5.1 真夜中のアクション

 深夜一時、東千歳駐屯地、師団司令部に詰めていた賀西がウサギみたいな足取りで中隊に戻ってきた。幕僚部から着信があったのだ。食堂にマットレスを敷いて休んでいた隊員たちはうつらうつら起き上がった。幕僚部は室蘭に入れるか苫小牧に入れるかで長々と揉めたらしい。日本海側よりは太平洋側の港湾の方がロシアからすれば手を出しにくいのは順当として、当初は海保の拠点がある室蘭が優勢だったが、潜水艦対策を考えると水深の浅く湾口の狭い方が警戒がやりやすい。それなら苫小牧だ。室蘭は海に突き出した岬であって、港を離れると海底がすぐに深くなる。一方苫小牧港は本来まっすぐな海岸を陸側に掘り込んだもので、海底の傾斜がなだらかだった。航空写真で港のシルエットを見れば、前者が天然、後者が人工の港であることは明白だった。室蘭もそれなりに湾口は狭いのだが、苫小牧は遠浅のアドバンテージが大きい。

 ドルフィンに訊かれて九木崎女史が小樽と答えたのはハッタリだった。一応疑っておいたのだ。もしドルフィンがまだロシアと通じていてロシア連邦軍がその情報を得たなら偵察機をあえて太平洋側まで回り込ませることはないはずだった。

 だが実際には現れた。朔月が海峡を通過する頃、北海道沿岸各地のレーダーサイトが千島方面を南下する二機のIL-38哨戒機を捕捉、釧路沖で防空識別圏に入ったのでスクランブルを発令した。二機の哨戒機は空自の戦闘機がぴったりくっついてきても全く意に介さず、青森辺りを目指して飛び続けた。まるでイトマキエイにまとわりつくコバンザメのような扱いだった。戦闘機の方も黙って追跡して、領空が近づいたところで哨戒機がくるっと反転したので、少しばかり見送りをして基地に帰った。朔月がどの港に入るのかを確かめるのが仕事だったのだろう。

 我々の小隊も揚陸の警護部隊に加えられていたので二十二時頃には準備を始めていたが、結局苫小牧に向かって駐屯地を出たのは一時過ぎ、賀西が司令部から戻ってきてからだった。日産プリメーラの後部座席に檜佐と並んで座る。檜佐が私の膝に籐編みを模したプラスチックの箱を置いた。

「なに?」私は訊いた。

「朝食」檜佐は答えた。

 蓋を開けると中にコッペパンが二本詰まっていた。卵サラダとポテトサラダ。

「黄色……」

「文句言わないの」

 蓋をして横に置く。檜佐は糧食が嫌いなので遠出の前に時間があるとだいたい何か作ってくれる。私と松浦に、だ。今日は松浦はいない。だから私だけだ。そういえば彼女が自分の班員に渡しているところは見たことがなかった。機体ごとに班が決まっているけど、パイロット同士、後方要員同士の方が親密度が高い気がする。それがなぜなのかは微妙なところだ。訓練にしろ、いざ戦闘という時に自分で動くか、それとも待っているか、そういう気質の違いというか、共にする時間の違いだろうか。

 五分ほど待って車列が動いた。前のパジェロのブレーキランプが弱くなる。後ろに牽引車がついてくる。夜中の旅だ。頭の中でフクロウがホーホー鳴いていた。

「ロシアで脚付きの兵器ってどれくらい役に立つんだろうね」檜佐が呟いた。彼女も、私も、半分眠っているような調子だった。黄色い街灯の影が方々の窓ガラスやミラーに反射しながら光る羊のように次々後ろへ流れてゆく。「空挺大隊と砲兵大隊が一個ずつ、だったかな」

 座学で一年くらい前に勉強した内容だ。ドルフィンの一件があってから調べ直してみたけど、私が見た範囲では編成上の変化は特になかった。

「メインは空挺の肢闘だよ。砲兵の方はまだ全然定数に行ってないし、ほとんど実験」と私。

 私も眠いなりにロシアの肢闘のことをゆっくりと考えてみた。永久凍土地帯は雪か泥濘で脚を取られるし、地面の固いところは乾燥していて林なんかない。肢闘は背が高い分だけいい的だ。使えるのはぎっちりと針葉樹が生え揃ったタイガくらいだろう。使える場所が限られるということは必然的に防御的な運用を強いられるということだけど、東側の陸軍というのは基本的にガチガチの機甲部隊で固めた攻撃的な編成をしているもので、そこに肢闘の出る幕なんかないように思える。それでも、檜佐の言った通り、肢闘と山林砲兵を装備する実戦部隊が一個ずつある。肢闘の方は空挺大隊だから、砲兵部隊にくっついて回る対空自走砲的な日本の肢闘とはかなり運用が異なるはずだ。まあ山あいに降ろすならいくらでも使い道があるだろうという気はするけど、砲兵はやはり運用理念に嵌らないのだろう。

「でも装輪・装軌車両だけだといくら物量があっても兵站が限定されるし、山越え谷渡りができるのは戦略的には幅じゃないかな」檜佐は答える。シートの端とドアの隅に頭を落ち着けて目を閉じていた。

「トラックがついてこれない。脚付きの輸送部隊なんて私も知らないし」

 おおよそロシア軍の参謀部も肢機の砲兵運用には期待していないのだろう。多くの軍人の上に立ってドクトリンを決める老人たちは常に多くの物事に考えを巡らせている。それだけ多くのものを学び、知識を蓄え、研究してきた。そういう人生を歩んできたのだ。私とは違う。私には戦略は立てられない。ただそれを理解し、考察するだけだ。あるいはそれも私が戦術レベルで勝ち負けを選択する時には役に立つことかもしれない。

 私も檜佐と同じように窓に額を近づけた。道沿いにはずっと鬱蒼とした林が続いている。そこには人工の光などない。車の天井の陰に隠れるようにして高い月が見えた。周りにかかった薄雲を虹色に染めている。その手前を高圧電線の影が横切り、茹で卵のように月をスライスしていく。自分の吐息で窓が曇ってくる。


 ……


 朔月が苫小牧港に近づく。湾口から五百メートルほどのところで取り舵を切って艦尾を陸に向けて停船。タグボートが横付けしてドルフィンの曳航を引き継ぐ。百トンくらいありそうな大きなタグだ。相手の出力が読めないからビビっているのだ。引き摺ってでも逃げられたら困る。まあ、逃げてどこへ行く当てがあるのか、という問題はあるけど。

 出迎え組の方は日の出の四時間ほど前に配置についた。普通科小隊一個、戦車小隊一個、対戦車ヘリ小隊一個、肢闘隊も一個小隊。松浦の機体も持ってきた。それに戦車用の低床トレーラが一両控えていた。民間人は寄りつかない。構外で警察が押さえているらしかった。港湾の事務所の横に普通科の装甲車をつけて野戦指揮用のテントを組み、その下にテーブルを出して指揮官が集まる。誰が全体の指揮を執るかという話し合いで、最初は一番階級が高い戦車隊の一佐に任せようという流れだったが、当の本人が肢闘の案件だから専門家にということで賀西を推したので賀西になった。結局どの部隊も我々の付き添いで出掛けてきたような心構えなのだ。

 それから時期が来るまで機上待機、交代で休憩をとる。乗員と分離できない兵器を上陸させていいのか、という判断に時間がかかったからだ。政治の問題は現場ではどうにもならない。移動も待ち時間も長かったせいで足腰がガチガチに固まりかけていた。自分の番になると私はグリコ遊びみたいに大股で港の中を散歩して回った。台車の上に担ぎ上げられた小舟の間を抜け、クレーンの鉄骨をくぐった。黄色いブイの山や、錆すぎて穴の開いた古いコンテナを見つけた。そういった物陰には対戦車装備の普通科が何人か構えていて、私があまりにずいずい歩いてくるのでびっくりして、また私の方も突然闇の中から現れ出てくる人間の気配にびっくりした。なんだよ味方かよ、とお互い嫌な顔をして通り過ぎる。

 戦車も三両いた。私が所属していたのと同じ大隊だったので誰か知っている人間がいるかもしれないと思って一両ずつ確認してみたけど、結局知らない男ばかりだった。乗員たちは乗り込んだまま各々のハッチから頭や上体を出して警戒と脱力が半々くらいの様子だった。その顔が見えるぎりぎりのところまで近づいて、何か別の用事で通りがかっただけのように横切った。別に彼らが私のことをどう思おうが勝手だけど、声でもかけられたら何か答えなければならない。それが面倒だった。

 拡声器で総員配置の合図が出て、つまり上陸許可が下りたのだろうけど、私は走って牽引車まで戻った。息をすると喉が凍って血が出そうだったけど、体はいい具合に温まった。

 カーベラはテストに使っている最中なので持ってきていない。乗り慣れたマーリファインが牽引車の後ろで台車に乗っかっている。ざらざらと古くなって緑だか茶色だか判然としなくなった地の塗装、今シーズンだけでしっかり黒ずんだ冬季迷彩の白。そして砲塔(胴体)前方左、レーダー基部にシャチのイラスト。シャチは左前方から見たずんぐりした画。たくさん鍵を通した金の輪を口に噛んでいる。コクピットの両側に各種無線送受信機とアンテナ類。

 台車のバンパーに足をかけて機体を登る。タイヤのサスペンションが軋んで揺れる。

 コクピットはカーベラよりやや広い。あちこち手を回すにはそれでも狭いくらいだが、エアクッションがないのでハーネスをつける。投影器の栓を窩につないで、エンジン・スタート。機体全体がぐるぐると何度か震える。体の真下からV10ディーゼルのがらがらと威勢のよい回転が伝わってくる。アイドルなので油圧ポンプはまだ静かだ。コンピュータも立ち上がる。

 檜佐に貰ったコッペパンをシートの下から出して食べておく。味は悪くない。レーション嫌いの人間が作るくらいだから、不味いわけがないのだ。あとは口に合うかどうかであって、それも、まあ、長い付き合いだからわかるのだろう。包んでいたラップを丸めて最後に水筒のお茶を飲む。


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