第12話

 午後9時。歌舞伎町のホストクラブ。

 暗がりに嬌声と睦言がこだまする。空間に化粧と酒のにおいが充満する。グラスのふれあう音が、かすかに響く。

 杏奈は水割りを呷りながら、傍らのホストに愚痴っていた。

「ねえ聞いてよ。聞いてったら」

「はいはい、聞いてますよ」

「うちの娘ったら、何を考えてるのか、ぜんっぜんわかんない。おかしなことを言い出したかと思ったら、こないだとうとう家を飛び出しちゃったの」

 杏奈がホストにしなだれかかる。

「風の噂に聞いたけど、なんだか大学に行って変なことやってるって。ネットで人気だって……」

 茶髪でジャニーズ系の顔立ちのホストは、その童顔に似合わず、この種の女性をもてあそぶ術を心得ていた。

 杏奈がたばこをくわえると、素早く火を点ける。

「お姉さんの気持ち、分かります分かりますよ。そういう年頃なんですよ」

 ホストは、高級な黒のスーツを隙もなく着こなしている。杏奈が買ってやったものだ。客の愚痴を優しく受け止めながら、財布を開かそうとする。

「今晩くらいは景気よくいきましょうよ。ドンペリ入れましょうか」

「よーし、ドンペリだーっ! タワーだーっ!」

 杏奈が叫ぶと、店中のホストが彼女の席に集まってくる。高いシャンパンを注文した客へのサービス。ひとときこの店の主役になれる気分は格別だ。彼女はこのコール聞きたさに、この店で何百万円使ったか。

「ドンペリ入りましたーっ!」

 店内のホストたちから拍手が起こるが、そのとき誰かがつぶやいた。

「なんか、変なにおいがしないか……」

「……」

 シャンパンを運ぶホストの視界が、かすんでいった。火災報知器のベルの音が聞こえたような気がした。

 歌舞伎町の飲み屋やホストクラブなどの入った雑居ビルで、火災が発生した。

 不十分な防火体制により、上階にあるホストクラブでは、逃げ遅れた客や従業員が一酸化炭素中毒で死亡した。

 その中に、頴娃田杏奈――瑠奈の母親もいたのだ。

 瑠奈は警察からの連絡でそれを知った。

 搬送された病院に駆けつけたが、そのときもう杏奈の遺体は霊安室へ運ばれていた。担ぎ込まれたとき、すでに心肺停止の状態だったという。救急隊員や医師が心臓マッサージを繰り返したが、蘇生はしなかった。

 葬儀は簡素に行われた。そのとき瑠奈と河田は、杏奈の両親――瑠奈の祖父母と初めて顔を合わせた。

 通夜には現れなかった両親は、荼毘に付すときになって、斎場に姿を現した。

 挨拶はなかった。

 瑠奈の祖母は、参列した河田に向かって話しかけた。

「あんた、この子の何なんですか?」

「配偶者ですよ」

「……そうですか」

「なんで、何にも言わないんですか? 孫でしょ?」

「戸籍の上ではそうです。でも、一度も会ったことないですしねえ……」

 そして、眼を合わせずに答えた。

「この子に、変なことされませんでした?」

「ありませんよ」

 河田が不快な顔になったのに気づいたのか、そうでないのか。そして「母親」は外をチラリと見やった。

「マスコミは来てないでしょうね」

「入り口でお断りしましたよ」

「……まったく、こんな死に方をして、最後まで親不孝なんだから……」

 ぶつぶつと愚痴っていた。

(……親も親なら、その親も、か)

 河田はため息をついた。

 瑠奈を見やると、黒いドレスを着た彼女は無表情だった。

 そして、ぽつりと言った。

「ママが、実家から出て寄りつかなかった理由が、分かった……」


 歌舞伎町の火災は、ひとときマスメディアを賑やかせた。しかし、ニュースの記事はその数日後に発表された内閣改造に上書きされていった。

 ひときわ注目されたのは、文部科学大臣の人事だった。

 議員ではない民間人から抜擢された、元国立大学の学長。異色の経歴で注目された彼、山下勝こそ、山下真理衣の父だったのだ。

 河田たちの研究は、科学技術行政のトップと直結することになる。

「おめでとう」

「すごいじゃないか」

「別に、わたしじゃありませんし」

 そういいつつも、真理衣はまんざらでもない表情だった。

「これで、少しはやりやすくなるかもな」

 テレビで流れた文部科学大臣就任の記者会見で、彼はこう言っていた。

「この国の教育制度は硬直しすぎている部分があります。規格外の天才児の才能を伸ばし、国益に資する研究を存分に行わせる。そしてこの国は再び科学技術大国に返り咲くのです!」

 彼と、彼の家族を知る誰もが、その「天才児」を娘のことだと思い込んだ。

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