三年目の浮気

柚緒駆

三年目の浮気

「おはようございます。ご気分はいかがですか。こちらはプロキオン第1病院、担当AIの132号です。患者様はいま麻酔から覚め、意識を取り戻したところです。現在患者様の脳は、人工頭蓋にセッティングされ、視覚と聴覚のみがお使いになれます。周囲がご覧になれるでしょうか」


 僕は重いまぶたを少し開けて、周囲を見た。白い卵形のドームが階段状の棚にいくつも並んでいる。これが人口頭蓋か。自分もこの中のひとつなのだな、と理解するのに時間はかからなかった。


「問題なく見えているようですね。視覚野の反応も良好です。この声が聞こえているのであれば、聴覚機能も正常です。患者様の脳は大変に健康と言えます」


 何とも皮肉なものだ。交通事故で肉体ボディを復元不可能なまでに破壊され、脳だけになった僕が健康であるなどと。肉体があった頃は生活習慣病予備軍であり、医者に不摂生を指摘されてばかりだったのに。


「患者様の今後のスケジュールですが、肉体のクローン培養に約2年9ヶ月かかります。移植手術は3時間以内で終了しますが、その後、身体に慣れるためのリハビリテーションに3ヶ月を要します。つまり合計入院期間は約3年となります」


 3年。それは無限の時間に思えた。こんな辺境の病院で3年も暮らさなければならないのか。愚痴を言いたかったが、人工頭蓋に口はなかった。


「当病院ではこの人工頭蓋を通じて様々な娯楽を提供いたします。これは過去に利用された患者の皆様から満足度90%以上の高い支持を得ております。初回説明はこれで終了です。今後は脳内各部の活動を監視し、適切な処置と対応を行いますのでご安心を。では、3年のご滞在をどうぞお楽しみください」


 そして静かなピアノ曲の旋律が流れてきた。ふざけるな、何が娯楽だ。何がお楽しみくださいだ。湧き上がる苛立ちをどこかにぶつけたかったが、肉体のない身ではどうしようもない。

 と、そこに病室のドアが開き、人影が入ってきた。僕の心は躍った。僕が3年の病院暮らしを耐えられない、その理由がやって来たのだ。彼女は人工頭蓋の並んだ棚を端から見ている。棚には患者の名前が書いてある。そしてようやく僕の人工頭蓋を見つけた彼女は微笑んだ。


「あなた! 手術は成功したみたいね」


 僕の愛する妻。ああ、今すぐ抱きしめたい。まだ結婚して3年しか経っていないというのに。どうして僕には腕がないのだろう。


「あなた安心して。手術代も入院費用も、全部前払いで精算しています。何も心配せずに入院していてね。私の方は大丈夫だから」


 美しく優しい妻。そして気丈な妻。僕の不安を和らげようとしてくれている。僕は何て幸せなんだと思うと同時に、これまで妻に甘えていたことを恥じた。退院したら、一生を妻のために捧げよう。その決意は岩のように固かった。


「あ、それとついでに言っておくわね。離婚届はもう役所に提出していますから」


 ……え? 離婚届? どういう意味だ。混乱する僕の目の前に、再びドアが開き、若い男が入ってきた。どこかで見覚えが……僕を車で轢いた男じゃないか!

 妻は男の腕を取ると、満面の笑顔でこう言った。


「私、彼と暮らすことにしたの。幸せになるわ。じゃあ、さようなら」


 混乱したままの僕を残し、妻と若い男は病室を出て行った。僕は呆然としていた。何も考えられなかった。だからいつの間にか別の男が病室に入ってきていたことに、まるで気付かなかった。


「あんたも大変だな」


 男は僕の正面に立つと、人工頭蓋の上に手を置いた。そこでやっと、僕に話しかけているのだと理解した。


「俺もようやくリハビリが終わってね。今日退院なんだ」


 何となく見覚えのある男。誰だ。随分前に会ったような気がするが、混乱した僕の頭脳は思い出せない。いったい誰なんだ。


「覚えてるかな」男はニヤリと笑った。「3年前にあんたが殺そうとした、あの女の前の旦那だよ」

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三年目の浮気 柚緒駆 @yuzuo

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