第20話 だるだる衣替え


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 朝から、喉が痛い。


 僕はセーターの袖を引っ張り、腕を組んでわきの下に手を入れながら諸連絡を聞いていた。唾を飲みこむたびに鈍い痛みが響き、頭がぼーっとして、なんだか寒気がする。


「きょうから衣替え以降期間になったが、毎年トレーナーとパーカー着てくるやつがいるけどあれ禁止だからなー。ちゃんと指定のセーターを着てくるように」

「トレーナーて。云い方」

「いや無理だろ。セーターだけとか絶対寒くね?」

「せんせー。カーディガンはダメなんですかー?」

「配った紙に書いてあるぞー。指定のセーター以外の着用は禁止。ああそうそう、タイツは十二月からだからなー。濃すぎるやつはダメみたいだから気をつけるように」

「ちょ見て見て。六十から八十デニールだって」

「はー無理でしょ。真冬どうすんの」


 衣替え移行期間になって、しろく色づいていた教室にぽつぽつと紺色が混ざりはじめている。教室のざわめきは止まず、僕ははやく終わらせてくださいと願いながら待っていた。


 衣替え移行期間中は男女とも長袖のシャツと冬服用のスカートとスラックスでなければならない。男子はネクタイ、女子はスカート丈の長さが膝が見えないくらいと指定があった。上着はブレザーと、指定の紺のVネックセーターの使用が任意で認められている。僕はまだブレザーを着たくなかったので、きょうはセーターを着てきた。


「そういうことだから、ちゃんと校則は守るように。はい以上!」


 ようやく解放されて、僕は安堵の溜息をついた。つらい。身体がだるい。だけど、これから満水さんといっしょに帰るから、表情にださないようにしないと。


「マユー。行こー」


 弓峰さんが前の出入り口のあたりで呼びかけると、満水さんが「待ってー」と答えながら立ち上がった。きょうは僕と同じくセーターを着ており、たったそれだけなのに印象が変わって、夏服のときよりも落ち着いて見える。


「下駄箱で待ってるね」

「うん」


 満水さんが振り返って、慎ましく笑いかけてくる。そのまますたすたと弓峰さんのところへ行ってしまった。あんな愉しみそうな顔をされてしまったら、意地でも悟られないようにしようと心に決めた。


 そう思ったら、すこし活力がみなぎってきた。ぼんやりとしていた頭がクリアになって目に力が宿る。すこしの辛抱、帰るまでの時間を耐えればいいだけだ。だいじょうぶ、いける。


「ケイ、途中まで行こうぜー」

「うす」


 若藤と沼がやってきた。ふたりはワイシャツで、ゆるく巻いているネクタイの隙間から、首の筋が見え隠れしている。


 僕は「うん」と答えてカバンを持ち上げた瞬間、背筋にぞわっと悪寒が走った。なんでもない動作ですら地味に身体に堪え、歩くだけでいつもの倍以上に体力を消費しているような気さえする。


 教室をあとにして、ふたりと並びながら廊下を歩いていく。周囲の話し声が、まるで工事現場の削岩機のようで、耳に入ってくるだけで気分がどんどん悪くなりそうだった。


「辛そうだな」

「なにが?」

「風邪、引いてないか?」と沼が顔色を確認するようにのぞきこんできた。「だいじょうぶか?」

「うん、ぜんぜん」と僕は云った。「きょう、寒いから、そう見えるんじゃないかな」

「そんな寒いか? ふつうじゃね?」

「そうだな」

「僕だけかな」と僕はセーターの袖を引っ張った。

「あまり、無理はするなよ」


 僕はなにも云わずに廊下を歩いて、ゆっくりと階段を下っていく。若藤にはバレていないみたいだったけれど、沼とは中学の頃からの付き合いだからか、いろいろと見透かされているようだった。それに加えて剣道をしているから、細かな機微を見抜く力が養われているのかもしれない。


「じゃあ、俺はここで」

「おう。じゃな」

「また明日」


 一階に着くと、沼がエナメルバッグを揺らしながら剣道場のほうへ歩いていく。僕は若藤といっしょに下駄箱へ行くと、満水さんが出入り口のあたりに立っているのが見えた。


 若藤が小さな声で云った。「もしも風邪引いてんならマジで無理すんなよ」

「うん。でも、ほんとにだいじょうぶだから」と僕は笑ってみせた。

「そっか。んじゃあ、また明日な」


 靴箱から靴を抜き取り、若藤が八重歯を見せて軽く笑った。けれども靴をおく際にすっと真面目な表情に切り変わると、爪先を乱暴に押しこんで、出入り口へ向かっていく。


「満水。ケイのこと頼んだぞ」


 若藤が満水さんのほうを向きながら短く告げて小走りで去っていく。僕は靴を履き替えて、彼女のところへ歩いていった。


「どういう意味?」

「心配してくれてるんだ。風邪、っぽいから」と僕は声を落としながら云った。


 正直、やられた、と思った。あんな風に云ったら、満水さんにしたらわけがわからないはずで、なんのことか疑問に思ってしまうだろう。


 沼には沼の、若藤には若藤のやさしさがあって、アプローチの仕方は違うけれども、お互いに心配してくれていたんだと思う。素直になれなくてなんだか悪いことをしてしまった。でもふたりのおかげで、一度は立てなおしたはずの気持ちが崩されて、満水さんの前で無理して振る舞わずにいられた。


「ほんと? いまどんな感じ?」

「寒気がする」

「それ熱上がるやつ。保健室で薬もらってくる?」

 僕は首を振った。「あと、帰るだけだから。ごめん、悪いけど、きょうは寄り道できなさそう」

「いいよそんなの。熱上がる前にはやく帰ろ」


 満水さんにうながされ、僕は身体をさすりながらゆっくりとした足取りで通学路を歩いていく。いまの気温がどれくらいかわからないほど寒い。まるで真冬の雪原のなかを歩いているみたいに身体が縮こまる。


「いつから?」

「朝から。喉痛くて」

「そうだったんだ」

「そのときはまだ、寒気なかったから、だいじょうぶかなって思ったんだけど」

「云ってくれればよかったのに。席、前後なんだし」

「帰る約束、してたから」

「……そういうところ、あるよね」


 満水さんの声がわずかに低くなった。その声を聞いて、僕はちらっと横を見ると、目がいつもより鋭くなり、口をきゅっと結びながら不機嫌そうにしている。


「怒ってる?」なんて煽るようなことは云えず、僕は黙ったまま力ない足取りで駅までの道を歩いていく。頭が働いていないせいか、ちょっとしたことも考えられない。思考と判断能力が明らかに低下している。ダメだ。気が弱くなっている。なにをしても、云っても、失敗してしまうような予感がした。


「駅前のコンビニ行くよ」


 満水さんに手首をつかまれて、引っ張られながら駅の近くにあるコンビニへ連れていかれる。普段、手をつないでいるときは身を委ねているような淑やかさがあるのに、いまは真逆の強い力で握られ、そこから彼女の意思を感じ取れた。


「いらしゃっせーぃ」


 コンビニに入ると、満水さんが手を離して、店内を歩いていく。レジの前にある棚から龍角散のど飴を選び、お弁当の横にあるホットコーナーからあたたかいお茶を一本抜き取った。そのまま流れるようにお会計をしているあいだも、僕は彼女のうしろをただくっついていることしかできなかった。


「ありあっしたー」


 手早く買い物を済ませて、僕らはコンビニをでる。満水さんが袋を漁り、お茶を渡してきたので、僕は「ありがとう」と云ってから受け取った。


 キャップをひねって中身を一口。多少の痛みはあったけれども、唾を飲むことに比べたらぜんぜんましだった。


「手、だして」


 手を広げると、満水さんがのど飴の外側の包装をはがして中身をおいた。ぺりぺりとはがして口に入れると、思わず顔をしかめてしまう。


「うわぁまず……効きそうだね」

「でしょ。お母さんに教えてもらったやつ。喉痛いときはこれがいいんだって。はい」

「ありがとう」


 もらった残りをポケットに入れる。鼻で息をすると、なんとも云えない草っぽい香りがして、唾を飲むたびに傷口に薬を塗られているようだった。美味しくはないけれども、頭のなかに溜まっていたもやのような消えていき、さっきよりも気分が楽になる。


 駅へ歩きだすと、僕はあることを思いだして口を開いた。


「あ、お金」

「いいよ別に。ずっと前の、マチのアイス代のお金、まだ返してなかったから」と満水さんが云った。「そんなことより、今度から、具合悪いとき云ってね」

「うん」

「わたし、やだからね」と満水さんが芯のあるような堅い声で云った。「云いたいこと云えなくなるの」

「うん」

「小暮くん、遠慮するところあるよね。そういう風にさせちゃう、わたしも悪いんだけど……云っていいから」

「うん」

「わたしも、ちゃんと云うから」

「うん」


 のど飴を舐めて、すこしスッキリした頭で考える。僕らはまだ、喧嘩と呼べるほどの喧嘩はしていない。それは原因がなかっただけなのか、お互いにそうならないように努めていたのか、相性がよかったからなのかはわからない。


 いずれにしても、これからも仲の良いままでいられたらと思う。喧嘩するほど仲がいいなんて云うけれど、喧嘩なんてしないほうがいいに決まってるのだ。


 だけど満水さんも僕も、理想の、互いの思い通りに動くわけじゃない。


 付き合っていくうちに、不満は必ずでてくるはずなのだ。そのとき、云いたいことが云える関係になりたいと思う。ずっと上辺だけ繕って、我慢して、仲が良いように付き合っていくことだってできるだろうけど、それはいつか負担に変わっていくだろうから。


 でも遠慮のない言葉は凶器になる。節度を守らなければ心を傷つけてしまう。そこだけは忘れないように意識して、僕は深呼吸をしてから、口を開いた。


「じゃあ、ひとつ云ってもいい?」

「いいよ。なに?」

「気が弱くなってるので、駅まで手をつないでほしい、です」


 満水さんが歩きながら「なに云ってるんだこいつ」と云いたそうな、ぽかんとした顔でこちらを見てくる。真面目な雰囲気を壊したくてふざけて云ってるわけじゃない。僕はいま、自分にちょっと自信がなくなっていて、このままの状態で家に帰りたくなかったのだ。


 満水さんが呆れたように溜息をついた。「そういうところも、あるよね……」

「今度はなに?」

「絶対、云わない」と満水さんが頬を染めながらほほえんだ。「はい」

「ありがとう」


 差しだしてきた手を、僕はそっと握った。


「あー。たしかに、いつもより熱い。風邪だね」

「わかるの?」

「わかる。いま三十八度八分くらいかな?」

「それやばくない? けっこうあるよ」


 体調が悪くても、いっしょにいるだけで笑顔がこぼれてしまう。無理して笑っているわけじゃなく、心の底からあふれてきたもので、手をつないでいるだけで自信と体力がすこしだけ回復して、だるさがうすれていった。


 体温がどんどん上昇しているような気がするのは、きっと、風邪のせいじゃないだろう。

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