七月二十八日 日曜日 午後

 マガを閉じ込める器をハコと呼ぶ。マガとは災いのことだ。

 たとえば疫病の流行によって大仏を建てたように、故人の祟りを恐れて神として祀り上げたように、日照りの大地で雨乞いのために社を建てたように、祈りを込めて厄災を封じる器をハコと呼んだ。

 それがいつしか災いだけでなく、悪意や邪心さえも閉じ込めて隠すための器となっていった。

「つまるところ、人間の心の一番汚いところにあって、それでいて、もっとも鮮やかな光を放つ欲望のことだよ」

 そう言いながらマヤさんは井戸水を溜めた桶に西瓜を入れた。水は桶から溢れることなく満ち足りていた。

「封じた厄災を放つというのは何も不思議なことではない。悪事を働いた鬼を閉じ込めたものの、やがて反省した頃合いに出してやる。そういった寓話は世界中にありふれたものだよ。器にも許容量というものがあるのだから、無限に溜めておけるわけでもない。溢れだす前に解き放つのが賢明だ」

 マヤさんの話に、僕はハコの起源については納得した。マヤさんが西瓜を押し込むと、水は溢れて庭の雑草に潤いを与えた。真夏の太陽に水滴が眩しく光った。

 昼までにスッキリさせようと、篤志が庭の草を刈っていた。小型の草刈り機が唸る。ご近所さんの誰かから借りてきたらしい。開拓みたいで楽しいと言って篤志は乗り気だったが、それが本音なのか、僕に気を遣っているだけなのか。鮮やかな草の匂いがした。

 僕は原稿を書いていた。マヤさんが滞在しているうちに渡しておきたかった。昼過ぎには発つという。中郷のほうは倒木で通行止めになっているため、線路沿いを更に山奥へと続く道を帰らなければならない。山さえ抜けてしまえばバイパスにすぐ繋がっているので、そちらのほうが案外早いかもしれないな、マヤさんはそう言ってスマートフォンの地図を見せてくれた。

「ハコになってしまったものは、今更どうしようもないだろう。別の器に移すとしても、まずは今のハコを開かなければならない。祭を待つしかないな」

 マヤさんの言葉に僕は同意しても良いものか戸惑った。

「呪う方法があるのならば、祓う方法だってあるだろうさ。そうでなければ間抜けな儀式だよ」

 罰当たりな発言だったな、とマヤさんは笑い飛ばした。

 僕がひたすら原稿に向かっている間、篤志とマヤさんは庭の草刈りをしてくれた。ふたりが外に出ていると、部屋の隅に座敷童の気配があった。居たのか、と僕は横目で輪郭だけを捉えた。

 この座敷童の正体もよく分からないままだ。脅かしてくるわけでもなく、驚くような幸運をもたらしてくれるわけでもない。少し離れたところからこちらを窺っているだけだ。守ってくれているのかもしれないが、襲い掛かる機会を待っているだけかもしれない。

 そもそも、これが本当に座敷童かどうかさえ怪しいのだ。僕にでも分かる行動を示してくれなければ、あるいはこのままずっと、さほど気にも留めない生活を送るだろう。

 気が付いた時からすでに始まっていて、自分の力ではどうすることも出来ないまま、そういうものかと諦める。

 この身体を蝕む病だって、僕は名前も知らない。それが本当に呪いなのかどうかも分からない。

 諦めてしまえば、楽になれる。考えることを投げ出せば、まだ息が出来るのだ。

 正午を過ぎた頃に原稿が書き上がった。草むらだった庭は見違えるほど綺麗になっていた。汗だくになった篤志はバタバタと風呂場へ向かい、マヤさんはタオルを井戸水で絞り、流れる汗を拭った。

「亡き祖父との思い出話か。いいね、今までの白岡夕凪が書いたことのない物語だ。夏の終わりか秋の始まりに載せたいな」

 マヤさんは原稿用紙をパラパラと捲った。

「幾つか小話に分けて連載形式にしてみても良いかもしれない。そのほうが先生も次の原稿まで時間が稼げるだろう。うん、その方向で編集長に掛け合ってみよう」

 お願いします、と僕は頭を下げた。勿論だとも、とマヤさんは頷く。

「それが私の大事な仕事だ。白岡夕凪はうちの稼ぎ頭なのだから、頑張ってもらわないと」

 悪戯っぽく笑うマヤさんが僕の頭をくしゃくしゃと撫でた。だが、急に真面目な表情に変わったかと思えば、僕の両肩を強く掴んだ。

「涼弥君。私は君の綴る言葉が好きだよ。白岡夕凪が自由に駆け回る姿が好きだ。この先たとえどんな結末が待ち受けていたとしても、君は、君の言葉を吐き出し続けなさい。いいね、私との約束だ」

 その時、マヤさんは一体、どんな未来を予感していたのだろうか。

 井戸水で冷やしていた西瓜を食べて、マヤさんは帰っていった。あとに残されたのは、加湿器と、段ボール箱いっぱいのファンレター、それからいくつかの土産物だけだった。

 座敷童が柱の陰から僕のことをじっと見詰めていた。


 バケツに張った井戸水の中に両足を突っ込んで、篤志は濡れ縁に座っていた。僕はそのすぐ傍の畳の上に寝転んでいた。

「戻らねぇなぁ、電源」

 日が高くなって気温がぐんぐんと上がっていた。北向きの玄関側でさえこの暑さだ。夏祭りの団扇をパタパタと仰ぎながら、うんざりした様子で篤志が唸る。時折、思い出したように僕へ生温い風を送ってくれる。熱が出ているように感じるが、高いのが体温なのか気温なのか区別が付かない。

「弐羽先生のところ、また木曜日でいいか?」

 篤志が僕に尋ねる。本当に行かなきゃならないか、と僕は渋った。

「あの人、怖いんだよ」

「医者が怖いって、子供か」

 呆れたように篤志は笑った。だが、篤志には悪いが、僕は本当に弐羽先生のことが恐ろしいのだ。怖いのは胡散臭い見た目でも、怪しげな言動でもない。見えない心が怖い。あの人は僕の味方ではないと僕の本能が訴える。信用出来ないし、信頼も出来ない。弐羽先生か柏木さんのどちらかと二人きりで残されるならば、僕は迷わず柏木さんを選ぶだろう。無機質で無表情な柏木さんのほうがよっぽど安心出来る。僕は弐羽先生の言葉を覚えている。あの人は僕にこう言ったのだ。

 君はよくこの町に戻ってきたねぇ。

 あの瞬間、僕は選択を誤ったと思った。勿論、弐羽先生のおかげで知り得た情報は数え切れない。だが、いけない、弐羽先生は駄目だ。恐らくは本当のことを言っていただろう。僕たちへ与えた情報に嘘はないはずだ。しかし、大事なことを話してはいない。隠し事があるはずだ。

 僕が弐羽先生に対して抱いているのは、不信感ではない。これは恐怖心だ。それこそ取って食われるのではないかといった身の危険を感じている。何らかの理由があって弐羽先生と対峙することとなっても、僕は絶対に敵わない。たとえこの身体の不調がなくとも、僕は飲み込まれるだろう。

 この不安を篤志に告げることは出来ない。僕にとっては警戒の対象であっても、この町にとっては大切な医者だ。だから、この町の人には伝えられないのだ。篤志はこのまま僕が医者嫌いだと思っていてくれればいい。

「篤志の都合に合わせるよ。店のこともあるだろうし」

「どうとでもなるさ」

「駄目だ、こっちが気を遣う」

 僕がそう言うと、篤志はまるで初めて気が付いたような顔をした。篤志が不思議そうに言う。

「もっとワガママになってもいいのに」

「僕はもう充分に我儘だよ。これ以上、甘やかしてどうなる」

「そうは言っても、リョウちゃんの体調じゃ、出来ることだって限られるだろう」

 篤志のその言葉に僕は起き上がった。

「同情しないでくれ」

 自分で思うよりもずっと鋭い口調になった。ごめん、そんなつもりじゃなかった、と篤志は呟くように言って俯くと口ごもった。ナイフのように尖った言葉が篤志を傷付けた、その自覚はあった。これだけ散々他人の思いやりに支えられておきながら、出てくる言葉がこれかと、自分でも情けなくなる。けれど、だからと言って、可哀想だなんて思われたくない。

 一般的と称されるためには枠の中に収まっていなければならない。僕の体質は明らかにその枠から外れている。医者には匙を投げられて、同級生たちには気味悪がられて、先生たちにとってはお荷物だ。自分ひとりでは何も出来ないというレッテルを貼られて、僕が何かをしようとする前に止められる。黒岡はやらなくていいから、黒岡はそこで見ていなさい、誰か黒岡と代わってやれ。

 ああ、確かに僕は元気からは程遠く、健康とは縁がなく、さぞかし無力に見えるだろう。けれども僕にだって出来ることがあるし、やってもみないうちから決めつけないでほしい。

 挑戦もしないままに挫折させないでくれ。

 僕は畳の目を見詰めてギリリと唇を噛んだ。

「リョウちゃん」

 篤志が僕の名前を呼んだ。僕は顔を上げて篤志を見た。

「ごめん、そんなつもりじゃなかったんだ。だから、泣かないでくれ」

 泣いていないと返すのが精いっぱいだった。けれども言葉を吐き出したことで堰が切られ、僕はわぁっと泣きだした。自分でも情けなくなるほどに泣いた。

 ずっと苦しかった。ずっと悔しかった。こんな身体でなければと両親に対する理不尽な怒りも抱いていたし、兄に対しては弟の世話を焼く面倒見の良い兄を演じられるだろうと思っていたこともある。自分よりも不幸な人間が居ることはさぞや安心出来るだろうと周囲を嘲笑していたし、こんな無様な姿で生きている意味などないと屋上の手すりに足を掛けたこともある。

 学生時代の楽しかった記憶はひとつも思い出せない。そんなものがあったのかどうかさえ不確かだ。殆どが保健室ばかりで、あの白いベッドに天井、薄い緑色のカーテン、遠くから聞こえてくる生徒の声、消毒液の匂い。

 気が付いた時には、この身体で生きていた。何をしても良くなることはなく、精密検査を三度も受ければ、子供ながらにも諦めるしかないことを理解した。僕は諦めることを覚えたのだ。だから、枯れた植物にどれほど水を注いでも二度と花開くことなどないように、僕に対する優しさにも意味はない。僕に優しくすることで、親切な人として見られたいだけだろうと、ひねくれた見方をしていた。

 そんな自分自身が憎くて仕方がなかった。何よりも誰よりも自分のことが嫌いだった。

「ごめん、ごめんなさい」

 誰に宛てた言葉なのかさえ分からないまま、僕はただひたすらに謝っていた。そんな僕の背中を篤志の大きな手がさすっていた。まるで泣き止まない子供をあやすような手つきだった。

 そうか、僕は大人にはなれなかったのか。そう思うと涙が止まらず、しゃくり上げながら泣いた。悲しかっただけではない、悔しかっただけでもない。淋しかった。誰にも共感してもらえないこの命で生き続けることが、どうしようもなく淋しくかった。僕の立つ場所はひどく寒いところだった。


 電力が復旧したのは午後六時過ぎだった。夏の太陽はまだ空に残っていた。

「人目を避けたいのなら、やっぱり木曜日にしよう。それに、木曜日は店も配達も暇だからな」

 玄関先で篤志が言った。

「困ったことがあったら、いや、まあ、人恋しくなったらでもいいよ、気軽にオレを呼んでくれ。オレはお節介で、バカなんだよ。リョウちゃんのこと、かわいそうって思うより、一緒に遊びたい、笑いたいなぁって気持ちが先に来る」

 僕に向き直って篤志が笑う。小学生みたいだろ、と。

「オレにはリョウちゃんを健康にはしてやれないけれど、顔を見に来て話をするくらいは出来るよ。じゃあ、またな」

「うん、ありがとう、気を付けて」

 篤志の車が去ってゆくのを僕は泣き腫らした目で見送った。六時を過ぎても暑さは残り、風鈴が音もなく揺れていた。

 僕は洗濯機を回した。それから冷蔵庫の中身の無事を確かめる。

 誰も居なくなると、座敷童は戻ってきた。姿かたちがハッキリと見えないのは相変わらずだったが、以前よりも近くまで寄ってきているように感じる。

「君は僕なんかを観察して楽しいのかい」

 僕は障子の裏に居る座敷童に尋ねた。返事はなかった。そういえば自己紹介もまだだったと、僕はふとそんなことを思い出した。

「はじめまして、僕は黒岡涼弥。ここに住んでいた黒岡鉄平の孫だよ。今はこの家の名義は僕、税金や光熱費も全部僕が払っている。いや、別にそういう話をしたいわけじゃなくて」

 話を切り出してみたものの、僕は何を言えばいいのか分からずに、何故か金の話をした。この家にかかわる諸々の費用。遺産のこと、税金のこと。こんな田舎の古い家なんか不要だと言った親戚たちの手から、祖父の思い出を守るために、必要だった資金のこと。

 白岡夕凪が生み出した金の大半は、この家のために消えた。残りは今までの僕の治療費として両親に渡した。そうして僕の手元に残ったのは、この家と、僅かな金だけだった。

「正直なところ、こんなにお金が必要だとは思っていなかったんだ。でも、この家を残せて、それで、自分で書いた小説が本になって、それで稼いだお金が、家になって、その……僕にも出来ることがあるんだなぁって、思ったら、僕は」

 死にたくない。

 今ならそう願うことが出来る。

「お金は、また手に入る。だけど、この家を手放したらもう二度と戻れないような気がした。じいちゃんと過ごした日々を思い出せなくなるような気がしたんだ」

 生きているのが不思議だと医者も首を傾げた自分よりも、先に死んでしまった祖父。僕は祖父の死を受け入れられないのと同時に、自分の生も受け入れられずにいたのだと思う。

 広い家に、祖父が生きた証だけが散らかっていて、そんな場所で僕がまだ、生きている。そのことがどうしようもなく理不尽なことのように思える。淋しい。

「……じいちゃんがここに居てくれたら」

 今頃何か変わっていただろうか。けれど、何かって、何だ。

 障子の向こうの人影は、いつのまにか消えていた。座敷童も愛想を尽かして去ったのだろうか。どこかへ行くのならば、里見酒店へ行ってくれ。はじめのうち篤志は怖がるだろうけれど、きっと大事にしてくれる。

 行け、行ってくれ、頼むから。僕を光から遠ざけて、冷たい場所へ置き去りにしてくれ。

 そうでなければもうきっと、失うものの重みに耐えきれなくなるだろう。

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