15 ドクトル・ナゴフ

 葉振りの旺盛なトウヒの森が平原の上にぽつぽつと綿雲ような具合に散らばり、低木や草だけのいわば禿げた地面は川や道に沿って折れ線や複雑な曲線を描いている。ハバロフスク郊外、そうした森と平地の連続の間に白いコンクリートの人工物が現れる。一種の団地だ。一階部分は太い柱が露出したピロティ構造、屋内空間があるのは二階から。高さはせいぜい六階。森の中に公園のような開けた区画があり、その境界に並行して三棟、北側に同じようなデザインのひときわ平たい建物が一棟建っている。ピロティの上から三階層はあるがそれ以上に面積が広いので平べったく見える。それがサナエフ研究所だ。

 コンクリートの外壁は最近塗り直されたばかりのようで、白い塗装にはまだ雨垂れも見当たらない。しかし所々窓ガラスに罅が入り、そんな壁と窓の状態はとても不釣り合いに見えた。

 その建物の周りを一人の男が走っていた。Tシャツに短パン、ランニングシューズ。シャツの襟は既に汗で濡れていた。三,四周は走ったらしい。やけに薄着だが、しかし辺りは積もった雪で一面真っ白だ。反射光で男の肌までハレーションのように白く抜けて見えた。吐息の水分が凍って鼻の周りや眉毛に霜がついていた。

 男は息を切らしたまま柱の横に立ってストレッチを始める。肩を回し、脇腹を反らせ、屈伸する。歳は四十くらいだ。体は細くはないが太っているわけでもない。そこそこ身長があり、寸胴でがっしりして腕と脚にもはっきりと筋肉がついている。Tシャツの袖口が腕回りに張り付いている。

 辺りにほとんど人気はない。唯一、研究所の玄関の下にフェルトのコートをしっかり閉じた歩哨が立って薄着の男を眺めながら袖の中で両手を擦り合わせている。毛皮の帽子を目深に被り、ネックウォーマーに自分の息を跳ね返して顔を温めている。動かなければそれが普通の寒さだ。

 薄着の男はTシャツのまだ濡れていない部分で首周りの汗を軽く拭って柱の根元に投げ捨てておいた赤いジャンパーを拾い上げる。そして三棟の団地のうち最も北寄りの一棟の階段を最上階まで上がる。階井を縦貫するように設置されたエレベータのケージは一階で待ち構えていたが、使わない。廊下を端まで歩いて部屋に入る。そこが彼の私室らしい。奥に大きな掃き出しのある細長い部屋だ。壁は藍色、暗いと感じないぎりぎりくらいの絶妙な色合い。全周に床板と同じ黒い腰板が貼ってある。天井は白く、アール・ヌーヴォーのガス灯のような古風な照明が下がっている。家具はリフォームの時にサービスでつけてもらったような簡素なものが一通り揃っている。テーブル、椅子、扉のない棚。揃っているだけで決してそれ以上ではない。

 男はちょっと目を細めて奥の窓から入る朝日を見つめた後、後ろ手にドアの細い閂を閉める。廊下に四つん這いになって腕立て伏せを二十回する。それは十九回でも二十一回でもない。正確に二十回。着ていたものを洗濯機に放り込んで素早くシャワーを浴びる。色の薄い髪を縞模様のタオルで拭きながらリビング右手の寝室に入る。ベッドは奥の壁の中ほどに背板をつけて置いてある。ダブルのような置き方だがシングル。戸口でちょっとベッドの上を確認してからタオルを首にかけ、枕を叩いて膨らませ、掛け布団とシーツを直す。几帳面だが軍隊ほど神経質ではない。シャツに袖を通し、スラックスを穿いてベルトを締め、ワッフル地のジャケットを着る。革靴を履いて軽くブラシをかけてから部屋を出る。

 研究所のエントランスはピロティ上の二階にあり、入って奥が吹き抜けに面していて光がよく入る。受付に女性が一人、奥の休憩所のベンチに数人、ゲートの周りにやはり警備が数人構えている。防弾ベストの背中に《СПЕЦНАЗ》の文字。しかしそれにしては全員面構えが若い。さしずめ手頃な憲兵たちを適当に集めてきた特務部隊であって特殊部隊ではない。男はそれぞれに挨拶がてら目を合わせてエレベーターホールに入る。今度はエレベータを使うようだ。ケージに乗り込んで最上階で降りる。やはり最上階。右手に進み、廊下が折れる一つ手前の部屋のドア――表札に《И.С.Нагов》とある――を開ける。そして一歩踏み込んだところですっと短く鼻から息を吸う。

 右手の隅のキチネットで一人の少女がスープの鍋を混ぜていた。彼女はオタマで小皿にスープを取って息を吹きかけ、男に飲ませる。キャベツやじゃがいもが入った赤いスープ。

「今日のは悪くない」男はスープを吟味しながらも少女の手つきを注意深く観察している。

「うん。私もそう思うの」と少女。

「秘書を雇うのも悪くないかもしれない」

 少女は打って変わってツッケンドンな顔で小皿を受け取る。

 男は窓辺の椅子に座る。デスクの上に置いてある俎板と包丁を少し横へ動かし、天板を低い位置から見て何か垂れたりこぼれたりしていないか確かめる。

「だから、ねえ、博士の部屋でやらせてくれればいいのに。ここの調理台狭いんだから」と少女。

「君にも部屋はある」

「それじゃ駄目なんだってば」少女は膨れ面でデスクから俎板と包丁を流しに持っていく。「今日は買い出しに行くけど、何かあるかしら?」

「ああ、今書き出すよ。いつも悪いね」

「秘書はそれくらい黙ってやるのよ。秘書ならね」

 少女はスポンジに洗剤を取って洗い物を始める。鼻歌を歌う。

 歳は十五くらいだろうか。赤毛とブロンドの混じったような色の長い細い髪をまっすぐ垂らして、肌が白く、目は濃い青だった。ちょっとイギリス的な輪郭の細い顔立ちなのだが、微妙なところだ。イギリス人と言うにはロシア的すぎ、ロシア人と言うにはイギリス的すぎる、そんな具合だった。それはすごくそばかすの似合いそうな顔立ちなのだけど、頬も鼻筋も一見しただけでは分からないくらい透明だった。

 男は座ったまま机の上に腕を投げ出して一息つく。指先で合板の継ぎ目のぎざぎざを撫でる。上塗りがあるので表面は至って平滑。指先の感触ではなく目で追っている。そうして一息つき、机の左に溜まっている大小さまざまな封筒をペーパーナイフで開けていく。無数の封筒の他にはその山に寄りかかられるようにして小さなタイプライターが一機、埃よけのペイズリー柄の布を被せて置いてある。あとはペン立てがひとつ。大きな両袖のデスクだが上に乗っているのはそれだけ。もの足りないほど何もない。ただよく見ると天板の色が一部違っていて、そこに長い間デスクトップパソコンが置かれていたことが分かる。そこだけ日に当たらないので褪色を免れたのだ。でも今パソコンはそこにはない。部屋のどこにもない。ケーブル一本落ちていない。完全に持ち去られている。男のデスクから見て正面が入り口のドア。その手前にビロードのソファー。左の壁に沿ってキャビネット、キチネットがあり、右手には生物系の研究室らしい空間が広がっている。ただあまりに片付きすぎている。人気もない。網に干してあるガラス器もなければ、ティッシュの封も切られていない。

 少女の鼻歌は続く。よく知っている曲のようで間奏も端から端まできっちりと歌う。一曲丸々きちんと記憶している。そのおかげでわかったけど、マドンナの「チェリッシュ」だ。間違いない。

「みんなの様子は?」

 男が訊くと少女は鼻歌を中断した。アイ・クッド・ネヴァ・フォゲットゥ。ミュージックビデオでマドンナの足と人魚の少年の尾鰭が並んで映るカットのところ。

「昨日は新しく目覚めた子はいない」少女は泡のついたスポンジで俎板の角を洗いながら言った。

「うん……、これで連続五日になるか」

「大丈夫よ。悪い兆候は何もないもの。誰も諦めてない。リハビリに入った子たちだってじきに私と同じくらい動けるようになるわ。そう、昨日は見に行ったの」

「ねえ、入る時は本当に人目に気をつけなきゃいけないよ」男は一旦顔を上げて小さな声で言った。

 少女は頷く。「次は白い岩の家から入るわ。あと、大佐から伝言があるの」

「何かな」

「ええと……」少女は首を傾げる。しばらくそのままの姿勢で皿洗いを続ける。そうやって記憶がゆっくりと出口に向かってくるのを待っているようだった。「ああ、そう、軍の情報局から通達があったの」

「ГРУか」男は封筒の口に差し込んでいたペーパーナイフを止めた。

「エウドキアへの接触は以後試みない、と」

「それはちょっと穏やかじゃない表現に聞こえるんだが、彼女は生きて解放されたと取っていいんだろうね」

「うん。そこは大佐もはっきり言質を取ったって言ってた」

「そうか。それはいい知らせだ」

「よかったわね、博士」

「あとはエリザヴェータが見つかればいいんだが」男は不安げに溜息をついて封筒の口を切り、ペーパーナイフの刃を指で拭った。

 少女は洗い物を終えて黄緑色のエプロンを外す。

「この服どうかしら」と裾を撫で下ろしながら男の方へ体を向ける。

 バラのような赤いワンピースで、襟が四角く開いているのが特徴だった。その赤は彼女の髪の強い赤みにとてもよく合っていた。裾は膝くらいまであり、ふくらはぎと言えないくらいの細いふくらはぎが黒いストッキングに包まれていて、足元は踵の高いブーツだった。ワンピースのぴったりと絞られたウエストに手を当てて彼女は軽くポーズを取る。「このまえ出掛けた時に買ったの」

「うん。なかなか悪くない」男は机の横に立って彼女の全身を良く眺める。指で回るように指示して後ろを向かせる。「ファスナーが上がり切ってない」

「ほんと?」少女は上から下から背中に手を回す。肩も軟らかく指先は十分届いている。掌だって簡単に合わせられるくらい軟らかい。でもその手はファスナーの金具を上手く探り当てて掴むことができない。あえて言うなら指先が不器用なのだ。男はそれを確かめたかっただけみたいに満を持して手を出し、ファスナーをきっちり上まで閉めてやった。完了の合図のように両手で肩をぽんと叩く。男はその足でお湯を沸かして漏斗にフィルターをかけ、コーヒーの粉を二杯入れる。

「この服でパパとママに会うの、変じゃないと思う?」

「ああ、そうだった。確かにそういう約束をしていたな。昨日あたりこっちへ着いたのかな」

「ううん。コムソモリスクに降ろされたって。それで結局天気が良くならなかったでしょう、だから今日列車が出るなら陸路で来るみたい。着いても夜かな。ああ、待ち遠しい」少女はソファの背に後ろ手をかけて体を左右に振る。それから自分の腰をさすって何かに気づき、後ろに置いてある紙袋からベルトを二本取り出した。どちらも黒く同じくらい細いが、微妙な色艶とバックルのデザインが違っている。

「どっちがいいと思う?」

「合わせてごらんよ」

 少女は一本ずつ腰に巻いてみる。男はその度に短く振り返る。「残念だけどその格好だとベルトはない方がいいかもしれないよ。少し野暮ったく見える」

「もう少しちゃんと見てよ」

「ぱっと目に入った時の印象が大切なんだよ。それで変に感じるものはどれだけみても変だし、そこで気にならなければ注目なんてしないから、あとになっても変だなんて思われない。そういうものじゃないかな」

 少女は肩を落としてベルトを紙袋に戻す。その中でベルトは死んだ蛇のように伸び切ってがさがさと音を立てた。

「今日の手紙は、書かなければいけないものはあった?」少女は壁際から椅子を持ってきてデスクの前に置きつつ訊いた。腰を下ろし、男の書いた買い物メモを自分の前に持ってくる。

「うん。いくらか長いのがある。どれもメディアなんだが」

 男はコップを出してデスクの上でポットから黒いコーヒーを注ぐ。ウェッジウッド・コーヌコピアが二脚。背の低い素直な円筒形、フルリムの紺地にやわらかい金色の植物模様。男は自分の手元で注いで少女の前に差し出す。少女はじっくりと匂いを嗅いでから牛乳を入れる。

 仕事を始める。少女がタイプの埃よけを外してパソコンの跡地のあたりに無造作に放り、タイプ本体を自分の体の前に据え直す。男が封筒を切って中身に目を通しながら、全く別の手紙の返事を考えて文面を口に出し、女がそれを便箋にタイプで写していく。内容はほとんどがサナエフの研究内容についての弁明だった。事実をわかりやすく丁寧に説明する。それだけだ。書き上がると男が目を通し、畳んで封筒に入れる。タイプの鍵がぱしぱし鳴り、あるところでぎいっと巻き戻る。

 そうしてあっという間に一時間が過ぎる。

「博士、手が重くなってきた」少女は男の言葉が途切れるところを見計らって申告した。

「うん。そろそろ休憩しよう」男は持っていた手紙を下ろして壁の時計を見上げた。「かなり長くなってきたね。そろそろ意識的に休憩を入れた方がいいかもしれない」

 少女は膝に両手を置き、掌を上にしてじっと見下ろしながらゆっくりと握り、また開く。目を瞑って呟く。「気持ちのいい疲れ」

「そういうものかな」男は心底不可解そうに答える。

「体を目一杯動かすってすごく気持ちがいいの。そういうのってわからない?」

「時にはね。でもただ疲れたくないと感じる時があるのもまた然りだ」男は自分のカップを取って中を見る。空だ。ポットの中ものぞいてみるがやはり空だった。男は男でずっと喋っていたので口が渇くらしかった。諦めて椅子の背凭れに体を預ける。椅子はその勢いでゆっくりと回り、男の体が窓の方へ向く。カーテンの隙間から快晴の空が見える。

 男は大きく息を吸って長い溜息を吐いた。その顔は外を走り回っている時よりもいくらか老けて見えた。

「自分のやってきたことは一体何だったのか」少女はまた呟いた。男の気持ちを代弁したのかもしれない。そんな調子だった。

 男は形だけでも首を横に振った。

「ねえ、博士、これはとても意味のあることなのよ。なぜなら私たちはまだ生きているから。生かされているから。だから諦めないで」少女はデスクの反対側へ回って男の肩に手を回し、少し腰をかがめて男の目の端にそっとキスをした。


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