3-3


 子供の頃に戻ったかのように、僕は夢すら見ない眠りに落ちた。

 朝食を食べて部屋に戻り、窓ガラスの先に広がる海を眺めながらベッドに腰を下ろした途端、違和感のない人間らしい幸福な眠気に包まれて、そのまま僕は落ちて行った。

 次に目を覚ますと、海は赤く染まり始めており、頭の中が生まれ変わったかのように目に映るものが以前よりも鮮やかに見えるようだった。赤という言葉の中に、何色もの色が含まれていた。


「…………」


 立ち上がって体を伸ばす。本棚に目を向ける。そこには早朝触れることの出来なかった面影がある。

 僕が走り続けて来た面影。不思議なことに、早朝胸の内にあった躊躇いはどこにもなく、僕は子供の頃と同じようにその一つを手に持ち開くことが出来た。

 白と黒。五つの線に散り撒かれた種は、確かに一つの線となってピアノの音を響かせる。当時の僕の字はまだそこに残っていて、純粋に懐かしいなと、そんなことを思う。

 ピアノのことは嫌いになった。きっと、僕はもうピアノを弾くことは出来ない。それでも、当時奏でていた音はすべてこの五線譜に残っていて、触れた途端線になって走り出すのが分かる。

 どこまでも軽やかに、時に重く、遠くへ届けと音が聞こえる。

 本棚に並んだ楽譜の数だけ、僕とピアノとの旅路があった。いつからか溺れるように息苦しい旅になってしまったけれど、途方もなく歩んできた事実は消えることのない事実として、この楽譜が示してくれている。

 そのことに少しだけ救われる自分がいて、それらを大切に奥底へ沈めるように、僕は楽譜を閉じて本棚へと戻した。

 そういえば、あの楽譜はどこだろう。気になって本棚を見回すが、どこにも見当たらない。

 僕が捨ててしまったということはないはずで、両親が勝手に捨ててしまったということもないはずだ。

 なら、どこか別の場所に仕舞ったのだろうかと机の引き出しやベッドの下の収納箱なんかを探してみるが、しかしどこにもない。

 どこにやってしまったのかと当時の記憶を遡るが、焦げるような切ない思いが広がるだけで楽譜の在りかが掴めそうにはなかった。


「…………」


 とはいえ今更それを見つけて開いたところでどうしようもないだろう。あの楽譜に撒かれた種が芽生えて音となることはないだろうし、届けたい相手もいないようなものだ。そもそも僕はピアノを弾くことが出来ないのだし、本当にどうしようもない。

 ひっかかれるような感傷を押し殺すように少し散歩をすることにした。コートを羽織って階段を下り、母親に夕食の時間を尋ね、その時間までには帰ると告げて外に出る。

 会社から解雇された後、何もすることがなくて外を彷徨うように歩くことが増えたのは、きっと何かを探し求めているからだろう。

 失ったものはあまりにも大きくて、生きることよりも死ぬことの方が魅力的に見えてしまうほどで、そんな穴を埋める何かをきっと探しているのだと思う。

 そんなものがすぐに見つかるわけがないというのは分かっている。探そうと思って見つかるようなものでもないのだと思う。

 かつての僕にとってのそれはピアノであったが、ピアノと初めて出会ったのは本当に偶然のようなものだった。

祖母の家へ遊びに行った時、もしも僕がトイレへ行かなかったら、仮に行ったとして、もしもピアノがある小部屋の扉が開いていなかったら、きっと僕はピアノと向き合うことはなかったと思う。

 今となってはピアノと出会ったことが果たして僕にとって良かったことなのかは分からない。もしかしたらそうならなければ良かったのかもしれない。いずれにせよ、確かなことはそういった些細なことで進む道が大きく決まってしまうことがあるのだということだろう。

 だからこそ、僕はこんな風に外を彷徨うのかもしれない。とても小さなことで良い。劇的な変化をもたらす光景である必要はなくて、例えば道端に落ちた潰れた空き缶のような、そういうものを通して少しずつ埋めていけたらいい。

 それを、多くの人は子供の頃の経験や趣味、周囲の出来事や友人といった人間関係から拾い上げて行くのかもしれないけれど、しかし僕にはどれも手段として成り立たない。友人はおらず、子供の頃はずっとピアノだけを弾いていて、趣味だってこれといってない。

 だから、こうして一からやるしかないのだと思う。立ち止まっていられる場所が僕にはあったのだ。立ち止まって、腐りそうになったのだとしたら叱ってくれると言ってくれた人がいた。

 そのことが純粋に嬉しかった。自立しよう、一人で立っていられるようになろう。今でもそう思っている。でも、時にはこんな風に腰を下ろしてもいいのかもしれないと、そう思えるくらいには僕の心は休息を受け入れてくれるようになった。

 僕は、見つけ出すことが出来るのだろうか。まだ見ぬ何かを、あるのかも分からないそれを見つけて、手にすることが出来るのだろうか。

 少しずつ太陽が沈んでいく。五時の鐘が鳴り、もうじき夜がやって来る。

 海は何も変わらなくて、どこまでも続いている様を眺めていると、僕なんて存在はどこまでもちっぽけなものであると自覚出来て、でもその事実が悲しくて悔しいとは思わない。

 それは事実だからだ。僕の奏でるピアノの音はついぞ夢の果てへ、この海の向こう側へ届くことはなかった。ちっぽけであった僕は、ちっぽけであるこの町に戻り、ちっぽけに座り込み、こんな風に海の果てを眺めている。

 防波堤に座り、赤く染まった砂浜と海の境界線に視線を移し、その狭間に沿って目を動かす。

 ふと、その先、左の方に人の姿があった。防波堤の先端。かつて通っていた学校の近く。小学生の頃に鳴海とよく海釣りをしていた辺りに、紺色のスカートを海風に靡かせている人の姿が見える。

 あれは、確か通っていた学校の中学生の制服だ。おそらく現役生だろう。

 その女子中学生は、防波堤の先端に一人で立ち、海の先を見つめているようだった。それなりの距離があることと、夕日の光の所為で何をしているのかは分からないが、その様子はどこか儚げに見えた。

 学校と言えば、確か今年度中で廃校になるのだということを思い出す。もしも僕があの学校に通っていた時に廃校となることが決まったのだとしたら、その時僕は何を思うだろう。


「…………」


 立ち上がって、僕は自然と足を進めていた。近づいて行くごとに防波堤の先に立つ人影の輪郭がはっきりと浮かび上がる。

 それから、波の音に交じって不規則にカシャリという乾いた音が聞こえて来る。

 何の音なのか分からなかったが、少女の姿がはっきりと見えるようになるにつれて、その音の正体が分かる。少女はカメラを持ちファインダー越しに海を眺めており、カシャリという音は彼女がシャッターを切る音であった。

 すぐ近くまで行くと、僕の足音に気が付いたのか、少女はファインダーから顔を離し、僕の方に振り返った。

 夕日を浴び、黒いカメラと少女の短めな黒髪が光る。少女の瞳は細く切れていて、明らかにこちらを怪しんでいる表情だった。


「何?」

「ああ、いや」


 それも当たり前だ。見ず知らずの男性が近寄って来たのだ。不信感を抱かない方がおかしい。

 咄嗟に出たのは、学校で先生をやっている彼女の名前だった。


「秋野さん? 秋野先生?」

「そう、秋野先生。僕、彼女と中学まで同級生で、今少し訳があってこっちに戻って来ているんだけど……」


 来ているのだが、その後の言葉が見つからない。

 どうしようかと言葉を探し視線を泳がせていると、目の前の少女は「待って」と言って僕のことをつま先から頭の上までじっくりと観察してくる。


「えっと、何?」

「いや、どこかで見たような気がして……ああ、学校の玄関口にある写真で似たような顔をした人を見たことがあるんだ」


 少女は「じゃあ、本当に卒業生で秋野先生の同級生?」と尋ねて来る。僕は「うん、そうだよ」と言葉を返した。


「ふ~ん……で、何の用?」


 そう言って、少女は再びファインダーを覗き始め、シャッターを切り始める。


「いや、遠くで誰かいるなって思って、あの学校の制服を着ていたから、ちょっと気になったんだ」


 すると、少女はカメラごと僕の方に向き直り、カメラに顔をつけたまま「その発言は、言葉だけ聞けばとても怪しいんだけど」と平坦な声で少女は話す。


「そうだね。僕でもそう思うよ」

「何それ、変な人」


 何となく、僕は少女に「カメラが好きなの?」と聞いてみる。少女は「そこそこ」と言ってカメラを空へ向け、シャッターを切った。


「空を撮るの?」

「ん」


 少女はカメラをこちらに向ける。先ほど撮ったらしい写真が小さな液晶画面に映っていて、そこには一匹の鳥が赤く燃え上がった空を背景に翼を羽ばたかせていた。

 写真のことは良く分からないけれど、少女の撮った写真はどことなく哀愁が漂っていて、素直に好きだと思った。


「写真のことは分からないけれど、いい写真を撮るね」


 僕がそう言うと、少しだけだが少女は初めて表情を崩し、「どうも」と小さく呟く。

 それから、少女は脇に置かれた鞄を持って、カメラを仕舞い歩き出す。


「カメラが好きというか、多分切り取るのが好きなんだと思う」


 そして少女は「じゃあね、変な人」と言って歩いて行った。

 切り取るのが好き。少女の言葉の意味するところを少しだけ考えた所で、そう言えば廃校になることについて聞きそびれたことに気が付く。


「…………」


 自分自身も今思えば変わった中学生だったと思うけれど、あの少女も少し変わっている中学生だなと、そんなことを思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る