第18話 「盲目の戦士」

 礼一少年が孤児院へ帰ったのはその日の夕方のことだった。太陽はもうその姿を地平線の下へ隠し、空に赤く跡を残すのみになっていた。その跡が消えてしまうよりも先に礼一少年は帰りに報告に寄ったミヤシタ商会から孤児院への帰り道を急いだ。体は戦闘の高Gで傷みかつ痛み、疲れは足の動きを鈍化させるばかりだったが、それでも自分がヨハナのために働くという中の大きな一歩を踏み出せたことが彼の足を進ませた。無事で帰ってこれたという充足感もそうだ。とにかく、彼女に自分が生きて帰ってきたということを見せたかったのだ。


 もちろん、死んだり死なせたり殺したり殺されそうになったりしたことは内緒にしなくてはならないが、それは行きにも似たようなことをやったところだ。ヨハナはそれを望まない。嘘自体も、それで隠そうとした事実も、彼女は嫌っている。もし真実を知ったならどうなるだろう、などとは、礼一少年はまだ考えたくなかった。それに、考えたところでどうなるものでもあるまい。


 が、これは彼女が今のまま生きていくためにはどうしても必要なことだ、と、彼は考えていた。その暮らしを含む彼女全てを守るためになら、例え悪魔になってでも神に仕える彼女に尽くすのが彼の理屈であった。


「ただいま帰りました……先生」


 彼は、例のごとく、聖堂だか何だとかいう場所を訪れた。ドアが半開きになっていたから、多分ここだろうと踏んでここに来たのだった。そして、やはり例のごとくヨハナはここにいた。清流のごとき風格の金髪を頭巾の隙間から背中に垂らし、その神々しさながらも謙虚に跪き、神に熱心に何かを祈る姿は何度も見たものではあったのだが、礼一少年に改めて生の実感を与えるのには充分だった。彼は胸が一杯になった。その感情の名前を彼は何度も味わっているはずなのにまだよく知らなかった。


 感情で満たされている礼一少年と対照的に、ヨハナはピクリと一瞬震えた後、ゆっくりと振り返って、いつものように「お帰りなさい」と言った。


「お帰りなさい――よかった、無事だったのですね」


 一瞬、バレたのかと思わせる台詞だった。しかし礼一少年はすぐにヨハナとミヤシタとは犬猿の仲であり、特にヨハナはミヤシタのことを(商人などを嫌う教義的な理由もあって)悪魔のように考えているのを思い出した。それでも少しピクリとしたのを誤魔化すように、彼は苦笑いをした。


「そりゃあ、ミヤシタさんだって本当の悪魔じゃあありませんよ」


「それはそうかもしれませんが……でも、私の本心として、です」


 ヨハナがするすると礼一少年に近づいた。彼女は実は礼一少年より十センチほど身長が高い。サバッジ人は「元の世界」では所謂ゲルマン系なのだろうから、皆こうなのだろう、と礼一少年は考えていた。その彼女は彼の目の前まで来ると、そっと彼を抱きしめた。彼女からすれば、迷子だった子供に対してするようなそれだった。礼一少年からすれば――何だったのだろうか。彼にも、恋人へのそれとは違うと分かっていたには違いないのだが、心のどこかではそれを否定したかったようである。


「よく……帰ってきてくれました。アナタは立派な人です。アナタのように人のために尽くすことができる人はそうはいません。私はアナタを誇りに思います。」


 ヨハナの柔らかな体温が質素な布の手触りと共に伝わってくる。彼女の匂いが、やや汗ばんだそれが礼一少年の鼻腔を突く。彼は夏場で暑かったにも関わらずそこに安らぎを覚えた。冬の寒い日に夕日を浴びているかのごとき心地よさであった。先ほどまで死にかけていたのだということを思い出し、こうして人肌を感じることが一体どういうことであるのかを初めて考えた。――これが生命なのだ。


 先ほどまでいた死線の中は、オリカルクムの冷たさしかなかった。操縦桿だけは革が張ってあって手触りが少し違ったがそれだけのことだった。ヘッドレストも穴あきの座席も、もちろん機体そのものも、この生の温かさを感じさせることはなかった。しかし今は布越しとはいえ、微かとはいえ、彼女の心臓の鼓動が聞こえる。魔導エンジンとは違う、非常に有機的な音だ。低く、相応の熱を持った音。何かを分け与える音だ。


 そして、礼一少年はこの温かみのために戦おうと改めて決意を固めた。


 この温かみを作り出す全てが守るべきもので、この温かみを消し去ろうとする全てが敵である。この温かみを守ることのできる全てを尽くそう。


 彼女の戦士として、騎士として、戦おうじゃないか。


 それが彼の生きる道なのだと、今彼が決めた。運命という言葉を礼一少年はまるで信じてはいなかったのだが、彼女との出会いはまさにそれだろう、と彼の人生で初めてそう思った。彼の人生が彩りを持ったのがあの道端での朝だとするなら、意味を持ったのがこの瞬間であった。


 礼一少年はヨハナに少しの間だけ体を預けていたが、その内に年相応の恥ずかしさが現れてきて、彼女から逃れた。彼女は、それを見て微笑み、それから夕飯が出来ていることを礼一少年に伝え、子供たちを呼んできますね、と建物を出た。礼一少年は夕日の紅を塗り替えた月明かりの下、彼女に着いて建物を出た。

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