第13話 「礼一少年の(非)日常生活」

 畑は孤児院から更に郊外に行ったところにある。夏の太陽が燦々に照る中、礼一少年はそこから丁度帰るところだった。実のところ彼は農業のやり方というものを何一つ知らなかったものの、拾われてからの数ヶ月でヨハナから教えられて大体は覚えたのだった。孤児院に少しながらもおいてある書物から学習した分も合わせれば、物理的不足を除けばヨハナの手を煩わせることもなかった。彼の学習成績自体は「元の世界」においてもそれほど悪くなかったのだから、それもまあ当然のことではあるのかもしれないが。


 ――それにしても。


 その鈍いわけではない彼の頭は、一つの可能性――というにはあまりにはっきりとしすぎた予想にこだわっていた。耕地が明らかに小さいのだ。元々は、ヨハナ一人で運営していたと考えても、少しばかり小さすぎるのではないか。そこに子供たちの手伝いを計算に入れると、その小ささが際立つ。


 そして、それに起因するものかは分からないが、あの孤児院が貧窮していることが夜を重ねるごとに分かった。どこの学校にもやんちゃ坊主というものはいるものだが、あの孤児院とて子供の集団という意味では同じなのだから例外ではない。そして、どこの集団においてもやんちゃ坊主のすること(やらかすこと)というのは大抵同じもので――少なくとも、孤児院ではしょっちゅう窓を割るのだった。


 しかし、それが直されるのはかなり時間がかかる。確かにガラス職人というのが中世的な「この世」においてどれほどいるのかは分からないが、街のほとんどの建物にはガラスが張ってあったところを見ると、それほど贅沢品とも思えなかったし、大体、時たま通る車を見る限り、その正面・側面というのはどうしたって窓ガラスにしか見えなかった。となれば、他の理由があるに違いない。そこで彼の考えた理由の一つが、資金難だ。


 しかし、宗教施設なら――しかも国教ともなれば、その本教会から資金がある程度出ないものだろうか、とも、同時に考えるのだった。そもそも、宗教施設ならば、信者が集まるものじゃないのか。そんなものはここ数ヶ月で一人も見たことがない。そりゃ、そのお布施も、「贖宥状」で稼ぐこともできないわけだ(彼女が後者をするはずがないが)。


 何かがおかしい。このままではいけない。礼一少年の思いは、その違和感を知るごとにつのっていたのだ。その上で、彼はヨハナに何も言えないのだった。彼個人の気性がそうさせるのだった。何かおかしなところを見つけてもそれを外には出さないのだ。その認識が間違いだったときの視線は、まさしく彼を貫く針であり槍であるのだから。


 使った道具を所定の位置に戻すと、礼一少年は礼拝堂へ向かった。


 礼拝堂、という言い方が正しいのかは、よく分からない。ヨハナが何と呼んでいたかも、実のところよく覚えていない。聖堂、と呼んでいたような気もするが、気がするだけのことである。とにかく日曜日にはここに来て祈ることさえ知っていれば生きていける。彼女も悪い顔はしない。礼一少年は正直その程度の考えであった。これは彼が不真面目なのではなくて、宗教観が根本的に違う……のもあるのだが、それだけではなくて神の銅像やその象徴物よりも、もっと美しいものに心惹かれていたせいだ。その感情を、礼一少年は何と呼ぶかまだ知らない。


 とにかく、その聖堂だか礼拝堂だかいう建物の中に大抵彼女はいるのだった。でなければ、子供たちの世話をするか街にその日の食品を買いに行っているのだが、この時間なら彼らはぐっすり昼寝をしている、寝かしつけるといつも彼女はここに来るのだ、そう考えてここに礼一少年は来た。そして、そこに彼女はいた。相も変わらず麗しい金髪を携えて、でも見せびらかすわけではなく、そしてただただ熱心に、無心に、ステンドグラスを背負った銅像にひざまづいて、祈っていた。


「先生」


 礼一少年は、孤児たちがそうするようにヨハナのことを「先生」と呼ぶようになっていた。これは単に、彼らの言い方がうつっただけのことだった。彼女を最初にそう呼んでしまった日のことはよく覚えている。たれ目が少し大きく見開かれて、そのあと困ったように目を細めて笑ったのだった。


「……レイイチさん」


 ヨハナは振り返るとそのときのように笑った。そのダイヤモンドの輝きはいつでも礼一少年の胸に残るのだ。


「畑の手入れ、終わりましたよ」


「いつもすみません」


「いえいえ――それよりも、もうすぐ一時間近く経ちますから子供たちを起こした方がいいのでは?」


 子供たちは三時になる前に寝かしつけ、その一時間後ぐらいに起こすのが通例だった。礼一少年も、ヨハナが街に買い物に出るときにはその寝かす役目を仰せつかったことがあるのだが――前世が牧羊犬だったなんてことだけは絶対有り得ないだろうな、と思えるほどの大惨事だった。彼の二度とやりたくないもののリストのトップに割り込んだほどだった。


「そうですね……行きましょうか」


 彼女はそう言って立ち上がると、軽く膝を払って、先を行く礼一少年のすぐ横についた。芳しい自然体の香りが漂って礼一少年の鼻腔をくすぐった。が、それは表情には出さない。


 建物の外に出ると、礼一少年には、木漏れ日に触れたヨハナの髪はキラキラと輝いて見えた。手入れをしている様子はあまり見受けられないから、彼女自身の素質が高いのだろう。


 そして、ふと、それを見て礼一少年はあることに気がついた。


「そういえば、先生は少し髪が他の方と違うように見えますが」


 彼女の髪は金髪なのだが、ここの周辺の人々の髪は黒か茶色が多いことにここ最近気がついたのだ。何ヶ月もここにいることで、「西洋人(もっと言えば外国人)」という括りで見ていた礼一少年の目は少しばかり肥えたのだろう、このぐらいの違いは分かるようになってきたのだ。彼の側としては、彼女の髪を褒めるつもりというか、まあ何となく話題にしようとしただけだった。他人を褒めれるほど、彼は堂々としていない。


「やはり、そう見えますか」


 ヨハナの顔が少し曇った。礼一少年は瞬時に自分が失敗したことを悟った。


「その、すみません」


「いえ、いいんです。事実ですし、いつかは言った方がいいことですから――でも、いつかにさせてください。いつかはお話しします」


 彼女はそう言うばかりだった。礼一少年も、そもそもは聞くつもりがなかったのだから、ここで別段追及もしなかった。ただ、彼個人としては、もしかすると、彼女の金髪が何らかの呪いを持っているとされていて、つまり忌み嫌われていて、それで教会に人が来ず、結果貧乏なのかと考えていた。もちろんこれは大きく間違っていた。


 しかし、それがはっきり明かされたのは彼女の口からではなかったのだが。


 その日の夜のことである。礼一少年は夜遅くに起こされた。というのも、孤児の一人が何を考えたか寝る前に怖い話をしたせいでトイレに行くのが怖いから一緒に来てくれ、とその怪談を聞いていた孤児のある一人が礼一少年の部屋まで起こしに来たのだった。孤児たちは大体四人一部屋で、いくつもそれがあるのだが礼一少年の部屋からはいずれもそれほど近くはない。ならここに来るまでの勇気でトイレに行けばいいだろうに、と礼一少年は思わなくはないのだが、起こされた以上は仕方ない、連れて行ってやった。いくらなんでも自分の部屋の前で「致され」ては困る。


 ――大魔導師、なんて大仰な名前(本名不詳だそうだが)がついている割には、彼もしくは彼女は随分と俗っぽいというか、綺麗好きだったのだろう、とトイレに来る度に礼一少年はそう思うのだった。ルメンシス教国には公衆浴場はもちろん、一家に一台のレベルで風呂があったり水洗のお手洗いがあったりする――つまり、衛生環境がやたらとしっかりしているのだが、その現代的とすら言える代物を誰が作ったかと言えば何と例の大魔導師になるそうだ。大昔のことになるから少しばかり怪しいところもあるようだが、ほとんどの文献でそう記されているようだ。


 歴史上の人物なんて、案外そんなものなのかもしれない、そもそも一人の人間であることには違いないのだから、と礼一少年は考えていると、例の孤児は「仕事」を終えたらしく、少し申し訳なさそうにドアを開けて出て来た。「間に合った」ようではあったのだが、どういうわけか今にも泣きそうだったので、別に仕方のないことだろう、子供の内はよくあることだ、と慰めたら、何とか堪えてくれたようだった。


 礼一少年はその孤児を元の部屋に帰すと、自分の部屋に帰ろうとした。敷地は広くないし建物も大きくないからすぐ戻れるのだが、しかし彼は戻らなかった。応接室の明かりがつきっぱなしだったからである。使った覚えはないが、きっと子供が入って消し忘れたか、ヨハナがうっかりしたんだろう、と考えた。ヨハナはたまにそういうミスをすることがあるのも、ここ数ヶ月で学んだことだった。


 しかし、そこはどうやら無人ではないようだった。ヨハナの話し声が聞こえる――それと、もう一人、男の声だ。


「……ヨハナさん、もう何ヶ月だと思ってんですかね? こっちとしては脅しじゃなく本当に一人ぐらいさらって売り払いたいもんですが」


「あの子たちには罪はないでしょう……! 何故あなた方商人という人たちはすぐ人をお金かそれに準ずるものとしか見ないのですか!」


 男は笑ったようだった。


「子供に罪はない。確かにその通りですな。ご高説の通りだ。なら大人に罪があるわけだ――別にこちらとしては、金を返してもらえれば売り払うのは何だろうと構わないんですよ、最悪、ここを無理やり売り払ったって、ね」


「! 神聖な教会に何ということを……!」


「そんで、神の名において金をちょろまかすってわけですか」


 下劣な笑い方だ、と礼一少年は思った。わずかに体が震えた。拳を全くの無意識に握っていた。


「そうとは言っていません! さっきから何ですか! 神への冒涜です、撤回なさい!」


 あのヨハナがこうまで激高するのを礼一少年は聞いたことがなかった。しかし、男――商人の反応はそれに反して鈍い、というか、それをからかう調子だった。


「あーはいはい、悪かった悪かった撤回しますよ、しますけどね――でも返すもんは返していただかないと、私共もおまんまの食いっぱぐれになっちまいます。私の記憶が正しければ、あなた方の教典に『借金を踏み倒せ』とは書いてなかったはずです、となれば、アナタは神に不誠実であるとしか思えませんがなぁ」


 ヨハナの声は一転して静まった。


「それは――何とかします、何とかしますから、あと一ヶ月だけ……」


「それは先月も先々月も聞いたんだよヨハナさん――大体だ、アンタ、男を何ヶ月か前に道で拾ったらしいじゃないですか、ソイツとはどうなんです、えぇ? ――そんな男を引っ掛ける余裕があるんなら、別に売り払うのはアンタだっていいんですよ?」


「……それは、どういう意味ですか」


「とぼけちゃって……! 男が女に金払ってやることと言ったら古今東西一つに決まって――」


 商人は最後まで言うことができなかった。けたたましい、ドアを開けられる音にかき消されてしまった。開けたのは礼一少年だった。開けてしまったの方が近いのだが。彼はこの会話の何もかもに耐えられなかったのだ。

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