3-2


 しっかりとした朝ごはんを食べるのはいつ振りだろう。ワイシャツを来た父はテーブルに並んだ朝食を口に運んでいる。


「はい、どうぞ」


 目玉焼きにレタス、ソーセージ、そして食パン。子供の頃、確かに僕はこの朝食を食べて学校へ行っていた。なんだかそれがとても昔のことのような気がしてくる。目の前に父がいて、台所に母がいて、かつて日常であったはずなのに、僕はいつの間にかそんな些細な日常を失っていたことに気が付いた。

 箸を持って、「いただきます」と声に出す。いただきます、なんて言葉を口にするのも久しぶりかもしれない。

 少し焦げた目玉焼きは、確かに母が焼いた目玉焼きで、黄身の部分を割るとトロリと中身が流れ出てくる。食べているのはただの目玉焼きだ。それなのに、どうしてこんなにも美味しいと感じてしまうのだろう。


「信世、あんた何時に出て行く……って、ちょっとどうしたのよ?」

「え?」


 母は珍しいものでも見たかのように僕の顔を見つめる。

 頬に何か伝うものを感じて指先で触れてみると、どうやら僕は泣いていたらしい。


「どうかした?」


 母は、いつの間にか僕の隣の椅子に座っていて、父も朝食を食べていた手を止めて僕の顔を見つめてくる。

 涙はもう流れない。でも、心の奥底が激しく揺れ動いていて、こんな気持ちは初めてだった。

 ボロボロと言葉が流れ出て行く。自分でも笑えるくらいに、ボロボロとがけ崩れでも起こしたかのように口から言葉が出て行く。

 会社で働いて、倒れて、解雇されたこと。祖母とのこと。昨日彼女と話をしたこと。ピアノが嫌いになったこと。昔のこと。目玉焼きの美味しさだとか、この町の海の美しさだとか。なんだかよく分からないけれど、そう言った事を脈絡もなく僕は話した。

 時間にして五分もない。これまで何年も溜め込んで言えなかった言葉たちは、その程度の時間で外へと出て行った。そんな話を両親は最後まで受け止めてくれて、ああ、僕はきっと、両親の前ではいつまでも子供になってしまうのかもしれないと、そんなことを感じながら話をした。


「立ち止まったとして、それは許されるのかな」


 そして、立ち止まった後、僕は再び歩き出すことが出来るのだろうか。

 ほんの少しの沈黙の後、父は食パンを一かじりしてコーヒーを飲む。

 それから、「で、いつまでこっちで過ごすんだ?」と、それが当たり前であるかのような口調で父は見慣れた表情で僕を見る。


「いいの?」

「何が? 別に、今更一人くらい養えるさ」

「でも、」


 でも、僕はもう大人だろう。立ち止まっていられるわけもなく、それは許されることなのだろうか。

 背中が叩かれる。目の覚めるような痛みと、母の笑い声が聞こえた。


「昨日も言ったでしょ。ここはいつまでもあんたの家だからって。いつでも帰って来ていいわ。それよりも、倒れたことを今まで黙っていた方が問題だと思うんだけど」


 そう言って、母は僕の頬をつねる。「ご、ごめんなさい」と反射的に言葉を返すと、「うん、よし」と母は笑った。そこには祖母がいなくなって涙を流していた昨日の母の姿はどこにもなくて、どうしてこんなにも強くあれるのだろうかと、昨日はあれほど遠くに感じていたのに、今目の前にいる母はどこまでも僕の知っている母だった。


「まあ、信世の気持ちも分かる。不安なのも分かる。でも心配するな。信世が腐ったらしっかり叱ってやる。それに、信世はよくやって来た。だから、少しくらい休んでも罰は当たらないさ」


 父はそう言って笑う。目元の皺が増えたような気がするけれど、その顔はどこまでも僕の知っている父の姿だった。


「そう、かな」

「そうよ」


 もう一度、今度は先ほどよりも強く背中を母に叩かれる。


「さあ、決まったんならさっさと朝ごはん食べちゃいなさい」


 テーブルの上に並んだ朝ごはん。目玉焼きの味を噛みしめる。

 悩んでいたことが馬鹿らしく思えて来て、なんだか無性に笑えて来て、まだ冬だというのに、ほんの少し桜の花びらが見えたような気がした。

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