山川沙月の現在

 ちょうど踏切に引っかかるなんて、こんなに運があることはない。

 山川沙月やまかわさつきはそう思わずにはいられなかった。あとは電車が目の前を通る寸前に、思いっきりアクセルを踏めばいいだけ。沙月はハンドルを握っていた両手をきつく握りしめた。両脇から汗が流れるのを感じる。沙月が運転している車の真上には太陽が燦燦さんさんと輝いていて、熱気を容赦ようしゃなく振り落としていた。きっと暑さのせいだろう、死ぬことを恐れているのではないと沙月は自分の心に呼びかける。しかし、これから死ぬことを考えれば考えるほど心拍数は上昇し、全身から水分という水分がとめどなく流れ落ちていく。呼吸を整えるためにバックミラーで自分の顔を確認してみた。ひたいはきり吹きがかけられたように水滴でまみれている。沙月はハンドルから両手を離し、熱を逃がすようにして短い髪を掻いた。

 うまくやれば事故に見せかけることができる。不慮の事故で死んだことになればいい。沙月は家を出るまでに決意したことを繰り返す。

 他人から見たら、自殺と事故では大きく違う。自殺であれば、『自殺なんて絶対にするものじゃない』だとか、『誰かに相談すればよかったのよ』とまるで悪者のように扱われる。私のことをつゆも知らない自殺防止センターが啓発材料として使われるのが関の山だろう。しかし、事故はどうだ。よくあるだろう、ガードレールを突き破り、崖の下まで車ごと転げ落ちて若い運転手が死亡すること。きっと人々は『あら、アクセルとブレーキを踏み間違えたのね。かわいそうなことだわ』と慈悲の目を向けるに違いない。

 では、これらを踏まえて、自殺と事故、あなたはどちらを選択しますかと問われれば、やはり事故を選ぶだろう。ただ、事故は滅多に起こることがない。

 だから、演じなければいけなかった。

 事故を演じた自殺は、もはや事故なのだ。

 死ぬ直前になってまで世間体を気にするものなんだな、と沙月はひとり苦笑してしまった。

 自分を守ることはできないであろうかぼそいポールが、ハードルのようにゆっくりと目の前の進路を阻む。このポールさえ押しのけて線路に車ごと入りさえすれば、自分の作戦は成功するはずだった。

 しかし。

 沙月は、両手をハンドルに戻し、今まで目を逸らしていたことに意識を向けた。

 踏切の手前で停車した時から気づいたことであるが、踏切の棒と棒の間、つまり線路上に、白いワンピースを着た女性が立っていたのだ。年は20代前半だろうか。沙月は彼女も自殺志願者なのだろうかと考える。日本の自殺率は世界有数だとワイドショーか何かで聞いたことはあったが、まさか自殺のタイミングがかぶるとは。そこまで自殺が身近だったなんて思わなかった。沙月は彼女をどうしようかと思いあぐねたが、どうせなら一緒に死のうと決めた。

 赤信号、みんなで渡れば怖くない。この原理とおよそ同じだ。

 電車が遠くからずんずんとやってくる。沙月は右足をアクセルペダルに置きかえた。残りの時間は音楽に耳を傾けよう。車にエンジンをかけた時からかけっぱなしにしているアルバム。最近亡くなった世界的ロックスターの歌声が耳に響く。


 僕たちは英雄になれる

 僕たちは英雄になれるさ

 僕たちは英雄になれる たった一日だけは

 僕たちは英雄に


 電車が顔を大きくしながら向かってくる。沙月が右足の筋肉に力をこめようとした瞬間、沙月の目が何かをとらえた。その何かは人であることに気付くと、すかさずこう思ってしまったのだった。

 『やっぱり今日は自殺の日か何かなの?」

 そんなくだらない検討をしているうちに、電車は沙月の前を猛スピードで駆け抜けていった。

 自殺しそびれた、沙月はその後悔も思いつくはずであったが、それよりも先に、二人の安否が気になっていた。

 すさまじい速度でぶつかる鉄の塊の衝撃は、人間をどのようにしてしまうのだろう。沙月は自分自身が受けるはずだった衝撃を想像し、この上ないおぞましさを感じた。しかし、電車が通り抜けた後、線路の脇に二人の人間が倒れているのをみたときは、考えが180度変わっていた。電車にぶつかってもたいしたことないのかもしれない、だって、二人が着ていた白い服は血まみれになっていることもなかったし、なんなら一人はもうすでに立ち上がろうとしていたからだ。

 沙月が別の見解を思いついたのは、少し時間が経ってからだ。ああ、そんなはずはない、二人は電車にぶつかったんじゃなくて、電車を避けたんだ。もっと正確に言うと、線路に突っ立っていた女性を、ある人が助けたんだ。その人は今、立ち上がって倒れている女性の元へ近づいている。身長は高く、すらりとした体躯たいくは、まるでモデルかのようだった。どうやら、女性の方も意識はあるようだった。

 すっかり安堵あんどしてしまっていた沙月は、自分が先ほどまで何をしようとしていたか忘れかけている。なんなら、二人の元へ駆け寄って、救われたことを祝おうかとも思ったくらいだった。

 しかし、後方から軽トラックが暢気のんきにこちらの方へと近づいてくるのがみえたため、 沙月は車を発進して線路を渡り切らなければならなかった。

 車の中を満たしていた曲は、いつのまにか最終フレーズに到着している。

 沙月は大ファンであるロックスターの歌声に負けないくらいに大きな声で、大好きな歌詞を口ずさんだ。


 僕たちは英雄になれる

 僕たちは英雄になれるさ

 僕たちは英雄になれる たった一日だけは

 僕たちは英雄に

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