スクランブル

うにまる

武井緒乃花の現在

 一陣の風すら吹いていない平日の正午過ぎ、武井たけい緒乃花おのかは雲ひとつない空に浮かんでいる太陽を見上げていた。日差しが顔に刺さりジンジンとする。これから電車に当たって死ぬ人にも痛みは感じるものなのね、緒乃花は太陽から目をらし周りを見渡した。犬の散歩をしている婦人でもいるだろうかと思ったが、犬や婦人はおろか、人っ子ひとり見当たらない。たしかに、人通りが少ない場所、時間を選んだのだなと気づかされる。緒乃花は自分の足元に敷かれている線路をなんとなく眺めた。この線路はどこまで続くのだろうかと遠くに目を移動させる。すると、ずっと奥の方で、ひまわりが線路の両脇に咲き乱れているのを発見した。緒乃花はひまわりに対して呟く。

 「毎日ずっと騒がしい音を聞いていなきゃいけないなんて、気の毒ね」

 緒乃花はひまわりに対し同情の思いを抱いたが、それと同時に嫉妬もした。

 「なのに、どうして上を向きながら、胸を張って生きることができるの?」

 立派に生きるひまわりに無様な死をさらすのも申し訳なく感じる。申し訳なく感じるのはひまわりにだけではない。電車を利用する人にも迷惑がかかるだろう。しかし、たったひとりの最期の願いをどうか見過ごしてほしいと思う。私はこの世に存在するのか。それが知りたいだけなのだ。私が存在するなら、電車の運転士はブレーキをかけるだろう。かけなかったら、私は存在していないことになる。これを確かめるのは、この方法しか思い浮かばなかった。

 それにしても、これから死ぬかもしれないのに他人のことを思いやることができるものなのだな、と緒乃花は自分のお人よしぶりに少し感動した。

 緒乃花の耳に無機質なアナウンスが流れる。

「まもなく 電車が通過します ご注意ください」

 その後まもなく黄色と黒が交互に折り重なった模様の弱弱しい棒が緒乃花の前と後ろを塞いだ。

 ケーンケーンとけたたましいサイレンが鳴り響く。耳を澄ませてみると、ほかにも虫のような鳴き声がジリリリとまるで夏の熱気を表現するように聞こえてきた。

 ふと緒乃花は後ろを振り返った。サイレンや虫の羽音にまぎれて、何か音楽のようなものまで聞こえたからだ。はたして後ろにはいつの間にか白いミニワゴンが音楽を漏らしながら踏切の前で止まっていた。エンジンは動いているのだから人は乗っているだろう。緒乃花はフロントガラスを凝視してみるが、太陽の光が反射してよく見えない。少しかがんでみたものの、ハンドルに両手が掛かっているのだけが見え、顔までは判別できなかった。

 やはり私は存在しないのかもしれない。緒乃花は諦観ていかんの念を強くする。白いミニワゴンは緒乃花に対し、そこから離れろと注意を喚起するわけでも、今助けに行くと手を差しべるわけでもなく、ただ音楽だけを漏らしていた。

 運転手に私の身体は見えていないと緒乃花は勝手に結論付けた。

 足の裏から細かい振動が伝わる。どんどんと振れ幅が大きくなっていき、緒乃花の心臓の鼓動も競争するように速くなっていく。

 電車が空気を押しのけて向かってくるのを自慢の長い黒髪で感じる。電車は速度を緩める気配すら感じさせない。

 緒乃花はゆっくり目を閉じた。

 やがて、電車が綺麗な音をまといながら踏切を通過する。


 緒乃花はゆっくり目を開けた。青一色が広がっている。背中に熱を感じる。どうやら自分は仰向あおむけで大の字を描いているらしかった。死んだあとはこんな感じなのだろうか、緒乃花は半信半疑で身体を起こしてみると、そんなことはないと考えを改めた。先ほどまで見ていた景色、つまり現実の世界の続きが眼前に広がっている。白いミニワゴンは踏切の向こう側へ消えていく途中で、太陽も相変わらず輝いていた。自分の身体をぐるりと見まわしてみるが、血も傷も見つけられなかった。

 「大丈夫でした?」

 不意に声をかけられたため、緒乃花は唖然あぜんとしてしまった。数秒後、やっとのことで声を出す。

 「え、ええ。一応……大丈夫みたいですけど」

 声をかけてきたのはひとりの男性だった。男性は頭を抱えながら緒乃花のそばに立っている。肌が白く、唇が薄かったせいかかなり中性的にみえ、声も風鈴の音のように透き通っていた。

 「それはよかった。それにしても接着剤はついてなかったんだね」

 「接着剤?」

 「踏切の真ん中で突っ立って一歩も動かないから、これは動かないんじゃなく動けないんじゃないかってね。踏切に瞬間接着剤でも塗られているかと思ったんだよ。電車が見えた時は体が勝手に動いて君を引っ張っていたんだけど、瞬間接着剤が線路に塗られていたとしたら、僕と君と電車でバチンだったね」

 男性は笑みをたたえながらしゃべる。目じりにしわができ、かすかにえくぼも見てとれた。

 「あの……、もし瞬間接着剤で動けなくなったら、靴を脱いで逃げませんか?」

 「なるほど、その手があったか」

 男性はまた目じりにしわを寄せた。

 「でも、どうやら私は存在していたみたい」

 線路をトンネルのように囲み咲いていたひまわりは、通り抜けた電車の風によって、ゆらゆらと顔を縦に揺らしていた。

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