6.死神は殺すだけだ

 ローケンクロゼの地下酒場〝コッキング〟は、ただの酒場ではない。

 入口から二番目に遠い円卓席、その壁際に座っていると、死神の使者メッセンジャーに会うことができると言われている。


 メッセンジャーは十四、五の少女で決まってピンクの何かをもっており、わざわざその席の照明を消してキャンドルを焚く。灰皿の下から寄越される紙切れは、死神との面会を允可された証である。


 コウナー・ハーセン殺害の一週間前。

 そうしてメッセンジャーから紙切れを受けとった一人の男がいた。


 彼の名はアルバ・ハーセン。

 フランス料理店〝エスコフィエ〟を経営する一流シェフであり、コウナーが殺害を依頼したターゲットである。


 そして、少女によって死神の許へ導かれた彼は「誰を殺したいんだ?」のしわがれ声にこう答えた。


「私です」


 と。


 ローケンクロゼの死神は、安いシガレットの煙を吐きながら、さも愉快そうに笑ったものだった。


「ふん、簡単な仕事だな。今ここで撃っていいのか?」


 死神が太ももから大口径のリボルバーを抜くと、アルバはなぜか苦笑を返した。死神はますます愉快そうに笑い「死ぬ奴以外にこいつを見せるのは初めてだ」と、得物をホルスターへ収め直した。


「それは光栄です。ですが、私も遠くないうちに『死ぬ奴』に加わりますよね?」

「どうだかな。あんたの条件次第だ」


 殺し屋はシガレットをくわえ直す。

 アルバは額をぽりぽり掻いて苦笑する。


「なるほど。死神というのは心も読めるんですか」

「ふん、そんなことはねぇがな。それより言ってみな。他に誰を殺したい?」

「厄介な相手ではないと思います」


 アルバは前置きしてから、こう続けた。


「殺して欲しいのはもう一人。私の妻です」


 死神は今度は笑わず、細い煙をはきだした。


「最近の夫婦は、憎しみか欲しか溜め込んでねぇのか」


「いえ、私は妻を憎んでなんかいません。でも、そうですね……。欲は溜め込んでいるんでしょう」


 依頼人は複雑な表情で、ローテーブルの辺りを灯す蝋燭の炎を見つめた。


「まあ、人様の家庭についてどうこう言うつもりはねぇぜ。だがウチは、一応動機はきくようにしてんだ」


「そうですか、解りました。どうせ消える命です。すべて、お話しますよ」


 そして男は語りはじめたのだった。

 はかない夢の物語を。


                 ◆◆◆◆◆


 コウナーの死体をまたぎ、廊下の奥へすすむと、突き当たりのドアから微かに光がもれていた。


 ストックは太ももに手をやり、マグにも決して触らせない愛しいの感触をたしかめる。その上で、コウナーを殺したサプレッサー付きの拳銃を握りこみドアに手をかけた。


 一応の警戒はしたものの、無論そこに敵の姿はない。敵ができるほどの依頼でないことはとうに判りきっていた。


 独りでは広すぎるリビングルーム。

 その最奥に、カーテンの隙間から月のきれいな夜をうかがう孤独な男の背中だけがあった。


 ストックは拳銃を懐へしまい、小さく咳払いをすると言った。


「半分終わったぜ」


 死神の声は、報告というより宣告に近かった。

 しかし振り返ったアルバには、怯懦など微塵もかんじられず、ただ消え入りそうな微笑だけがあった。


「そうですか。私は、ついに半分を叶えられませんでした」


 アルバはそう言って、食卓にぽつんと置かれたクロッシュへ視線を落とした。


「新しい夢を探そうとは思わなかったのか?」

「ええ。私がそんな殊勝な人間なら、あなたとは出逢っていなかったでしょう」

「それもそうだな」


 ストックは不躾に食卓へ腰をおろす。マグもスキップしながら席についた。


「さて、報酬についてだが」

「はい」

「そいつを貰おうか」


 ストックは机上のクロッシュを指さし、不敵に笑った。


「え、これですか?」


「そうだ。もうじき、この家には誰もいなくなる。一流のシェフがわざわざ作った料理をハエの餌にするのはもったいねぇ」


「恐縮です……。ですが、それなら新しいものを作りますよ。一人分しかないですし」


 アルバは笑顔の少女を一瞥する。

 すると死神は、緩やかに首をふって見せた。


「ダメだ。報酬は俺が決める。お前も文句ないな、マグ?」

「モーマンターイ!」


 アルバはしばし腑に落ちない様子で、死神とメッセンジャーを見つめた。しかし今更、契約を反故にはできない。それに意味があるとも思えなかった。


「……料理人としては、冷めた料理をだすのは憚られますが、仕方ないですね」


 そしてアルバは、二人の許へプレートを運び、慣れた手つきでクロッシュをとり去った。中から現れた、やや乾いたオムレツを見て「オムレーツ!」と少女が快哉を叫ぶ。


「本当に、こんなものでよろしいんですか?」


 訊ねると、ウエスタンハットの下から鋭い睨みが飛んだ。アルバはすでに胸を撃ち抜かれたような錯覚に陥り、自分の胸を見下ろした。


「あんた、俺の前で長いながい惚気話しやがったよな? 素敵な店をもって、最高の料理を妻にもてなすのが夢なんですってよ。そんで、あんたの夢は半分叶った。じゃあ、もう半分は『こんなもの』で叶えられるほどシケたモンだったのか?」


 凍えるようなその声を受けて、アルバは虚を衝かれたように立ち尽くした。


「報酬は、俺が決める。あんたの大切なモンを貰う。それがウチのルールだ。これは、あんたの叶えられなかった夢だ。間違いねぇよな?」


「はい……」


「とりあえず、スプーンくれ。一人分足りん」


「あ、はい! ただいまお持ちします!」


 尻でも蹴られたような慌しい動作で、アルバはスプーンを運んだ。

 マグはニッコリ笑むと、それを引っつかみ「いただきます」の一言も、もちろん神への感謝を表することもなく、ソースのたっぷりかかった部分を口に含んだ。たちまち花のような笑顔が咲いた。


「おいひぃー!」

「どれどれ」


 無論、殺し屋にも感謝の文言などない。

 ただ一口含んでじっと咀嚼すると、やがて「悪くねぇな」とだけ言った。


 それを見てアルバは「ありがとうございます」と頭をさげる。

 しばらくは食器の打ち合う音だけがあった。


 やがて、アルバは再び窓のまえに立ち、おもむろに口をひらいた。


「……私は妻を愛していました」


 ストックは肩をすくめ、口の中のものを呑みこむと言った。


「また惚気話か」

「ええ。お付き合いいただけませんか?」

「勝手にすればいいさ。どうせ夢が覚めるまでの短い命だ」

「ありがとうございます」


 アルバは微笑んで、続ける。


「……しかしそれは詭弁でした。私の愛する妻は、とうにいなくなっていた。私が愛したのは、あの頃のとおい夢幻だけなんです」


 カチャカチャ。

 スプーンと皿とがうち合う。


「にもかかわらず、私はそれを妻に求めつづけた。私が壊したものを強要した。独りにしないと約束したのに、私はずっと、彼女を孤独にし続けて……。挙句の果て、己の卑しい欲望のために心中する。ひどい男ですよね」


「クソ野郎だな。まったくもって救いようがない。きっと地獄におちるだろうさ。だが、あんたは自分だけ生きることもできたはずだ。あの女を殺し、幻想のなかにじこめて。何故そうしなかった?」


 訊ねてもアルバは目を合わせない。遠いものを見るように目を細めただけだ。


「彼女は私の夢ですから。夢のない世界は、きっと地獄より苦しいと思ったんです」

「卑怯な男だな、あんたは」

「ええ、まったく。それともう一つ」

「ふん」

「彼女を独りにしたくなかった」

「……」


 その時、殺し屋とメッセンジャーは最後の一口を胃袋におさめた。

 ストックは立ちあがり、やや躊躇ってから、懐の拳銃ではなく太腿のリボルバーを抜いた。銃口がまっすぐにアルバの額を捉えた。


「さて、もう半分を片付ける時間だが」

「最後にひとつ、死神の意見をお聞かせいただけませんか?」

「まだ喋り足りないのか。どこまでも傲慢な男だ」


 しかしストックは銃口を下げた。


「……まあ、夜は長い。もう少しだけ夢を見せてやる」

「感謝いたします」


 アルバは再び頭をさげ、


「私は」

 

 次いで初めて畏怖するように死神を見た。


「……彼女の許へいけるでしょうか? 今度こそ、彼女を独りにさせたくはないんです」


 死神はすぐさま重い溜息をついた。


「勝手だな。この期に及んで、そんなことか。筋金入りのクズ野郎だ」

「やはり神は、私と彼女をひき離すでしょうか」

「知らん。神は神でも、俺は死神だ。死神は殺すだけだ」


 ストックは再び銃口を向ける。

 そして、こう告げた。


「……だが、あんたはそのために俺を雇った。クソ以下の答えを信じて、俺に出逢ったんだ」


 ドム!


 刹那、銃口が火を噴き、アルバの頭をざくろのように弾き飛ばした。トッ、トト、と薬莢の跳ねる音がする。


 マグが手の甲で口をぬぐい「エヘヘ」と笑った。ストックは銃口から立ちのぼる硝煙を吹き消した。


 するとアルバの亡骸がゆっくりと後ろへ傾き、カーテンの流れに沿って、そっと腰を落とした。まるで酔いつぶれて眠ってしまったかのようだった。


 死神は踵をかえし、ごちるように呟いた。


「あとのことは、てめぇで知るだろうさ」

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