんだ」松浦は俯いて両手の掌を上に向けた。自分の視線を手で受け止めるような具合だった。「だから、この体は、部分的に駄目になるくらいなら直してほしいけどさ、でも全部が駄目になる時は大人しく死を受け入れなきゃいけない」

 舞子はほとんど目だけを動かして彼の手と横顔を交互に確かめ、それから彼の肩に頭を少し凭せかけた。

「それなら、楽しみましょうよ。死が訪れるまでは」

「俺が傷つけなくても、君はきっと傷つき続ける」松浦の左手がコートの裾を握っている舞子の指に触れる。

「それでも仕方ないと思う。こんなこと言うとあなたは嫌がるかもしれないけど、私の気持ちはとても生理的なものなの。生き物的で、生々しいもの。その息の根を止めるにはとても長い時間がかかるのよ」

「長い」

「そう。とても。死ぬほど長い」

「俺はそれより先に死ぬだろうか」松浦は思い付きのように訊いた。

 ちょっとしたショックに舞子の口が開いた。でもすぐに立ち直って答える。

「きっと」

 松浦はそれを聞いてもやはり少し難しい顔をしたままだった。が、舞子の肩を持って一度引き離し、背中を丸めて今度は自分から彼女の唇を求めた。

 松浦はただ舞子の思いに応えずにおけなかったのかもしれないし、それとも彼女の中に自分を繋ぎとめる何かを見つけたのかもしれない。

 雲が月を覆い、辺りがすうっと暗くなる。人も木々も、あらゆるものの影が消えていく。

「血の味がする」と唇を離して舞子は苦笑混じりに言った。

 二人は改めて岩の上に並んで腰かける。松浦はまた難しい顔をしてこめかみを中指で押さえた。

 舞子は松浦の膝にそっと手を置いた。

「鹿屋くんが撃たれた時、あなたがこうしてくれたでしょ。私はとても怯えていて、でもそれですっと震えが止まったの。ちゃんと息ができるようになったの。不思議ね。まるであなたの手が怯えを吸い取ってくれたみたいだった」

 松浦はこめかみを押さえるのをやめて舞子の白い手をじっと見下ろした。

「ねえ、あなたの血の歪みの問題はあなたのものなの? それともあなたの子のものなの?」舞子は訊いた。

「どういうこと?」

「あなたの中にはあなたのお姉さんから受け継いだ遺伝子とお父さんから受け継いだ遺伝子があるわね。生殖する時、その中からあなたのお姉さんが持っている母方の遺伝子と、あなたがお父さんから受け継いだ遺伝子のうちあなたのお姉さんがお父さんから受け継がなかった遺伝子を取り出すことができれば、あなたは実質的にあなたのお姉さんの完全なる弟として振舞うことができると思ったの」

「難しいな」

「実現が?」

「理解するのが」

 舞子は小さく笑った。

「たとえそれがだめだったとしても、そのうち別の解決策を思いつける気がするの。きっと進んでいける。今が全てではない。私たちも新しいことを思いつくし、技術も進歩していく」舞子は同意を求める視線を松浦に向けた。

「楽しみましょう、死が訪れるまでは」松浦は読み上げるように唱えて、それから観念したようにゆっくりと頷いた。

 別世界へ通じた穴のような月は今はまだ雲に隠れている。

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心水体器:流氷姫は微笑まない 前河涼介 @R-Maekawa

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