暑い日の帰り道

 私の家はとある山麓の町にあった。小さな喫茶店を営む父母の暮らしは香ばしい珈琲の薫りにつつまれてのんびりとしており、その間に生まれた私もまた呑気な性質をほしいままにしていた。地元の小学校に通い、人見知りながらも友と戯れ、わかりもしない数学の勉強に苦言を漏らし、時たま庭に訪れる猫に餌をやる。勉強は全般嫌いであったが図工の時間だけは別であり、授業で使う粘土版を持って帰ってきては大して意味のない粘土細工の量産に心を砕く。

 長閑で安穏という言葉以上に表し様のない程に起伏の無い幼少期を私は過ごしていた。

 八歳だか九歳だか――ある夏の日のことである。夏休みにも入っていない、何の変哲もない平日である。その日は私の住む地域にしては珍しく摂氏三十五度を超える猛暑日であり、下校の時間になっても空気が冷えなかったのを不満に思ったのをよく覚えている。母に持たされた布製の鍔広帽を目深にかぶってもいても、道を舗装するコンクリートに照り返した日光が容赦なく私の目を焼いた。体中から汗を流し、ふうふう言いながら友達と一緒に私は帰り道を歩いた。

 「ぶっちゃ、今日は暑いな」

 幼馴染の汐子ちゃんが麦わら帽子を弄びながらぶっきらぼうに話しかけてきた。「ぶっちゃ」というのは私のあだ名である。

 汐子ちゃんは髪が長いから私より一層苦しそうである。汗が額からぷっくりと浮きあがり、頬につたっていた。

 「うんっ」

 私は朦朧としそうになる頭をなんとか正常に保とうと、汐子ちゃんに向かってゆっくり頷いた。汐子ちゃんはこちらに顔を向け、手の中にあった帽子をかぶり直す。

 汐子ちゃんのつややかな後ろ髪は肩を超して肩甲骨のあたりまで届いていたため、帽子をかぶった彼女を正面から見てしまうと影が濃すぎてちょっと怖い。切れ長の瞳は不機嫌さを隠さない半眼になっている。眼光の鋭さ二割増しで、尚更近寄りがたい雰囲気だ。

 白いワンピースを着ているから、そこが可愛いらしいのが救いだ。

 「あんた、大丈夫なの?」

 汐子ちゃんが小首をかしげながら覗き込んできた

 「うん……」

 「ちょっとお、ちゃんと学校出る前に水のんできたの? 先生言ってたじゃん。『ネッチュウショウになっちゃうから気をつけてね』ってさ」

 私を責め立てるように、汐子ちゃんが語気を強めて言った。避暑地として有名なこの地域では、夏でもクーラーの必要のないくらい快適な気温になることが多い。だからか水筒を持ってくるという機転を利かせられる児童や親も少なく、私もその一人であった。

 朝方はまだ涼しい方だったのだから仕方がない。近年叫ばれる異常気象というものなのだろう。

 数百円でも持っていれば自動販売機でジュースも買えたのだろうが、生憎公衆電話で数十分話す程度の小銭しか持たされてはいなかった。小学生にお金を持たせて登校させる親はまずいない。この町は田舎なのである。

 「飲んできたもん」

 負けじと言い返すと、汐子ちゃんは「あっそ!」とふたたび前を向いた。心配してくれた事には、二拍遅れて気が付いた。今更お礼を言うのも恥ずかしいし、なんのことやらと首を傾げられるのも気まずいので黙ることにする。

 しばらく無言で歩く。私も汐子ちゃんも饒舌な方でない為、こうした沈黙は珍しくなかった。しばらくしてあぜ道に入ったので、視界のとげとげしさは大分和らいだ。

 以前、のろのろと吹き付ける熱風が私たちを煽っているのだが。

 「雨でも降ればいいのにね」

 私がぽつりとそう言うと、汐子ちゃんは否定した。

 「長靴はくのたるいから、あたしは嫌だ」

 「だって、涼しくなるよ」

 「おとうさんが言ってた。最近の雨にはかんきょーオセンで酸性雨になっちゃって、女の子でも男の子でも髪の毛がはげるってさ。だから降らない方がいいんだ」

 「大丈夫だよ、この辺は山だらけでいったん空気が洗われるからカンケーないっておかあさんが言ってたもん」

 「そんなわけないだろ! 空は山より高いんだぞ! とにかく雨がふるのはイヤ!」

 「雨降らないと農家のひとが困るし、野菜が食べられなくなっちゃうよ」

 「湧水でも汲んで蒔けばいいだろ」

 「雨だったら人の手の届かないところにもまんべんなく水がいきわたるよ」

 「それでもあたしが外に出るときは降らないで欲しいんだよ」

 お互い聞きかじった知ったかぶりの知識で討論――というより、私の一方的な雨の擁護と化していたが――しながら歩いていると、あっという間に汐子ちゃんの住むマンションの前までついてしまった。エントランスが広く、四階建ての豪奢なマンションである。パステルカラーの黄色い壁が、夕陽に照らされて赤く染まっている。

 私はこの先神社や公園を通り越し、ヤノサキ商店街まで歩かねばならない。

 「ちょっと、待ってて」

 汐子ちゃんはマンションの入り口で私を引き止めると、走って自分の部屋まで行ってしまった。数分して、ラベルのはぎ取られた一本のペットボトルを握ってこちらへやってくる。

 「麦茶」

 私に持たせると、汐子ちゃんはえらそうに腕を組んだ。

 「持って行きなよ。喉かわいてるんでしょ」

 どうやら市販の物ではなく、空になった五百ミリのペットボトルに新しくお茶を補充したものらしい。水筒を用意するよりも簡単なので、私の家でもよく使う手段である。

 「いいの?」

 「今更、なんだよ」

 汐子ちゃんは私に麦茶を与えることを、さも当たり前のように感じているようだ。

 「そう。ありがとう」

 心の中では先程の心配のお礼も兼ねて、私は礼を述べた。

 早速ひとくち飲むと、甘い様なほろ苦い様な麦茶特有の味が口いっぱいに広がった。冷蔵庫の中にあったのか、麦茶は食道をスーッと冷やしながら通っていった。その感覚がもういちど欲しくて、一気に半分くらいまで飲んでしまった。

 「おいしい!」

 飲み口を離して言うと、汐子ちゃんは満足そうに頷いた。

 学校から汐子ちゃんの家まで三十分ほど掛る。日が長いとはいえ、この三十分で少しは日が傾いたらしく、先程よりは若干風が涼しくなってきた。汐子ちゃんから麦茶というアイテムをゲットしたため、私の疲れはすこし回復している。視線の先に陽炎が見えなくもないが、麦茶を飲みながら歩けば楽しいものだと帰宅を再開する。

 先程まで汐子ちゃんとなんだかんだと騒がしかった為、ひとりになった途端に落ち着かない気分になる。汐子ちゃんといると不思議である。黙っていても喋っていても自然体なのだ。私は人付き合いが苦手な方で、人と話すよりは粘土をこねている方が気が楽だった。けれど、汐子ちゃんだけは一緒に居ても苦しくならない、唯一の同年代の友達なのである。

 一緒にいれば楽しい。一緒に居なくても不安にならない。そう言った関係が、強い絆で結ばれている「信頼関係」という名のつくものなのだと知るのは、もっと先の話である。


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