第17話 べたべたリビング


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 チャイムを鳴らそうとして指が震えた。僕は短く吸って吐いてを繰り返し、決意をかためて表札の下にあるチャイムを押すと、しばらくして『はい、満水です』と満水さんの声が聞こえてくる。


「小暮です」

『はーい。いま行くね』


 玄関口で待っていると、ゆっくりとドアが開いて、満水さんが照れたように笑いかけてくる。ブルーストライプのワンピースの上にブラウンのカーディガンを羽織り、腰まわりの紐をきゅっと結んでいた。髪はサイドを耳にかけ、化粧をしているせいなのか、肌が若干きらきらとしている。


「どうぞー」

「お邪魔します」


 一歩、足を踏み入れる。しろいタイルの敷かれた玄関にはサンダル以外おかれておらず、さわやかな石鹸の香りが漂っていた。右側の靴箱の上にはいろいろな小物が並べられ、その近くに鍵をおいておくための入れ物がある。


「家でスリッパ履いてる?」

「あ、ううん。ぜんぜん」

「一応、用意してあるけど、履く?」

「うん、ありがとう」


 無遠慮に靴下で上がるのはまずいかなと思ったので、僕は用意してもらったスリッパに足を入れた。足の裏がフローリングについていないとなぜか落ち着かず、これを履いているだけで『お客様』なんだなと思ってしまう。


「こっち」


 満水さんの背中をついていく。廊下を歩きながら、僕は位置を把握するように顔を動かした。玄関のすぐ横に『TOILET』の札がかかり、そのとなりが洗面所になっている。他にもドアがいくつかあったけれど、そのどれもが閉じられていた。


 角を曲がると階段があり、最奥に曇りガラスのはめこまれたドアがあった。満水さんがドアを開くと、柑橘系の香りがして、広々としたリビングが目に飛びこんでくる。正面には庭に通じる大きな窓があり、お昼どきのやわらかな光が入ってきていた。テレビには旅番組らしき映像が流れ、男性タレントが美味しそうに食レポをしている。


「坐ってて。飲みもの用意してくる」

「うん」


 僕はテレビの前にある水色のソファに腰を下ろした。カバーの生地がさらさらとして肌触りがよく、やわらかすぎず、堅すぎない絶妙な坐り心地で、思わず気が抜けて「ふぅ」と息を吐いてしまう。足下にはコバルトグリーンのラグが敷かれ、楕円形の木のテーブルの上にリモコン類をまとめたケースがあった。


 前には大きくも小さくもない液晶テレビ、その下のやや長めのしろいテレビ台にはAV機器とDVDのケースが入っている。僕はついつい前のめりになって、タイトルを確認してしまった。名作から最新作まで色とりどりで、見たことのない映画もたくさんある。


「なにか気になる?」

「ああ、いや、たくさんあるなと思って」

「お母さんが好きなんだよね。わたしもその影響受けた感じ」と満水さんがテーブルにコップをおいた。「お菓子持ってくるから、もうちょっと待って」

「あ、僕もなにかするよ」と僕は立ち上がった。

「えーいいよ。そこでゆっくりしててー」

「いやほんと……落ち着かないのでなにかさせてください……」


 さっきから緊張で心臓がばくばくと高鳴りつづけている。カノジョの、いや同級生の女子の家で遊ぶこと自体はじめてなので、どのように立ち振る舞えばいいのかさっぱりわからない。気を紛らわすためにも、なにかをしていたかった。


 満水さんが手で口を隠しながら、おかしそうに「わかった」と笑って、キッチンへ案内してくれる。リビングのうしろがダイニングキッチンになっていて、コンロのうしろに冷蔵庫や電子レンジなどの家電が並び、その横に食器を入れる戸棚が設置されていた。


「お菓子、器に入れるから、運んでもらっていい?」

「うん」


 満水さんが戸棚からサラダを入れるような木の器をだし、ビニール袋に入っていたお菓子の封を切って中身を移していく。そのままでも僕はぜんぜんかまわないけれど、こうして器に乗せるだけでちゃんとしてる感があって、満水さんの性格の一端が垣間見えたような気がした。


「その服、夏休みに買ったやつだよね?」

「うん、そう」と満水さんが手を動かしながら云った。「夏休み中、けっこう着てたんだけど、まだデートで着たことなかったから」

「ストライプ似合うね」

「ほんと? はじめて云われた」と満水さんが指をぺろっとなめた。「はい持っていって。わたし、おしぼり用意するから」


 コンロの横の作業スペースに器が四つ並ぶ。ポテチ、ポップコーン、トルティーヤチップス、エンドウスナックがあった。キッチンとリビングを往復してそれらを運んでいる最中、ゆっくりとリビングのドアが開く。


「お邪魔、してます」

「は、はい」


 マチさんがびっくりしたような顔で立ち止まる。前にチャックがついているグレーのパーカーを開け、インナーはゆるい首元のしろいカットソー、パーカーと同じ色と素材で膝が隠れるくらいのハーフパンツをはいていた。髪はヘアゴムで前髪を結んでいたけれど、長さがあるせいか、ちょんまげがへにゃっと垂れている。


 マチさんがぺたぺたと足音を鳴らしてキッチンへ。僕はテーブルにお菓子の入った器をおくと「ちょ、え、マチー。部屋にいるって云ってたじゃん」とうしろから満水さんの声が聞こえた。


「喉乾いてお腹空いたの」

「は? お菓子あげたじゃん」

「もう食べた」

「はいはいそうなのー。そこの余ってるの、適当に持っていっていいよ」

「はーい」

 ひゅぼっと、冷蔵庫を開く音がした。

「ねえ、コーラ上に持っていっていい?」

「やめて。まだ飲むから。ぬるくなると炭酸抜けるから、必ずコップに入れて持っていって」

「ほんと、おねえちゃん細かいよね……」

「細かくない。文句云うならあげないよ」

「はいはいゴメンゴメン。ポテチとエンドウスナックもらってくねー」

「いやふつうにダメ。どっちかにして」

「適当に持っていっていいって云ったじゃん。それに他の余ってるし」

「あーもー持っていっていいからはやく上行ってよー」

「はーい」


 姉妹の会話に耳を傾けていると、変なおかしさがこみ上げてきた。僕は口を押さえながら耐えていると、マチさんがジュースやらを乗せたお盆を持ちながら「失礼しましたー」と云ってリビングをあとにする。


「ドア閉めてよもー」と満水さんがお尻でドアを押した。「……え、なに、どうしたの?」

「いや、なんかおもしろくて」と僕は笑いながら云った。「満水さん、マチさんといるとき、おねえちゃんだなーって」

「わたしが怒れないのわかってやってたよ絶対。普段あんな感じじゃないから」と満水さんがおしぼりをテーブルにおいた。


 満水さんがリモコンでテレビの画面を切り替え、テレビの前にしゃがみこんでDVDをセットする。映像が切り替わって宣伝映像が流れはじめたら、となりに坐って「はぁー」と息を漏らした。


「ありがとう」

「んー。ぜんぜん」と満水さんが穏やかな笑みを浮かべた。「宣伝、スキップしてい?」

「うん。お願い」


 満水さんがリモコンを操作しているあいだ、僕はコーラを口に含むと、大きな氷が動き、からんと音が立った。のどを灼くような強い刺激が稲妻のようにかけ抜けていき、口のなかの唾液がとろっと粘り気を増す。


 英語の会話が流れはじめると、僕は背もたれに寄りかかりながら画面を眺めた。はじめはコメディ系で探していたけれど、最終的に選んだのは『スチームバロックギア』という映画で、蒸気機関が発展した架空のイギリスが舞台のSFスパイアクションものだった。


 開始早々、貨物列車に、主人公のロック・ウォールがスチームパンク特有のギミックあふれた武器で潜入する。内容をあまり確認せず、雰囲気で選んだのだけど、なんとなく当たりっぽい予感がした。


 僕はポテチの入った器を持ち、画面を見ながら何枚かを口に運ぶと、満水さんが寄ってきて器のなかに手を入れてきた。会話がなくなり、ポテチのぱり、ぱり、と割れる音が鳴る。


「ね。ポップコーンほしい」


 画面を見ながら手を伸ばし、入れ替えるようにポップコーンの入った器を手に取った。だけど待っても食べようとしてこないので、どうしたのだろうと思ってそちらを見たら、なぜかわからないけどにこにこしている。


「ぅー」


 唐突に腕を抱きしめてくると、頭をぐりぐりと肩に押しつけてくる。首に髪の毛先がこすれ、シャンプーと頭皮の香りが調和した本能を刺激するにおいがした。


 僕はどきっとすると同時に唐突な行動に戸惑い、自然と身体が硬直してしまう。そーっと横に顔を動かすと、目と鼻の先に満水さんの顔があった。毛束が頬や鼻にかかり、気だるくも妖艶さを醸した流し目をしながら、なにも云わずに慎ましく口を開けてくる。


 もしかして、食べさせてってことだろうか。


 僕は少量のポップコーンをつまみ、艶やかな唇に引き寄せられるように、ゆっくりと満水さんの口に運ぶ。当たらないように気をつけていたけれど、指先が軽く当たってしまった。


 満水さんが溶かすように口を閉じ、顔を隠すように腕にしがみつきながら、じたばたと足を動かした。


「もう、お腹いっぱい……」と満水さんが深く息をついた。

「そ、そう」


 器をテーブルにおく。僕は鼻の下の汗を拭き、体内の熱を逃がすように深呼吸をした。ズボンの余ったところを握り、湧きあがってくる気持ちをなんとか押し殺す。


 まだ序盤なのにドキドキしてしまって、この先、理性を保っていけるのだろうかと、心配になった。

 

 

 あっという間に時間が過ぎて、気づけばエンディングを迎えていた。


「はあー」


 画面が切り替わり、本編再生やチャプター選択などができるようになると、満水さんが脱力してソファの背もたれに身体をあずける。僕は氷が溶けて味がうすくなったコーラを飲み干し「おもしろかったね」とつぶやいた。冒頭からハラハラする展開の連続で、ふたりして会話も忘れて没頭してしまっていた。


「ね。小暮くんと見るやつ、はずれないなー」

「次もそうだといいな」と僕は云った。「あ、ジュースおかわりいる? 冷蔵庫開けてもいいなら持ってくるよ」

「わたしがやる。坐ってて」と満水さんが立ち上がった。「またコーラでいい?」

「お茶がいいな。口のなか、すっきりさせたくて」


 満水さんがコップを持ち上げて「ん、わかった」と云って離れていった。映画を見ているあいだ、ずっとつないでいた右手が手持ちぶさたになって、僕はロボットが調子を確かめるときのように手の開閉を繰り返す。


「ここ、おくね」


 満水さんが戻ってきて、テーブルにコップをおく。さっきまで大きめのものだったけど、今度は小さめのものになっていた。


「ありがとう。コップ変えたの?」

「うん。なんか気持ち悪くない?」

「洗いもの、増えるからいいのに」

「いいのー。気になるのー」


 立ったまま、満水さんがお菓子をつまんでリモコンを操作すると、デッキからDVDが顔をだす。テレビの前に膝をつき、中身をケースにしまうと、ピッピッとチャンネルを切り替えていった。


「おもしろいのやってるかな」

「日曜のお昼ってあんまりいいのやってないよね」

「だねー。もう一本なにか見る?」

「そうだね。あ、じゃあ、そこにあるやつ見てもいい? 一度見たことがあるやつのほうがお互い疲れないし」

「いいよぜんぜん。こっちきて」


 僕はソファから立ち上がり、ラックに並んだDVDのケースを眺める。タイトルを見て内容がすぐに思い浮かぶもの、曖昧なもの、一度も見たことがないものなど様々で、さすがに二本連続でアクション映画は見たくなかったので、僕はそれ以外で楽に見れそうなのを探した。


「あ、これは?」


 ケースの背表紙を指さす。タイトルは『ポーター!』だった。有名ホテルの男性従業員が主人公で、とある常連客の荷物が紛失しドタバタに巻きこまれるというもの。事件は起きるものの殺人事件や銃撃戦などはなく、主人公が明るく前向きな性格で、通じてコミカルに描かれており、お客様との軽いロマンスがあったりと、おもしろかったのを覚えている。


「わたしもそれ好き! コニルすっごくいい人だよね!」

「待って。えっと、たしか上司の女の人だよね?」

「そうそう! なのにエドワードがさぁ……もうさぁ」

「お客さんとねぇ」

「あれは許せない。でも最後はカッコいいんだよねぇ……」

「見ながら話そっか」


 ここで話をするよりもそのほうがいいと思ったので、僕はラックからケースを引き抜いて満水さんに手渡した。セットして、ソファに坐りなおし、本編を再生する。


「これ、最初に見たのいつ?」

「えーっと。小学生のときだったかな」

「それくらいのときからいろいろ見てたの?」

「うん。お父さんが休日に借りて見てて、いっしょに」

「お父さんが映画好きなの?」

「そうだね。映画館にも、よく連れていってもらった」

「そうなんだ」

「うん」


 話しながら画面を見ていると、ついあくびがでて、徐々にまぶたが重くなっていく。


 満水さんが顔をのぞきこんできた。「眠い?」

「すこし。気がゆるんだせいかも」と僕は目をこすりながら云った。「いま何時?」

「三時になったばかり」

「何時に帰ってくるの?」

「んー特に云ってなかった。でも二次会まで行くから遅くなるって」

「そっか。夕飯前には、帰るから」


 声がちょっとずつ小さくなってしまう。満水さんの前でだらしないところを見せたくないのに、ふっつりとなにかが切れてしまったように身体に力が入らない。せっかくふたりっきりなのに、ダメだ、いけないと思うのに睡魔が容赦なく襲いかかってくる。


「いいよ、寝ても。起こすから」

「ありがとう。でも、だいじょうぶ」

「ダメ」

「もったいないから、寝たくない」

「いいの」


 頬に手がそっと触れて、顔の向きを変えさせられると、満水さんが、ちょっと拗ねたように唇を尖らせていた。


「ぜんぜん、べたべたしてこないから」と満水さんがか細い声で云った。「小暮くんからも、そういうことして、いいのに。……わたしばかり、そういうことしてて。なんか、自信、なくす」


 赤く染まった顔を、髪で隠すようにうつむいた。


「わかった」


 手を握りしめると、顔がゆっくりと上がっていく。


「じゃあ、自信つけさせるね?」


 満水さんが唇をきゅっと結び、こくんとうなずいた。


 了承を得てから、僕は頭を満水さんのほうへ傾ける。首の下、鎖骨のあたりに頬を埋めると、僕は位置をなおしながら身体の向きを整えた。


「体温、高いね」

「んーっ……」と満水さんが顔に手を当てた。

「かわいい」

「もう、やだ……」

「やめる?」

「やめない」

「そういうところもかわいい」

「もう寝てー」


 胸の近くに耳を当てているせいか、どくん、どくんと満水さんの心臓の音がかすかに聞こえる。身体が熱くなっていき、彼女のにおいが強くなっていった。人肌と鼓動が、こんなに落ち着くものだとは思わず、だんだんと意識が遠くなっていく。


「誤解されたくないから云うけど」と僕は小さな声で云った。「しなかったんじゃなくて、できなかったんだよ……そういうことに、慣れてないんだ。付き合うの、はじめてだから。気を張ってないと、いろいろダメになりそうで」


 正直に心中を告白すると、頭に満水さんのほっぺたが当たった。


「あまり頑張りすぎないで。もっと、気楽に、付き合ってほしい」

「うん。……そう、する」


 ふっと心が軽くなって、自然とまぶたが閉じていく。テレビから聞こえる音声が途切れ途切れに聞こえ、意識がおぼろげになっていった。


「わたしのこと」


 夢と現実の境目がわからなくなっているときに「大事に想ってくれて、ありがとね」と耳元でささやく声がした。

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