第9話 ひそひそ図書館


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 夏休みも、明後日にはお盆休みになる。


 お金もかからず、お互いにそろそろ宿題を片づけはじめたいと思っていたので、相談した結果、次は満水さんが普段よく通っている図書館で勉強することになった。


 その住所をラインで送ってもらい、地図アプリを頼りに自転車をこいでいくと、大きな図書館が見えてくる。僕は駐輪場に自転車をとめて、スマホの横のボタンを押して時間を確認した。ここまで二十分くらいなんだ。汗をかかないようにのんびりと来たので、飛ばせばもうすこしはやく着けたかもしれない。


 駐輪場から入り口へ歩いていく。階段を上がり、自動ドアが開くと、カウンターに黒いベストを着たスタッフが立っていた。館内は空調がきいて、紙のほんのりとあまいような、埃っぽい独特な香りが漂い、高い本棚の前で本を選んでいる人がたくさんいる。床には防音のカーペットが敷かれていた。


 僕はあたりを見渡すと、ブラインドが閉められた窓側のカウンター席に、満水さんらしき人が坐っているのが見えた。高い位置で髪を結び、薄手のブラウンのカーディガンを着て、やわらかそうな素材の黄土色のスカートをはいている。足下はいつもスニーカーなのに、きょうは光沢のある革靴をはいていた。


 彼女に近づき、さりげなく顔を確認する。


 満水さんがちょっとびっくりしたようすで身を引いた。僕は「ごめん」と手で示したら、彼女がほっとしたように表情を和らげて、となりの席においていたカバンをどかしてくれる。


 ここも、どうやら自習スペースらしい。


 すこし離れたところには長机があり、そこには大勢の人が坐って、読書やなにかをノートにまとめている人がいた。奥の壁側には仕切りのある机があり、イヤホンを耳に入れて貧乏揺すりをして勉強している人や、参考書らしき分厚い本を積んだ人がいる。


 たまに小学生くらいの子の話し声が聞こえてくるけど、私語はほとんどない。物音を鳴らしたら、全員から顔を向けられてしまうんじゃないかと思えるくらい、静謐な雰囲気が漂っていた。


 席に坐り、僕は一息ついてから夏休みの宿題を取りだした。一学期に学んだ内容を詰めこんだ問題集で、僕は英語と数学を持ってきていた。ひとつに絞ってしまうと、息詰まってしまったときになにもできなくなってしまうから。


 僕は問題と向き合い、シャーペンを走らせる。わからない問題は飛ばして、解ける問題だけ解いていると、横から満水さんがノートをすっと差しだしてきた。


『迷った?』


 彼女の内面がそのまま文字になったような、流麗な筆致だった。


『ゆっくり来ただけ』と僕は書いてノートを返した。


 満水さんが納得したように何度もうなずいた。


 テーブルにおいてあるペットボトルの紅茶が半分くらい減っている。きょうは厳密に時間を決めたわけではなく、だいたいで待ち合わせをしていたのだけど、満水さん、もしかしてけっこう待ったのかな。


 悶々としながら宿題を進めていく。さっきの云い方だと、なんだかきょう会うのを愉しみにしていなかったのかと、思われてそうで。


 僕は耐えきれず、ノートに文章をさらさらと書いていく。


『満水さんと、宿題、したくなかったわけじゃないから』


 ノートをさりげなく差しだす。彼女が読んでいるところを見ないように、僕は問題を考えるふりをした。


『心配になって、きいただけ』


 ノートが戻ってくると、僕は頬杖をついた手で口を塞ぐ。急に鼓動がはやくなり、頬と、耳が熱くなってきた。いまの顔、絶対に見られたくない。


 軽く息をはいて顔を戻したら、僕らのあいだにまた満水さんのノートがあって『字、きれいだよね』と書かれていた。


『習字やってたから』と僕は書いてからつけ足した。『小学生まで』

『そうなんだ』と満水さんがシャーペンを動かした。『じゃあ、かいこうって、漢字できれいに書いてみて』

 僕は一瞬考えて『邂逅?』と丁寧に書いた。

「ありがと」


 満水さんが小さな声で告げてきて、プリントの空欄を埋める。どうやら漢字の問題を解いていたらしい。なるほどと思って、僕も訊いてみることにした。


『英語、得意?』

『ふつう』

『この文章の訳、わかる?』


 問題を見せると、満水さんが目で追ってから、小さくうなずいて、ノートにさらさらと訳を書いていく。僕はその答えを見て、合っていることを確認せずに解答欄に写した。わざとわからないふりをしていたとバレないように。


『助かった。ありがとう』


 僕はお礼を書いてふたたび問題に取り組んだ。満水さんにしても、ほんとうにわからなかったのか、それともただ訊きたかっただけなのか、真実は本人にしかわからない。


 本来ひとりでしなければいけない宿題を、わざわざいっしょにする必要なんてない。だからきっと、ふたりで勉強するって、こういうことなんだろうな、と思う。ほんとうにわからないところもあるけど、答えをわかっているけど、そばにいるから訊いてみたい、と。


 それから僕らは、わからないところを筆談で教え合ったりして、まわりの迷惑にならないように、宿題をのんびりと進めていった。


 徐々に椅子を動かして、腕が当たるか当たらないかくらいの距離になった理由を訊くことは、お互いになかった。



 館内に閉館時刻を告げるアナウンスが流れはじめると、そこらにいた人達がいっせいに片づけをはじめていく。ベストを着たスタッフさんがうろうろと見回りをしはじめ、そわそわと忙しない雰囲気になっていった。


 満水さんがぐーっと腕を前に伸ばし「んぅー」と声をだした。しゃべっていても注目されないくらい空気がやわらかくなり、僕も気がゆるんだせいか、ふぁっとあくびが漏れてしまう。


「進んだねー」

「そうだね」


 僕はリュックに問題集を詰めて支度を整える。宿題は思ったよりも進んで、英語に関してはあとちょっとで終わるところまできていた。


 満水さんがトートバッグに荷物を入れていく。焦らせないように、僕はカバンを抱えながらぼーっとしていた。ブラインドの隙間から外が見える。昼間と比べて、ずいぶん日の光が和らいでいた。


 満水さんといると、時間がはやく感じる。普段、家でだらだらとテレビを見たり、スマホをいじったりしているときには、こんな風に感じたことはない。部活にも入っていないので、いつも自堕落に過ごしがちな夏休みだけど、今年は有意義に過ごせているような気がした。


「ごめん、お待たせ」と満水さんが椅子を戻した。

 僕は立ち上がった。「ううん、ぜんぜん」


 忘れ物がないかを確認して、僕らは館内からでる。日は落ちてきているのにサウナへ入ったときのような熱気に包まれ、湿気が肌にまとわりついた。


「満水さん、歩きなの?」

「うん。最近、運動不足だったから」

「僕、自転車取ってくるから、待ってて」


 僕は小走りで駐輪場へ向かう。スタンドを蹴り上げ、自転車を押して戻ると、満水さんが入り口の近くに設置されている掲示板を眺めていた。


 ハンドルを握りながら、満水さんのうしろで、掲示板に張りだされていたポスターを見た。濃紺の背景に『第三十八回 絹川花火大会のご案内』と見出しがあり、花火の写真がいくつもプリントされている。開催日は八月二十七日。


「花火大会、あるんだよね」


 満水さんが肩にかけていたトートバッグの持ち手をぐっと握った。小さな手の甲に、骨の輪郭が浮かぶ。


「おばあちゃんに、浴衣もらってこようかな」


 僕はハンドルをぎゅっと握った。手のひらが汗ばんでいるせいか、かたいゴムが肌に吸いつく。


「見たいな、浴衣姿」


 満水さんはこちらを振り返らず「じゃあ、あっちに帰ったら、頼んでみるね」と明るい声で云った。トートバッグの位置を整えて振り返ると、暑さのせいなのか、夕日のせいなのか、それとも僕のせいなのかわからないけれど、頬がほんのりと赤みを帯びていた。


 これだけで、行くことになったんだと思う。いままでは、はっきりと誘っていたけれど、いまはお互いに行くことが前提で、ふんわりと話が進んでいるように思えた。


「帰ろうか」

「うん」


 僕は自転車を押しながら、満水さんのペースに合わせて歩きだした。この暑さなので、急ぐこともなく、お互いにのんびりとした足取りで進んでいく。


 お互い、無言だった。


 なのに、気まずい感じはなく、どこか心地いい空気が流れている。


 僕は時間を稼ぐように、だけどその気持ちを悟られないくらいの歩調で、帰り道を歩いていった。お盆にはおじいさんの家へ行くと云っていたので、満水さんとしばらく会えなくなってしまうから。


「あ。わたし、こっち」


 大通りに差しかかると、満水さんが横断歩道の前で立ち止まった。帰宅時間帯だからか、道路には多くの車が走っている。


「うん。じゃあ、また」

「うん、またね」


 僕はサドルにまたがり、彼女に背を向けて、ペダルを踏みこんだ。穏やかな色味に変わった空を眺めながら、僕は決意する。


 花火大会の日に、告白しよう、と。


 夏休み前、満水さんに告げたあの一言を忘れたわけじゃない。自然に接するために、なるべく意識しないように過ごしてきた。だけど、もう限界だった。満水さんと会うたびに、どんどん欲がでて、好きだと伝えたくて仕方がなくなってくる。


 フられたら、きょうみたいにふたりで会うことはできなくなる。


 でも、もう胸にとどめておけそうにない。


 たとえ悲惨な結果になったとしても、後悔は、しない。

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