七月二十八日 日曜日 午前

 摩耶有美子という人は、僕の人生を拾い上げてくれた人だ。

 マヤさんの誘いを僕は何度も断っていた。同級生に言われて書いただけの小説だ、文学の世界で生きていけるはずもない。体調のこともある。僕には無理だと、何度も断った。それでもマヤさんは引き下がらなかった。

 少し不思議かもしれないが、マヤさんは僕のことを一度も才能があるとは褒めなかった。光るものを持っているとも言わなかったし、僕なら出来るともおだてなかった。

 ゆっくりとしたジャズの流れる喫茶店でマヤさんは怯える僕の手を取り、こう言ったのだ。

「私に君を小説家にさせてはくれないか」

 その言葉が決め手となったように記憶している。そうして僕は残りの人生をマヤさんに預けることを決めた。白岡夕凪をマヤさんは自分の思う通りに導けばいいのだ。

 海風と陸風の狭間。風のない夕暮れ、夜の訪れ。白岡夕凪は、そこに居る。

 マヤさんの思惑通り、僕が大学四年生の夏に、白岡夕凪は文壇デビューを果たした。謎の美少女作家は世間の話題を颯爽と攫っていった。日本中が白岡夕凪という幻想の虜になった。その裏には数多の駆け引きが絡まっていたのだろうけれど、ついに僕がその全貌を知らされることはなかった。

「先生はただ、先生の言葉を紡ぐだけでいい。大人の事情を考えることは白岡夕凪の仕事ではないんだよ。それは君を小説家にすると約束した私が引き受けるべきものだ」

 出版社の会議室でマヤさんは僕を諭した。白岡夕凪が締め切りを必ず守るのは、マヤさんがスケジュールを綿密に調整してくれてきたからだ。その手腕は見事としか言いようがない。

 僕はマヤさんの筋書き通りに白岡夕凪を演じ続けてきた。今までもこれからも僕は白岡夕凪であり、白岡夕凪は僕だ。

 だから白岡夕凪が文壇を降りる時、僕の人生も終焉を迎えるのだろう。


 緩い風に意識を取り戻した。ぼんやりとしていた視界は暗い。時間の感覚がなかった。酷い熱が出ているらしい。頭の奥がガンガンと鳴り響くように痛む。呼吸は荒く、全身に力が入らない。意識だけが身体に残っていて、感覚はどこかに置いてきてしまった。たとえば今、両足を切り落とされたとしても、僕にはそれさえ感じられないかもしれない。

 僕は寒さを感じていた。凍えて震えそうなほどに寒い。気温が低いわけではない。熱が高いからでもなさそうだ。冷気を漂わせる冷たいものが傍にあるようだった。暗闇の中、首も動かせない僕にはその正体が分からない。僕は必死に寒気を耐えていた、それしか出来なかった。

「目を瞑って」

 誰かが耳元で囁いた。自分の意志とは関係なく、僕の眼は閉じられた。

「いい子だ」

 誰かの囁きに僕の意識は朦朧として、やがてゆっくりと闇に落ちていった。


 差し込んだ朝日に目を覚ました。余りの眩しさで頭がくらくらとした。酷く気分が悪い。僕は手で口を押さえた。畳に手をついて立ち上がろうとしたが、腕がガクガクと震えて全く頼りにならない。這いずるように布団から出て、廊下まで辿り着いたが、そこで堪え切れずに吐き出した。

 ボタッと真っ黒な塊が落ちた。それをどうやって吐き出したのか憶えていないが、拳ほどあるそれは少し濁った白い胃液の中で不気味に蠢いていた。その辺に落ちている石ころのような形をしていたが、脈打ち、小刻みに震えている。

 僕は壁にもたれかかるようにしてへたり込み、もぞもぞと動く黒い塊をぼんやりと見ていた。唾液と胃液の混ざった体液が、口から溢れて首を伝っていた。

 何だ、これは。生き物なのか。こんなものが自分の胃の中に入っていたのか。気持ち悪い。いつから僕の中に居たんだ。

 怖い。

 僕はふらつきながら出来る限り後ずさり、それから距離を置こうとした。だが、それは僕のほうへとズルズルと近付いてきた。這いずる僕と、這い寄るそれ。声を出そうにも僕の口から溢れ出るのは体液だけだった。

 ゴボゴボと水音を立てる黒い塊から小さな腕が生えた。同じように脚も生える。それは四肢を手に入れた。ゆっくりとこちらに向き直る。今にも飛びかかろうと前屈みになった。明らかに僕の存在を捉えていた。

「ひっ」

 僕はそれから逃げようと身をよじったが、力の入らない手足がずるりと滑り、床に突っ伏してしまった。それはビチャビチャと近付いてきた。もう駄目だと僕が手で顔を覆った時だった。

「ギャプンッ!」

 それは甲高い奇妙な鳴き声を上げたきり、静かになった。僕は恐る恐る顔から手を降ろした。不気味な黒い塊の姿はなく、黒い水溜まりが廊下の板張りの床に広がっていた。その水溜まりの中に、裸足の篤志が立っていた。

「うっわ……」

 篤志はゆっくりと片足を上げた。粘り気があるらしい。篤志の足の裏に黒い糸を引いた。「気色悪ぃ……」

 心底不快なのだろう。篤志は眉間に皺を寄せていた。篤志は僕を見た。

「何だよ、これぇ」

 その質問はもっともだが、僕だってそれが知りたい。

「分からないよ、でも、僕が吐き出したものだ」

 僕がそう言うと、篤志は困っていた。ひとまず僕は篤志に引きずられて洗面所に連れられた。歯を磨き、顔を洗って、着ていた服は洗濯機の中に放り込んだ。そうはいっても、寝間着のTシャツを別のTシャツに着替えただけだ。篤志は風呂場で足を洗っていた。僕ももう少し具合が良くなったらシャワーを浴びたい。汗やら何やらでベタベタだった。

「リョウちゃん、果物なら食べられそうか?」

 足を拭きながら篤志が尋ねた。

「うん、ありがとう」

 僕は洗面所の窓から外を見た。昨日の荒天が嘘のような青空が広がっていた。僕は雑巾を絞って床を拭いた。篤志は代わると言ってくれたけれど、僕は断った。電気はまだ復旧していなかったけれど、窓を開け放てば光と風が入ってくるから問題はなかった。

 廊下の先に座敷童が立っていた。久しぶりだな、と僕は心の中で声を掛けた。

 掃除を終えて台所に行くと、篤志が桃を剥いていた。コンロでくつくつと味噌汁が温められている。

「マヤさんは?」

「朝のジョギング。南さんとこの源三郎と一緒だったから、ありゃ小一時間は帰ってこねぇな」

「源三郎?」

「犬だよ、賢いぞ。電気がいつ戻るか分からねぇから、卵、腐る前に使っていい?」

 篤志はだし巻き卵を作った。あまりにも手際が良かったので、僕がわけを尋ねると、篤志は少し照れくさそうに笑った。

「高校の調理実習で玉子焼きを作った時にハマってさ、毎日練習したんだよ。作れるってオレが自信をもって言えるのは、これだけだな」

 僕は桃を食べた。向かいに座る篤志は和朝食だった。台風で荒れた庭の片隅から座敷童がこちらを窺っていた。マヤさんが居ない時には遠くから姿を見せる。マヤさんのことが苦手なのだろうか。

「桃、好きなんだな」

「あー、うん。果物では一番好きかも。でも都会で出回る桃は高いだけだ、だからあんまり食べない」

「違うのか?」

「そりゃあ、産地に近付くほど美味しいよ」

「まあ、そうか。ここだって野菜や果物は安くても、海の魚は高いもんな」

 そう言って納得した篤志は味噌汁を啜った。

 昨日の夜、僕が気を失ってからどうなったのかを僕は篤志に尋ねてみた。

「それが結局、正体は分からずじまいってやつだ。あれだけの音で、それでも何もなかったんだ。マヤさんは妖怪の仕業だとか言って、いたく興奮していたなぁ」

 篤志の答えに、マヤさんらしい僕は思った。呆気ない結末だが、何もなかったことは喜ぶべきことだ。きっと、何かあってからでは遅いのだから。

「電気はいつ復旧するんだろう」

「普段通りなら今日の夜には戻ると思う。三年に一度くらいか、町のどこかが停電するんだよなぁ」

 そのあとも篤志は先程踏み潰した黒い塊については聞いてこなかった。僕も自分からは何も言わなかった。なかったことにしようとしているのだろうか。思い出したくもない。自分の中にあんなものが居たのだ。さすがに僕だってショックを受けている。


 残念ながら、あの黒い塊は一匹ではなかった。


 食べたばかりの桃を吐いた僕はトイレにうずくまっていた。ああ、桃が流れてゆく、なんて悲しいんだ。

「ずいぶんと……ひどいな」

 僕はもうあの黒い塊を三匹吐き出したあとで、胃液も出なくなった僕の背を篤志がさすってくれていた。地球外生命体に寄生されて卵を口から吐き出す映画のワンシーンを思い出した。最初のうちは苦しかったのだが、次第に苦しさよりも腹立たしさが増してきた。人の身体に断りもなく入っておきながら、なぜ吐き出されて襲い掛かってくるのか。僕はこんな化け物に自分の身体を貸し出した覚えなどない。

 ガマガエルみたいで気持ちが悪いと言いながら、篤志は素手でそれに触れようとしていた。どうやら篤志は幽霊やゾンビのように、形のないものや死者のことを怖がっているのだが、相手が生きているものであればそれほど怖くはないらしい。篤志とは逆に、僕は生きているもののほうが怖い。ハコの呪いや座敷童よりも弐羽先生のほうがずっと恐ろしい。

「ただいまー」

 マヤさんが長い散歩から帰ってきた。

「おはよう、先生。親切なご近所さんが西瓜をくれたよ。気分は聞くまでもなさそうだね」

 マヤさんは洗面所に顔を出し、僕の様子を確認して、おやおやと肩をすくめた。

「ハッピー田舎暮らしで先生の体調も少しはマシになるのではないかと期待してみたけれど、どこで生きようと同じらしい。根本的な原因を排除しなければ、ずっとこの調子なのだろうね」

 西瓜を抱えていたマヤさんは、自分の中で勝手に納得し、何度も頷いていた。原因をどうにか出来るのなら苦労はしない、などと僕は言おうとしたが、言葉の代わりに口から出たのは黒い塊だった。これで五匹目だ。そいつは床にべちょっと落ちて、もぞもぞと蠢いた。

「ひゃー! 何だそれは!」

 抱えていた西瓜を抱き締めてマヤさんが後ずさる。

「未確認生物?」

 篤志が素早い動きでそいつを捕獲した。だから、素手で触るなって。

「ええい、見せなくていい、こっちに寄越すんじゃない!」

 篤志の手の中でそれはまるで水風船のように弾けて消えた。ねばねばとした黒い液体が篤志の手を真っ黒に染めた。

「待て、絶対にこっちへ近付くんじゃないぞ、まずは手を洗え、手を。指紋が消えるくらいよく洗うんだ」

 マヤさんは必死に篤志を遠ざけた。その様子があまりにもおかしくて僕は力なく笑っていた。篤志が手を洗っている間にマヤさんは僕の元へやって来た。

「先生、いよいよ化け物染みてきてしまったね」

 酷く悲しそうにマヤさんはそう言った。

「はじめからずっと人間ではなかったじゃないですか」

「言い得て妙だな」

 それでも、とマヤさんは僕の傍らに屈んだ。

「私は白岡夕凪が密やかに悠々と暮らせることと同じくらい、黒岡涼弥の平穏無事を祈っているよ。先生、私とて畦道をただ犬と走ってきたわけではないんだ」

 マヤさんは僕と、篤志を見遣って、それから告げた。

「ハコについて尋ねて回った」

 嵐の去った清々しい朝に、マヤさんの声は透き通って響いた。

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